その日の夕方、結菜は社長室の前で足を止めた。
重い扉。磨かれた真鍮の取っ手。廊下に漂う微かな木の匂い。
いつも通りのはずなのに、今日は一歩が重い。
——来い。
父の短いメッセージは、命令にしか見えなかった。
結菜はノックをする。
「失礼します」
「入れ」
返事は即座。
結菜が扉を開けると、社長室の窓は夕焼けを背負っていた。
逆光の中、父は机に座り、書類に目を落としたまま顔を上げない。
「座れ」
結菜は応接用ソファに腰を下ろす。
背筋が勝手に伸びる。
この部屋に入ると、“娘”ではなく“朝霧の令嬢”に戻される。
父は机の上の封筒を、昨日と同じ手つきで結菜の方へ滑らせた。
白い封筒。硬い角。
契約の匂いがする。
「今夜、鷹宮家と会う」
結菜の喉が締め付ける。
「……はい」
「余計なことは言うな。笑って、頷け」
父は淡々と言う。
まるで、結菜に向かってではなく、会社の資料に向かって話しているみたいに。
「お前の役目は、朝霧を守ることだ」
結菜は頷くしかない。
頷ける自分が嫌になる。
父が立ち上がった時、ドアをノックする音がした。
「失礼いたします、社長」
秘書が扉を開け、後ろにもう一人——背の高い男性を通した。
結菜は息を止める。
白いシャツに、濃紺のスーツ。派手さはないのに、きちんと整えられた佇まい。
目元は穏やかで、口元に笑みを載せるのが上手い。
その笑みが、逆に“隙のなさ”を感じさせた。
「鷹宮商事の鷹宮恒一と申します。本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
丁寧すぎる声音。
角がなくて、完璧で、逃げ道がない。
父が頷く。
「遠いところを。娘の結菜だ」
結菜は立ち上がり、頭を下げた。
「朝霧結菜です。本日はよろしくお願いいたします」
自分の声が、耳に遠い。
言葉の一つひとつが、台本の台詞みたいに空虚だった。
鷹宮が結菜を見る。
視線が柔らかい。柔らかいのに、どこか測っている。
「お噂はかねがね。朝霧様のご令嬢は……栗色の髪が美しい、と」
褒め言葉。
会ったばかりの相手に向けるには、少しだけ個人的すぎる。
結菜の背筋がひやりとした。
こういう場の褒め言葉は、好意じゃない。
“商品価値”の確認だ。
「恐れ入ります」
結菜は微笑み、頬が固くなるのを感じた。
鷹宮が名刺入れを取り出した。
革の質が良い。無駄がない。持ち主の性格が見える。
「改めまして、こちら」
差し出された名刺。
結菜は両手で受け取る。
指先に、紙の冷たさが伝わった。
《鷹宮商事 専務取締役 鷹宮 恒一》
肩書きが重い。
結菜の胸がぎゅっと縮む。
「本日は、簡単にご挨拶だけのつもりでしたが……もし可能なら、今夜のお食事の前に少しお話しできますか」
鷹宮がそう言い、結菜に向けて微笑んだ。
丁寧で、断れない微笑み。
父が言う。
「結菜、応じろ」
命令。
結菜は頷くしかない。
「……はい」
鷹宮が応接の椅子に座り、結菜の向かいに腰を下ろす。
距離は適切。礼儀も完璧。
だからこそ息が詰まる。
「急な話で驚かせてしまったかもしれませんね」
鷹宮が言う。
驚いた、なんて言えるはずもない。
「いえ」
「そう言っていただけて安心しました。私は、結婚を“感情”で決めるタイプではありません。ですが、だからこそ——誠実に、条件を揃えたい」
条件。
結菜の心が冷たくなる。
鷹宮は淡々と続ける。
「結菜さんのご負担が少ない形を提案します。たとえば、結婚後もご実家との関係を優先して構いません。社内での役割も、今の立場を尊重する」
優しい言葉。
なのに結菜は、その優しさが怖かった。
(負担が少ない形、って何)
それはつまり、結婚が“仕事”である前提の優しさ。
恋も希望も置き去りにした、合理的な優しさ。
「……ご配慮、ありがとうございます」
結菜の声は自分でも驚くほど落ち着いていた。
落ち着けるのは、もう諦めているからだ。
鷹宮が少しだけ目を細める。
「結菜さんは、賢い方だと伺っています」
またその言葉。
賢い。
従順で、扱いやすいという意味に聞こえてしまう。
結菜は笑った。
令嬢の笑顔は、心を守る仮面だ。
「……そう見えるように育てられました」
言ってしまった瞬間、結菜は自分の舌を噛みたくなった。
本音が漏れた。
父がいる前で。
父の視線が鋭くなったのを、結菜は感じた。
背中が冷える。
だが鷹宮は、微笑みを崩さずに言った。
「育てられた、という言い方は……少しだけ寂しいですね」
結菜は返せない。
寂しい、と言われたら、寂しいと認めてしまいそうになる。
鷹宮は名刺の角を指で整えながら、さらりと口にした。
「私が望むのは、朝霧家の“安心”です。——結菜さんが嫁ぐことで、朝霧への干渉を止める。そこに価値がある」
結菜の胸が、凍った。
やっぱり。
やっぱりこれは、結菜の結婚じゃない。
朝霧を守る取引だ。
「……条件、というのは」
結菜の声が、少しだけ震えた。
鷹宮はその震えを見逃さない目をしているのに、見逃すように穏やかに言った。
「難しいことではありません。表向きには良い夫婦として振る舞う。必要なら、発表のタイミングも調整する。——そして、無用な波風を立てない」
無用な波風。
それは、誰かに知らせるな、ということだ。
結菜の頭に、拓真の顔が浮かぶ。
拓真に言えない。
父の命令だけじゃなく、鷹宮の言葉がさらに鎖を増やす。
結菜は息を吸い、微笑む。
仮面をさらに厚くする。
「……承知しました」
父が満足そうに頷いた。
鷹宮が椅子から立ち上がり、深々と頭を下げる。
「ありがとうございます。今夜は、結菜さんが無理をしないように進めます」
その“無理をしない”が、結菜には一番残酷だった。
無理をしない。
つまり、心を使わないで済むように。
心を殺して進めるように。
鷹宮が去ったあと、社長室の空気がさらに冷たくなる。
父が結菜を見て言った。
「いいな。今のように、余計な感情を見せるな」
結菜は頷いた。
頷くしかない。
結菜の手の中には、鷹宮の名刺が残っていた。
紙は薄いのに、重い。
まるで、これから結菜の人生に貼られる“肩書き”みたいに。
栗色の巻き毛が、エアコンの風で揺れる。
結菜はその髪を押さえ、静かに息を吐いた。
(言えない)
拓真にだけは言えない。
言ったら、波風が立つ。
波風が立てば、朝霧が傷つく。
——そうやって、結菜は自分の心を閉じていく。
重い扉。磨かれた真鍮の取っ手。廊下に漂う微かな木の匂い。
いつも通りのはずなのに、今日は一歩が重い。
——来い。
父の短いメッセージは、命令にしか見えなかった。
結菜はノックをする。
「失礼します」
「入れ」
返事は即座。
結菜が扉を開けると、社長室の窓は夕焼けを背負っていた。
逆光の中、父は机に座り、書類に目を落としたまま顔を上げない。
「座れ」
結菜は応接用ソファに腰を下ろす。
背筋が勝手に伸びる。
この部屋に入ると、“娘”ではなく“朝霧の令嬢”に戻される。
父は机の上の封筒を、昨日と同じ手つきで結菜の方へ滑らせた。
白い封筒。硬い角。
契約の匂いがする。
「今夜、鷹宮家と会う」
結菜の喉が締め付ける。
「……はい」
「余計なことは言うな。笑って、頷け」
父は淡々と言う。
まるで、結菜に向かってではなく、会社の資料に向かって話しているみたいに。
「お前の役目は、朝霧を守ることだ」
結菜は頷くしかない。
頷ける自分が嫌になる。
父が立ち上がった時、ドアをノックする音がした。
「失礼いたします、社長」
秘書が扉を開け、後ろにもう一人——背の高い男性を通した。
結菜は息を止める。
白いシャツに、濃紺のスーツ。派手さはないのに、きちんと整えられた佇まい。
目元は穏やかで、口元に笑みを載せるのが上手い。
その笑みが、逆に“隙のなさ”を感じさせた。
「鷹宮商事の鷹宮恒一と申します。本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
丁寧すぎる声音。
角がなくて、完璧で、逃げ道がない。
父が頷く。
「遠いところを。娘の結菜だ」
結菜は立ち上がり、頭を下げた。
「朝霧結菜です。本日はよろしくお願いいたします」
自分の声が、耳に遠い。
言葉の一つひとつが、台本の台詞みたいに空虚だった。
鷹宮が結菜を見る。
視線が柔らかい。柔らかいのに、どこか測っている。
「お噂はかねがね。朝霧様のご令嬢は……栗色の髪が美しい、と」
褒め言葉。
会ったばかりの相手に向けるには、少しだけ個人的すぎる。
結菜の背筋がひやりとした。
こういう場の褒め言葉は、好意じゃない。
“商品価値”の確認だ。
「恐れ入ります」
結菜は微笑み、頬が固くなるのを感じた。
鷹宮が名刺入れを取り出した。
革の質が良い。無駄がない。持ち主の性格が見える。
「改めまして、こちら」
差し出された名刺。
結菜は両手で受け取る。
指先に、紙の冷たさが伝わった。
《鷹宮商事 専務取締役 鷹宮 恒一》
肩書きが重い。
結菜の胸がぎゅっと縮む。
「本日は、簡単にご挨拶だけのつもりでしたが……もし可能なら、今夜のお食事の前に少しお話しできますか」
鷹宮がそう言い、結菜に向けて微笑んだ。
丁寧で、断れない微笑み。
父が言う。
「結菜、応じろ」
命令。
結菜は頷くしかない。
「……はい」
鷹宮が応接の椅子に座り、結菜の向かいに腰を下ろす。
距離は適切。礼儀も完璧。
だからこそ息が詰まる。
「急な話で驚かせてしまったかもしれませんね」
鷹宮が言う。
驚いた、なんて言えるはずもない。
「いえ」
「そう言っていただけて安心しました。私は、結婚を“感情”で決めるタイプではありません。ですが、だからこそ——誠実に、条件を揃えたい」
条件。
結菜の心が冷たくなる。
鷹宮は淡々と続ける。
「結菜さんのご負担が少ない形を提案します。たとえば、結婚後もご実家との関係を優先して構いません。社内での役割も、今の立場を尊重する」
優しい言葉。
なのに結菜は、その優しさが怖かった。
(負担が少ない形、って何)
それはつまり、結婚が“仕事”である前提の優しさ。
恋も希望も置き去りにした、合理的な優しさ。
「……ご配慮、ありがとうございます」
結菜の声は自分でも驚くほど落ち着いていた。
落ち着けるのは、もう諦めているからだ。
鷹宮が少しだけ目を細める。
「結菜さんは、賢い方だと伺っています」
またその言葉。
賢い。
従順で、扱いやすいという意味に聞こえてしまう。
結菜は笑った。
令嬢の笑顔は、心を守る仮面だ。
「……そう見えるように育てられました」
言ってしまった瞬間、結菜は自分の舌を噛みたくなった。
本音が漏れた。
父がいる前で。
父の視線が鋭くなったのを、結菜は感じた。
背中が冷える。
だが鷹宮は、微笑みを崩さずに言った。
「育てられた、という言い方は……少しだけ寂しいですね」
結菜は返せない。
寂しい、と言われたら、寂しいと認めてしまいそうになる。
鷹宮は名刺の角を指で整えながら、さらりと口にした。
「私が望むのは、朝霧家の“安心”です。——結菜さんが嫁ぐことで、朝霧への干渉を止める。そこに価値がある」
結菜の胸が、凍った。
やっぱり。
やっぱりこれは、結菜の結婚じゃない。
朝霧を守る取引だ。
「……条件、というのは」
結菜の声が、少しだけ震えた。
鷹宮はその震えを見逃さない目をしているのに、見逃すように穏やかに言った。
「難しいことではありません。表向きには良い夫婦として振る舞う。必要なら、発表のタイミングも調整する。——そして、無用な波風を立てない」
無用な波風。
それは、誰かに知らせるな、ということだ。
結菜の頭に、拓真の顔が浮かぶ。
拓真に言えない。
父の命令だけじゃなく、鷹宮の言葉がさらに鎖を増やす。
結菜は息を吸い、微笑む。
仮面をさらに厚くする。
「……承知しました」
父が満足そうに頷いた。
鷹宮が椅子から立ち上がり、深々と頭を下げる。
「ありがとうございます。今夜は、結菜さんが無理をしないように進めます」
その“無理をしない”が、結菜には一番残酷だった。
無理をしない。
つまり、心を使わないで済むように。
心を殺して進めるように。
鷹宮が去ったあと、社長室の空気がさらに冷たくなる。
父が結菜を見て言った。
「いいな。今のように、余計な感情を見せるな」
結菜は頷いた。
頷くしかない。
結菜の手の中には、鷹宮の名刺が残っていた。
紙は薄いのに、重い。
まるで、これから結菜の人生に貼られる“肩書き”みたいに。
栗色の巻き毛が、エアコンの風で揺れる。
結菜はその髪を押さえ、静かに息を吐いた。
(言えない)
拓真にだけは言えない。
言ったら、波風が立つ。
波風が立てば、朝霧が傷つく。
——そうやって、結菜は自分の心を閉じていく。

