非常階段の踊り場は、冷たくて静かだった。
蛍光灯が白く点り、コンクリートの壁が音を吸い込む。
結菜は背中を壁につけたまま、ようやく息を整えた。
——大丈夫。
——いつも通り。
——何もなかった顔をして、戻ればいい。
そう言い聞かせるたびに、胸の奥がぎゅっと縮む。
可愛らしい顔に似合わないほど、心の中が荒れていた。
スマホがもう一度震えた。
画面を見ない。見たら、拓真の名前が出ている気がして。
出ていたら、返せない自分が嫌になるから。
踊り場の扉が、きい、と小さく鳴った。
結菜は反射で顔を上げる。
そこに立っていたのは、予想通りの人だった。
「……結菜ちゃん」
西園寺陽菜。
淡い色のブラウスに、柔らかな香り。
会社の廊下の硬い空気に、陽菜だけが“違う温度”を持ち込んでくる。
「ここにいると思った」
陽菜はそう言って、結菜に近づきすぎない距離で止まった。
その距離が、優しい。
でも結菜には——逃げ道を塞がれたみたいに感じる。
「探さないでよ。恥ずかしい」
結菜は笑ったつもりだった。
声が少しだけ掠れて、笑い切れなかった。
陽菜は何も言わず、踊り場の窓を少し開けた。
外の風が入り、結菜の栗色の巻き毛がふわりと揺れる。
「風、気持ちいいね」
「……うん」
陽菜は“今すぐ核心に触れない”という優しさを選ぶ。
その選び方が、陽菜らしい。
そして結菜は、その優しさに助けられながらも、苦しくなる。
沈黙が少し続いたあと、陽菜がぽつりと言った。
「拓真くん、今日……珍しく本気で焦ってた」
結菜の胸が、ちくりと痛んだ。
「焦ってた? あの人が?」
「うん。結菜ちゃんが逃げたから」
「逃げてない」
即答してしまって、結菜は自分で自分に嫌気が差す。
逃げてる。
嫌な話になったら、いつもそうだ。
拓真に言いたいことほど、言えなくなる。
陽菜は結菜を責めない。
責めないまま、柔らかく視線を絡める。
「ね、結菜ちゃん。最近、忙しい?」
その言い方が、さっきのオフィスよりもずっと静かで、ずっと鋭かった。
忙しい?
ただの世間話みたいに聞こえるのに、結菜には“見抜かれている”と分かる。
「……うん。ちょっと」
「仕事?」
「仕事だよ」
嘘が、喉を滑っていく。
滑らかに嘘を言える自分に、胸が痛む。
陽菜は頷いた。
頷いてしまう。
そこがまた、優しい刃だ。
「そっか。じゃあ、無理しないでね」
「無理してない」
結菜が言うと、陽菜は小さく笑った。
「その言い方、無理してる人の言い方だよ」
結菜は笑えなかった。
陽菜の声が柔らかいからこそ、逃げ場がない。
陽菜は少し間を置き、言葉を選ぶように唇を開いた。
「結菜ちゃんってね、昔から……誰にも頼らないよね」
「頼ったって、変わらないことがあるから」
結菜の本音が、勝手に漏れた。
言うつもりじゃなかったのに。
言ってしまった瞬間、怖くなって、結菜は視線を逸らす。
陽菜は追い詰めない。
でも、黙って見逃さない。
「……変わらないこと、って?」
結菜は答えられない。
見合い。父の命令。契約書の封筒。
言えない。言ったら、陽菜が気づく。
気づいたら——拓真に伝わる。
父の「漏らすな」が、鎖みたいに首を締める。
「大したことじゃない」
「大したことじゃないなら、結菜ちゃんの手、震えないよ」
陽菜の言葉に、結菜は息を飲んだ。
自分の手を見てしまう。
指先が、確かに微かに震えている。
それを隠すように握りしめた瞬間、陽菜の手がそっと重なった。
温かい。
柔らかい。
助けられる。
でも、その温かさが結菜を泣かせそうで、結菜は手を引こうとした。
「……やめて。大丈夫だから」
陽菜は手を離さず、静かに言った。
「大丈夫って言えるなら、ここに逃げてこないよ」
結菜の胸が、どくんと鳴る。
逃げた。
認めたくない事実を、陽菜に言われてしまった。
陽菜は結菜の目を見たまま、声を落とす。
「ねぇ、結菜ちゃん。拓真くんに……何か隠してる?」
結菜の心臓が止まった。
(やめて)
お願いだから、それ以上は言わないで。
言われたら、肯定も否定もできなくなる。
「……隠してない」
嘘だ、と自分が一番分かっている。
陽菜はそれ以上踏み込まず、ただ言葉を変えた。
だからこそ、刺さる。
「じゃあ、言えないんだね」
結菜は顔を上げた。
陽菜の瞳は責めていない。
責めていないのに、結菜の胸を正確に押してくる。
「言えないことって……あるよ。誰にだって」
結菜はそう言うのが精一杯だった。
陽菜は少しだけ笑った。
笑うのに、目の奥が揺れている。
「うん。ある。……でもね」
陽菜は一歩だけ、結菜に近づいた。
距離を詰めるのは、陽菜にしては珍しい。
その珍しさが、結菜の胸をざわつかせる。
「拓真くん、結菜ちゃんのことになると、すごく不器用になるの」
結菜は喉の奥が熱くなる。
拓真のことになると、結菜も不器用になる。
だから喧嘩になる。
だから本音が言えない。
「……不器用なのは、あの人の標準仕様でしょ」
結菜がわざと軽く言うと、陽菜は首を振った。
「違うよ。あれ、結菜ちゃん限定」
その一言が、結菜の心を揺らした。
嬉しい、と感じてしまう自分が怖い。
嬉しいと感じたら、諦められなくなる。
「……やめてよ、そういうの」
結菜は笑って見せた。
だけど笑い切れない。
目の奥が熱い。涙が出そうになる。
陽菜は結菜の栗色の巻き毛に、風で絡んだ一房があるのを見つけて、そっと指で直してくれた。
その仕草が、昔のまま優しい。
「結菜ちゃん、今日は……帰り、私と一緒に帰ろう。甘いもの、食べに行こ?」
結菜は頷きかけて、止まった。
予定。会食。父の命令。
今夜も、自由じゃない。
「……ごめん。今日は」
陽菜は何も聞かず、すぐに微笑む。
「うん。分かった」
分かった。
その言葉が、結菜には“全部分かってる”に聞こえてしまう。
陽菜は扉に手をかける前に、振り返った。
「結菜ちゃん」
「なに?」
陽菜は少しだけ躊躇って、でもちゃんと言った。
「あまり、自分を責めないでね」
結菜の胸が、ぎゅっと痛む。
優しい。
優しいから、刃になる。
陽菜が去ったあと、踊り場にはまた静けさだけが残った。
結菜は窓の外を見た。空は青く、雲が流れている。
こんなにも普通の空なのに、自分の中だけが荒れている。
(言えない)
拓真にだけは言えない。
陽菜にも言えない。
父の命令が鎖である以前に、結菜自身のプライドが檻だ。
結菜は息を吸って、笑う練習をした。
鏡がなくても、口角の上げ方は分かる。
——大丈夫。
——いつも通り。
そうやって、壊れないふりをして生きる。
誰にも、気づかれないように
蛍光灯が白く点り、コンクリートの壁が音を吸い込む。
結菜は背中を壁につけたまま、ようやく息を整えた。
——大丈夫。
——いつも通り。
——何もなかった顔をして、戻ればいい。
そう言い聞かせるたびに、胸の奥がぎゅっと縮む。
可愛らしい顔に似合わないほど、心の中が荒れていた。
スマホがもう一度震えた。
画面を見ない。見たら、拓真の名前が出ている気がして。
出ていたら、返せない自分が嫌になるから。
踊り場の扉が、きい、と小さく鳴った。
結菜は反射で顔を上げる。
そこに立っていたのは、予想通りの人だった。
「……結菜ちゃん」
西園寺陽菜。
淡い色のブラウスに、柔らかな香り。
会社の廊下の硬い空気に、陽菜だけが“違う温度”を持ち込んでくる。
「ここにいると思った」
陽菜はそう言って、結菜に近づきすぎない距離で止まった。
その距離が、優しい。
でも結菜には——逃げ道を塞がれたみたいに感じる。
「探さないでよ。恥ずかしい」
結菜は笑ったつもりだった。
声が少しだけ掠れて、笑い切れなかった。
陽菜は何も言わず、踊り場の窓を少し開けた。
外の風が入り、結菜の栗色の巻き毛がふわりと揺れる。
「風、気持ちいいね」
「……うん」
陽菜は“今すぐ核心に触れない”という優しさを選ぶ。
その選び方が、陽菜らしい。
そして結菜は、その優しさに助けられながらも、苦しくなる。
沈黙が少し続いたあと、陽菜がぽつりと言った。
「拓真くん、今日……珍しく本気で焦ってた」
結菜の胸が、ちくりと痛んだ。
「焦ってた? あの人が?」
「うん。結菜ちゃんが逃げたから」
「逃げてない」
即答してしまって、結菜は自分で自分に嫌気が差す。
逃げてる。
嫌な話になったら、いつもそうだ。
拓真に言いたいことほど、言えなくなる。
陽菜は結菜を責めない。
責めないまま、柔らかく視線を絡める。
「ね、結菜ちゃん。最近、忙しい?」
その言い方が、さっきのオフィスよりもずっと静かで、ずっと鋭かった。
忙しい?
ただの世間話みたいに聞こえるのに、結菜には“見抜かれている”と分かる。
「……うん。ちょっと」
「仕事?」
「仕事だよ」
嘘が、喉を滑っていく。
滑らかに嘘を言える自分に、胸が痛む。
陽菜は頷いた。
頷いてしまう。
そこがまた、優しい刃だ。
「そっか。じゃあ、無理しないでね」
「無理してない」
結菜が言うと、陽菜は小さく笑った。
「その言い方、無理してる人の言い方だよ」
結菜は笑えなかった。
陽菜の声が柔らかいからこそ、逃げ場がない。
陽菜は少し間を置き、言葉を選ぶように唇を開いた。
「結菜ちゃんってね、昔から……誰にも頼らないよね」
「頼ったって、変わらないことがあるから」
結菜の本音が、勝手に漏れた。
言うつもりじゃなかったのに。
言ってしまった瞬間、怖くなって、結菜は視線を逸らす。
陽菜は追い詰めない。
でも、黙って見逃さない。
「……変わらないこと、って?」
結菜は答えられない。
見合い。父の命令。契約書の封筒。
言えない。言ったら、陽菜が気づく。
気づいたら——拓真に伝わる。
父の「漏らすな」が、鎖みたいに首を締める。
「大したことじゃない」
「大したことじゃないなら、結菜ちゃんの手、震えないよ」
陽菜の言葉に、結菜は息を飲んだ。
自分の手を見てしまう。
指先が、確かに微かに震えている。
それを隠すように握りしめた瞬間、陽菜の手がそっと重なった。
温かい。
柔らかい。
助けられる。
でも、その温かさが結菜を泣かせそうで、結菜は手を引こうとした。
「……やめて。大丈夫だから」
陽菜は手を離さず、静かに言った。
「大丈夫って言えるなら、ここに逃げてこないよ」
結菜の胸が、どくんと鳴る。
逃げた。
認めたくない事実を、陽菜に言われてしまった。
陽菜は結菜の目を見たまま、声を落とす。
「ねぇ、結菜ちゃん。拓真くんに……何か隠してる?」
結菜の心臓が止まった。
(やめて)
お願いだから、それ以上は言わないで。
言われたら、肯定も否定もできなくなる。
「……隠してない」
嘘だ、と自分が一番分かっている。
陽菜はそれ以上踏み込まず、ただ言葉を変えた。
だからこそ、刺さる。
「じゃあ、言えないんだね」
結菜は顔を上げた。
陽菜の瞳は責めていない。
責めていないのに、結菜の胸を正確に押してくる。
「言えないことって……あるよ。誰にだって」
結菜はそう言うのが精一杯だった。
陽菜は少しだけ笑った。
笑うのに、目の奥が揺れている。
「うん。ある。……でもね」
陽菜は一歩だけ、結菜に近づいた。
距離を詰めるのは、陽菜にしては珍しい。
その珍しさが、結菜の胸をざわつかせる。
「拓真くん、結菜ちゃんのことになると、すごく不器用になるの」
結菜は喉の奥が熱くなる。
拓真のことになると、結菜も不器用になる。
だから喧嘩になる。
だから本音が言えない。
「……不器用なのは、あの人の標準仕様でしょ」
結菜がわざと軽く言うと、陽菜は首を振った。
「違うよ。あれ、結菜ちゃん限定」
その一言が、結菜の心を揺らした。
嬉しい、と感じてしまう自分が怖い。
嬉しいと感じたら、諦められなくなる。
「……やめてよ、そういうの」
結菜は笑って見せた。
だけど笑い切れない。
目の奥が熱い。涙が出そうになる。
陽菜は結菜の栗色の巻き毛に、風で絡んだ一房があるのを見つけて、そっと指で直してくれた。
その仕草が、昔のまま優しい。
「結菜ちゃん、今日は……帰り、私と一緒に帰ろう。甘いもの、食べに行こ?」
結菜は頷きかけて、止まった。
予定。会食。父の命令。
今夜も、自由じゃない。
「……ごめん。今日は」
陽菜は何も聞かず、すぐに微笑む。
「うん。分かった」
分かった。
その言葉が、結菜には“全部分かってる”に聞こえてしまう。
陽菜は扉に手をかける前に、振り返った。
「結菜ちゃん」
「なに?」
陽菜は少しだけ躊躇って、でもちゃんと言った。
「あまり、自分を責めないでね」
結菜の胸が、ぎゅっと痛む。
優しい。
優しいから、刃になる。
陽菜が去ったあと、踊り場にはまた静けさだけが残った。
結菜は窓の外を見た。空は青く、雲が流れている。
こんなにも普通の空なのに、自分の中だけが荒れている。
(言えない)
拓真にだけは言えない。
陽菜にも言えない。
父の命令が鎖である以前に、結菜自身のプライドが檻だ。
結菜は息を吸って、笑う練習をした。
鏡がなくても、口角の上げ方は分かる。
——大丈夫。
——いつも通り。
そうやって、壊れないふりをして生きる。
誰にも、気づかれないように

