本当はあなたに言いたかった

 噂は、音がしないのにうるさい。
 誰も口に出していないのに、視線と空気だけで「知ってる」と言ってくる。

 朝霧本社の午後は、いつもなら淡々と流れるはずだった。
 けれど今日は違った。廊下の角で止まる会話。エレベーターの中で一瞬だけ消える声。
 結菜が近づくと、みんな笑って頭を下げる——その笑顔の裏で、何かを測っている。

 (……もう、広がってる)

 真鍋の言葉が耳の奥に残る。
 “朝霧令嬢は鷹宮家へ”
 “片岡御曹司と西園寺令嬢はお似合い”
 そんな物語が、勝手に整えられていく。

 結菜は、いつもより背筋を伸ばして歩いた。
 栗色の巻き毛が肩に落ちるたび、そっと指で整える。
 可愛らしい顔に、いつも通りの微笑みを貼り付ける。

 ——崩れたら終わる。
 令嬢として、社長の娘として、会社の“顔”として。

 会議室の前で、玲子が待っていた。

「結菜様、次のミーティングですが……片岡様が急遽同席されるそうです」

 結菜の喉が、きゅっと鳴る。

「……また?」

「はい。先ほど、向こうの秘書の黒崎さんから」

 黒崎。拓真の側近秘書。
 こういう時だけは異様に手際がいい。拓真の“衝動”が動いている証拠だ。

「分かった。入るわ」

 結菜が扉に手をかけた瞬間、玲子が小さく声を落とした。

「……結菜様。フロントの件、社長には報告してあります。ですが、しばらくは社内でも不用意な発言を避けてください」

 不用意な発言。
 つまり——噂に触れるな。見合いに触れるな。片岡に触れるな。

「……うん。ありがとう」

 結菜は頷き、扉を開けた。

 会議室の空気が、重い。
 テーブルの向こうに拓真がいた。
 隣には、陽菜。
 二人が並ぶだけで“正解”の絵が完成してしまうのが、腹立たしくて、苦しい。

 拓真は席に座ったまま、結菜を見た。
 目が鋭い。
 まっすぐで、逃げ場がない目。

「遅い」

 開口一番。
 いつもの拓真だ。

「遅れてない。時間ぴったりです」

「ぴったりって言うのは——」

「五分前? はいはい。聞いたことある」

 結菜は言った。
 言ったのに——いつもなら続くはずの言い返しが、自分の中で止まった。

 (……続かない)

 喧嘩のエンジンがかからない。
 胸の奥が痛くて、言葉が鋭くならない。

 拓真がそれに気づく。
 眉が微かに動く。
 その一瞬の違和感が、結菜の心を揺らす。

「朝霧さん、資料はこちらです」

 担当者が話を進める。
 結菜は視線を資料に落とし、仕事の顔に切り替える。
 数字。条項。スケジュール。
 今の結菜には、そこだけが安全地帯だ。

 会議が始まって十分。
 結菜が論点を整理しようとした瞬間、拓真が横から切り込んだ。

「そのスケジュール、無理だろ」

「無理じゃない。リソースの再配置で——」

「お前、現場見て言ってんのか?」

 いつもなら結菜は噛みつく。
 「見てるに決まってるでしょ」と。
 でも今日は——

「……見てる」

 声が低い。短い。
 棘がない。

 会議室の空気が一瞬止まった。
 陽菜の視線が、結菜の顔にそっと触れる。
 “今のは危ない”と伝える目。

 拓真の顔が、わずかに険しくなる。

「見てるってだけで押し切る気か?」

「……押し切らない」

 結菜は、言葉を選んでしまう。
 選んだ瞬間に、拓真の苛立ちが増すのが分かった。

 ——結菜の言葉は、いつもならもっと刺さる。
 もっと、遠慮がない。
 遠慮がないからこそ、拓真も本気で応戦できた。

 それが今日は、できない。

「朝霧さん」

 拓真が、会議の流れを無視して結菜を呼んだ。
 苗字で呼ぶ声が、妙に硬い。

「なに」

「……今日は、何なんだよ」

 結菜の心臓が跳ねた。

(やめて。今、ここで)

 周囲には担当者がいる。
 噂を知っているかもしれない人たちがいる。
 ここで崩れたら、真鍋の思う通りになる。

「仕事の話をしてる」

「仕事の話じゃない」

「片岡さん、場を弁えて」

 結菜は、丁寧な言葉を選んだ。
 丁寧な言葉は、刃にならない。
 だから、拓真には届かない。

 拓真が笑った。
 笑ったのに、目が笑っていない。

「弁えて? ……お前がそれ言う?」

「何が言いたいの」

「いつものお前なら、ここで噛みつくだろ」

 結菜の胸が痛む。
 噛みつけない。噛みついたら、涙が出る。
 涙が出たら、終わる。

 結菜は資料を閉じ、立ち上がった。

「……休憩にしましょう。続きは十分後」

 担当者たちが慌てて立ち上がる。
 空気が散る。
 結菜は逃げるように会議室を出た。

 背後から椅子が擦れる音。
 拓真が追ってくる。

「待て」

 結菜は廊下に出た瞬間、足を止めた。
 止めてしまった自分が悔しい。止めたら捕まるのに。

 拓真が真正面に立つ。
 近い。
 息がかかる距離。

「……お前、何隠してる」

 声が低い。
 責めるというより、必死だ。

「隠してない」

「嘘つけ」

「嘘じゃない」

 結菜は言い切った。
 言い切ったのに、目が合わせられない。
 合わせたら、負ける。

 拓真が結菜の顎に手を伸ばしかけて、途中で止めた。
 伸ばせない。ここは会社だ。
 触れた瞬間に全部が噂になる。

 その“触れられなさ”が、逆に結菜の胸を痛くする。

「……俺、何かしたか」

 拓真の声が、少しだけ揺れた。

 結菜の心がぎゅっと潰れる。
 違う。拓真が何かしたんじゃない。
 結菜が勝手に痛いだけだ。
 でもそれを言ったら、見合いのことが出てしまう。

「何もしてない」

「じゃあ何だよ。お前、昨日から——」

 拓真が言いかけて、歯を食いしばった。
 いつもなら言い切るのに。
 言えないのは拓真も同じ。
 不器用で、本音が喉で止まる。

「……話せよ」

 拓真が言った。
 珍しく、命令じゃない。お願いみたいな声。

 結菜はその声に耐えられなかった。
 涙が出そうになる。
 だから——

「話すことなんてない」

 嘘をついた。

 拓真の目が、さらに冷たくなる。

「……そうかよ」

 声が低くなった。
 怒りの前に、傷ついた声。

 結菜はそれ以上見ていられない。
 足を一歩引く。
 逃げる準備。
 逃げ癖が身体に染みついている。

 拓真がそれを見て、苛立ちが爆発した。

「逃げんなって言ってんだろ!」

 廊下に声が響く。
 社員が振り向く気配。
 結菜の背中が冷たくなる。

 拓真は声を抑えようとした。
 けれど抑えられない。
 彼の中で何かが崩れかけているのが分かる。

「お前が言い返さないの、気持ち悪いんだよ。……お前が、お前じゃない」

 その言葉が、結菜の胸を叩いた。

 お前じゃない。
 そう。今の結菜は——“令嬢”で、“駒”で、“笑顔”で。
 本当の結菜は、喧嘩しながら拓真に近づくしかできないのに。

 結菜は唇を噛み、視線を落とした。

「……片岡さん、声、抑えて」

 自分の声が震える。
 拓真がその震えを見逃さない。

 目が揺れる。
 揺れた瞬間、拓真の中の“守りたい衝動”が色を変えた。

 ——苛立ちではなく、恐怖に。

「……お前、泣きそうだぞ」

「泣かない」

「泣きそうだろ」

 結菜の喉が詰まる。
 泣きそう。
 泣いたら、見合いの話が漏れる。
 父の命令が破れる。
 会社が揺れる。
 拓真が動く。
 全部が壊れる。

 結菜は笑った。
 笑うしかない。

「大丈夫。私、強いから」

 自分で言って、胸が痛い。
 強いんじゃない。逃げてるだけ。
 でも、その嘘を守らないと生きていけない。

 拓真は言葉を失った。
 拳が、わずかに震えている。

「……強いとか、そういう話じゃねぇだろ」

 拓真の声が掠れた。
 結菜はその声に耐えきれず、とうとう一歩下がった。

「……休憩、終わるから」

 結菜は踵を返した。
 逃げる。
 逃げて、会議室に戻って、仕事の顔をする。
 それしかできない。

 背後で拓真が、低く呟く。

「……守れねぇじゃん」

 結菜の足が、ほんの一瞬だけ止まりそうになった。
 でも止まらない。止まれない。

 結菜は歩き続けた。
 栗色の巻き毛が揺れて、背中に当たる。
 可愛らしい顔のまま、何もなかったふりをする。

 喧嘩が成立しない。
 そのことが、拓真の不安を膨らませていく。
 そして結菜の心は、さらに言えない鎖で締まっていく。