噂というものは、たいてい“誰かの善意の顔”をして広がる。
心配しているふり。気遣っているふり。知っていることを教えてあげるふり。
そして、最初の一粒はいつも小さい。
——たとえば、誰かが言う。
「最近、朝霧令嬢を見ないわね」
それだけで、種は土に落ちる。
結菜はその日の午前、社内の応接フロアを歩いていた。
高い天井、磨かれた床、静かに流れるBGM。
この会社の“格”を示す空間なのに、今日は空気がやけに重い。
理由は一つ。
視線が、いつもより多い。
「朝霧さん、お疲れさまです」
すれ違う社員が頭を下げる。いつも通りの礼儀。
けれど目が、結菜の顔を確かめるように泳ぐ。
“何か”を探している目だ。
結菜は笑う。
可愛らしい顔に、柔らかい笑顔を貼る。
栗色の巻き毛が揺れるたび、 “令嬢らしさ”が強調されると分かっているから、歩幅も視線も一定に保つ。
(見ないで)
言えない言葉を、胸の中でだけ呟く。
応接フロアのガラス越しに、取締役室の前が見える。
そこには三原取締役が立ち、誰かと小声で話していた。
結菜が近づくと、会話がぴたりと止まる。
「結菜さん」
三原がにこやかに近づいてくる。
笑っているのに、目が冷たい。笑顔の下に“計算”が透ける。
「今日は午後、外出の予定でしたよね」
「……ええ」
「良いですねえ。最近は若い方も、しっかり“将来”を見据えられて」
将来。
その一言が、結菜の喉を締めた。
(知られてる? まだ、そんなはず——)
結菜は顔色を変えないように、頬の筋肉を意識した。
笑って、受け流して、誤魔化す。
令嬢としての処世術。
「仕事の打ち合わせです」
「もちろん。もちろん。……しかし、社長もお忙しい。頼れる方が増えるのは、朝霧にとって喜ばしいことですから」
三原はそれ以上言わず、意味ありげに笑って去っていった。
結菜は背中が冷たくなる。
誰が、どこまで知っているのか分からない。
分からないということが、一番怖い。
その時、ポケットのスマホが震えた。
玲子からのメッセージ。
《結菜様、フロントに取材らしき人物が来ています。対応はお任せください》
取材。
結菜の呼吸が浅くなる。
(早すぎる)
見合いの話はまだ、家の中のはずだった。
父は「漏らすな」と言った。
鷹宮も「波風を立てない」と言った。
なのに——
噂はもう、動いている。
結菜は一度だけ目を閉じた。
そして目を開け、廊下を曲がった。
逃げない、と決めたわけじゃない。
ただ、今は“表に出てはいけない”気がした。
***
朝霧本社のエントランス近く、来客用のラウンジに、男が座っていた。
スーツはそこそこ良い。時計は派手。靴の手入れは丁寧。
だが視線が、落ち着きなく周囲を舐めるように動く。
——真鍋。
週刊誌の記者。
金融パーティーに紛れ込み、人の噂を集めていると悪名高い男。
真鍋は受付の女性に笑いかけ、声を落としながら何かを聞いている。
その様子は“礼儀正しい取材”のように見える。
だからこそ厄介だった。
「朝霧令嬢、本日はご在社でしょうか」
真鍋の声が、結菜の耳に届いた。
言い方が丁寧で、丁寧だから無駄に残る。
受付が困ったように微笑む。
「恐れ入りますが、個人情報ですので——」
「もちろん承知しています。ですがね、社交界も金融界も……今、話題は朝霧さんですよ。ほら、こちら」
真鍋がスマホの画面を受付に見せた。
結菜には画面の内容が見えない。見えないのに、胸が冷たくなる。
見えないところで、もう“言葉”が作られている。
その時、玲子が自然な足取りで現れた。
秘書としての笑顔。絶対に崩れない笑顔。
「お待たせいたしました。朝霧ホールディングス秘書室の篠宮です。ご用件は」
「これはこれは。お美しい秘書さんだ」
「恐れ入ります。ご用件をお伺いします」
玲子の声は穏やかなのに、距離を一切許さない。
真鍋は軽く肩をすくめる。
「いやぁ、簡単な質問ですよ。社長令嬢の結菜さんが、鷹宮家と縁談だって話。事実ですか?」
結菜の心臓が、強く跳ねた。
(言った……)
ラウンジの空気が凍る。
受付の女性が息を飲み、近くの来客が視線を向ける。
たった一言で、空気が噂の味を帯びる。
玲子は微笑みを崩さないまま、きっぱりと言った。
「そのような事実は確認しておりません。取材は広報を通してください」
「確認してない、ね。じゃあ否定もしないと」
真鍋は楽しそうに笑う。
人の困る顔が餌だとでも言うように。
「——それにね、もう“筋”は取れてるんですよ。鷹宮商事の専務が、昨日このビルに来た。社長室に通された。これ、間違いないですよね?」
結菜は喉が震える。
そうだ。
鷹宮は来た。社長室に入った。名刺も渡した。
真鍋は言葉を続ける。
「朝霧家の令嬢と、鷹宮家。大きいカードだ。これが動くってことは、金融再編の裏で何かがある。——面白いじゃないですか」
面白い。
その言葉が、結菜を軽く殴った。
人生が、駒が、噂のネタが、全部——面白い?
玲子は変わらぬ笑顔で、淡々と告げる。
「お引き取りください。これ以上続けられるなら、警備を呼びます」
「おっとお。怖い怖い。でもね、篠宮さん」
真鍋は椅子から立ち上がり、声を少しだけ落とした。
まるで“親切”を装うように。
「社長令嬢って、人気ありますから。見合いだの縁談だの、ちょっと噂が立つだけで、ほら——“相手”まで勝手に作られる」
結菜の背筋が冷たくなる。
「片岡御曹司と西園寺令嬢が“お似合い”だって話、もう広がってますよ? その対比で、朝霧令嬢は鷹宮家へ、ってね」
その言葉は、結菜の胸の痛みを正確に抉った。
噂は、事実より先に“物語”を作る。
拓真と陽菜が“正解”。結菜は“別の道”。
そういう話にしてしまえば、人は納得するから。
玲子が真鍋を遮る。
「虚偽の流布は名誉毀損になります。今の発言、記録しました」
「どうぞどうぞ。記録しても、噂は止まりませんよ」
真鍋は軽く笑い、出口へ歩き出した。
最後に振り返って、まるで挨拶のように言う。
「朝霧令嬢は、誰を選ぶんですかね。——お見合いの御曹司か、喧嘩相手の幼なじみか」
結菜の足が、床に縫い付けられたみたいに動かない。
玲子が、静かに結菜の方へ視線を向けた。
結菜は柱の陰にいる自分を、玲子に見つけられていたのだと気づく。
玲子は何も言わない。
ただ、ほんの一瞬だけ眉を寄せた。
“ここにいてはいけません”という合図にも見えた。
結菜は笑顔を作る。
作って、頷く。
そして、背を向けた。
足を動かした。
また逃げる。
逃げ癖。
それが自分の弱さだと知りながら、それでも今は——逃げるしかない。
廊下を歩きながら、結菜は自分の胸を押さえた。
痛い。
息が苦しい。
なのに涙は出ない。
“お似合いの絵”が、噂によって輪郭を持ち始める。
自分が“別の相手”に決まっていく物語が、勝手に完成していく。
(拓真にだけは、知られたくない)
でも噂は、拓真の耳にも届く。
陽菜の耳にも届く。
そして、届いた瞬間に——喧嘩の距離は、変わってしまう。
心配しているふり。気遣っているふり。知っていることを教えてあげるふり。
そして、最初の一粒はいつも小さい。
——たとえば、誰かが言う。
「最近、朝霧令嬢を見ないわね」
それだけで、種は土に落ちる。
結菜はその日の午前、社内の応接フロアを歩いていた。
高い天井、磨かれた床、静かに流れるBGM。
この会社の“格”を示す空間なのに、今日は空気がやけに重い。
理由は一つ。
視線が、いつもより多い。
「朝霧さん、お疲れさまです」
すれ違う社員が頭を下げる。いつも通りの礼儀。
けれど目が、結菜の顔を確かめるように泳ぐ。
“何か”を探している目だ。
結菜は笑う。
可愛らしい顔に、柔らかい笑顔を貼る。
栗色の巻き毛が揺れるたび、 “令嬢らしさ”が強調されると分かっているから、歩幅も視線も一定に保つ。
(見ないで)
言えない言葉を、胸の中でだけ呟く。
応接フロアのガラス越しに、取締役室の前が見える。
そこには三原取締役が立ち、誰かと小声で話していた。
結菜が近づくと、会話がぴたりと止まる。
「結菜さん」
三原がにこやかに近づいてくる。
笑っているのに、目が冷たい。笑顔の下に“計算”が透ける。
「今日は午後、外出の予定でしたよね」
「……ええ」
「良いですねえ。最近は若い方も、しっかり“将来”を見据えられて」
将来。
その一言が、結菜の喉を締めた。
(知られてる? まだ、そんなはず——)
結菜は顔色を変えないように、頬の筋肉を意識した。
笑って、受け流して、誤魔化す。
令嬢としての処世術。
「仕事の打ち合わせです」
「もちろん。もちろん。……しかし、社長もお忙しい。頼れる方が増えるのは、朝霧にとって喜ばしいことですから」
三原はそれ以上言わず、意味ありげに笑って去っていった。
結菜は背中が冷たくなる。
誰が、どこまで知っているのか分からない。
分からないということが、一番怖い。
その時、ポケットのスマホが震えた。
玲子からのメッセージ。
《結菜様、フロントに取材らしき人物が来ています。対応はお任せください》
取材。
結菜の呼吸が浅くなる。
(早すぎる)
見合いの話はまだ、家の中のはずだった。
父は「漏らすな」と言った。
鷹宮も「波風を立てない」と言った。
なのに——
噂はもう、動いている。
結菜は一度だけ目を閉じた。
そして目を開け、廊下を曲がった。
逃げない、と決めたわけじゃない。
ただ、今は“表に出てはいけない”気がした。
***
朝霧本社のエントランス近く、来客用のラウンジに、男が座っていた。
スーツはそこそこ良い。時計は派手。靴の手入れは丁寧。
だが視線が、落ち着きなく周囲を舐めるように動く。
——真鍋。
週刊誌の記者。
金融パーティーに紛れ込み、人の噂を集めていると悪名高い男。
真鍋は受付の女性に笑いかけ、声を落としながら何かを聞いている。
その様子は“礼儀正しい取材”のように見える。
だからこそ厄介だった。
「朝霧令嬢、本日はご在社でしょうか」
真鍋の声が、結菜の耳に届いた。
言い方が丁寧で、丁寧だから無駄に残る。
受付が困ったように微笑む。
「恐れ入りますが、個人情報ですので——」
「もちろん承知しています。ですがね、社交界も金融界も……今、話題は朝霧さんですよ。ほら、こちら」
真鍋がスマホの画面を受付に見せた。
結菜には画面の内容が見えない。見えないのに、胸が冷たくなる。
見えないところで、もう“言葉”が作られている。
その時、玲子が自然な足取りで現れた。
秘書としての笑顔。絶対に崩れない笑顔。
「お待たせいたしました。朝霧ホールディングス秘書室の篠宮です。ご用件は」
「これはこれは。お美しい秘書さんだ」
「恐れ入ります。ご用件をお伺いします」
玲子の声は穏やかなのに、距離を一切許さない。
真鍋は軽く肩をすくめる。
「いやぁ、簡単な質問ですよ。社長令嬢の結菜さんが、鷹宮家と縁談だって話。事実ですか?」
結菜の心臓が、強く跳ねた。
(言った……)
ラウンジの空気が凍る。
受付の女性が息を飲み、近くの来客が視線を向ける。
たった一言で、空気が噂の味を帯びる。
玲子は微笑みを崩さないまま、きっぱりと言った。
「そのような事実は確認しておりません。取材は広報を通してください」
「確認してない、ね。じゃあ否定もしないと」
真鍋は楽しそうに笑う。
人の困る顔が餌だとでも言うように。
「——それにね、もう“筋”は取れてるんですよ。鷹宮商事の専務が、昨日このビルに来た。社長室に通された。これ、間違いないですよね?」
結菜は喉が震える。
そうだ。
鷹宮は来た。社長室に入った。名刺も渡した。
真鍋は言葉を続ける。
「朝霧家の令嬢と、鷹宮家。大きいカードだ。これが動くってことは、金融再編の裏で何かがある。——面白いじゃないですか」
面白い。
その言葉が、結菜を軽く殴った。
人生が、駒が、噂のネタが、全部——面白い?
玲子は変わらぬ笑顔で、淡々と告げる。
「お引き取りください。これ以上続けられるなら、警備を呼びます」
「おっとお。怖い怖い。でもね、篠宮さん」
真鍋は椅子から立ち上がり、声を少しだけ落とした。
まるで“親切”を装うように。
「社長令嬢って、人気ありますから。見合いだの縁談だの、ちょっと噂が立つだけで、ほら——“相手”まで勝手に作られる」
結菜の背筋が冷たくなる。
「片岡御曹司と西園寺令嬢が“お似合い”だって話、もう広がってますよ? その対比で、朝霧令嬢は鷹宮家へ、ってね」
その言葉は、結菜の胸の痛みを正確に抉った。
噂は、事実より先に“物語”を作る。
拓真と陽菜が“正解”。結菜は“別の道”。
そういう話にしてしまえば、人は納得するから。
玲子が真鍋を遮る。
「虚偽の流布は名誉毀損になります。今の発言、記録しました」
「どうぞどうぞ。記録しても、噂は止まりませんよ」
真鍋は軽く笑い、出口へ歩き出した。
最後に振り返って、まるで挨拶のように言う。
「朝霧令嬢は、誰を選ぶんですかね。——お見合いの御曹司か、喧嘩相手の幼なじみか」
結菜の足が、床に縫い付けられたみたいに動かない。
玲子が、静かに結菜の方へ視線を向けた。
結菜は柱の陰にいる自分を、玲子に見つけられていたのだと気づく。
玲子は何も言わない。
ただ、ほんの一瞬だけ眉を寄せた。
“ここにいてはいけません”という合図にも見えた。
結菜は笑顔を作る。
作って、頷く。
そして、背を向けた。
足を動かした。
また逃げる。
逃げ癖。
それが自分の弱さだと知りながら、それでも今は——逃げるしかない。
廊下を歩きながら、結菜は自分の胸を押さえた。
痛い。
息が苦しい。
なのに涙は出ない。
“お似合いの絵”が、噂によって輪郭を持ち始める。
自分が“別の相手”に決まっていく物語が、勝手に完成していく。
(拓真にだけは、知られたくない)
でも噂は、拓真の耳にも届く。
陽菜の耳にも届く。
そして、届いた瞬間に——喧嘩の距離は、変わってしまう。

