三か月後。
朝霧本社のエントランスホールにある大型モニターは、相変わらず静かにニュースを流していた。けれど、テロップの温度が以前とは違う。
《朝霧ホールディングス ガバナンス改革と資本政策の見直しを発表》
《提携は“相互利益”を前提に再設計——特定条件の縁組条項は採用せず》
社員たちの視線が、モニターから結菜へ流れる。
その視線は、噂を測る目ではない。
“決めた人”を見る目だ。
朝霧結菜は、淡いジャケットの袖を整え、ゆっくりと息を吸った。
栗色の巻き毛は肩でふわりと揺れ、可愛らしい顔に微笑みが浮かぶ。
でもその笑みは、誰かに作らされたものではない。
——私が選んだ笑顔。
会議室では、いつもの顔ぶれが席に着いていた。
父、朝霧社長。
取締役の三原。
法務、広報、監査役。
そして、片岡側の代表として黒崎。
西園寺銀行からは陽菜が来ている。
結菜は一番前の席に立ち、資料を開いた。
社内のモニターに投影されるのは、提携案の“新しい”形。
縁談ではなく、透明性と分散。
誰かの首輪ではなく、誰もが納得できる構造。
「本日の議題は、朝霧の資本政策再設計と、提携条件の再交渉です」
結菜の声は澄んでいた。
揺れないために固めた声じゃない。
揺れたうえで、選んだ声。
資料の要点を簡潔に示し、結菜は最後に三原を見た。
「——取締役会の合意なく、個人の縁組を前提条件として動かしたルートは、ここで完全に閉じます」
三原の眉がわずかに動いた。
結菜は目を逸らさない。
以前なら、喉が震えた。
でも今は、震えない。
震えないのは“令嬢”だからではなく、隣に立つ人がいるからだ。
会議が終わり、廊下に出ると、父が結菜の横に立った。
父は相変わらず表情を大きく変えない。
ただ、声だけが少しだけ低かった。
「……お前は、朝霧を守った」
褒め言葉に似ているのに、どこか苦い。
父もまた、引けない場所に立っていたのだと結菜は知っている。
「守ったのは、朝霧だけじゃないよ」
結菜が小さく返すと、父は何も言わずに頷いた。
その頷きは、以前より少しだけ遅かった。
エントランスへ向かう途中、陽菜が小走りで追いついてきた。
今日はスーツ姿。髪はきっちりまとめられ、凛としている。
“お似合い”と言われるための装いではなく、自分の席に立つための装い。
「結菜ちゃん、資料、すごく分かりやすかった」
「ありがとう。陽菜のおかげだよ。銀行側の数字、助かった」
陽菜が照れたように笑う。
その笑いは痛みを隠す笑いじゃない。
「私ね、西園寺の“お嬢さん”をやめたわけじゃないけど……
ちゃんと、西園寺の仕事で評価される席に座れるようになった」
結菜は陽菜の手を、ぎゅっと握った。
「似合ってる」
「うん。……やっと、自分の顔で笑える」
陽菜の目が少しだけ潤んで、すぐに笑顔になる。
でももう、それは“我慢の笑顔”じゃない。
その時、玄関の方から低い声がした。
「結菜」
片岡拓真が立っていた。
仕事用のスーツ、少し疲れた顔、それでも真っ直ぐな目。
結菜の胸がきゅっとなる。
でも痛みじゃない。温かい方の緊張。
結菜は陽菜に小さく頷き、拓真の方へ歩いた。
拓真は結菜の手元を見て、ふっと息を吐いた。
「……薬指、もう隠さないんだな」
結菜は一瞬だけ笑って、でもすぐに真面目な顔になる。
「隠すの、やめた」
「よかった」
拓真はそれだけ言って、結菜の手を取った。
握りつぶさない。掴み取らない。
ただ、隣に立つ手。
結菜は、その手を握り返した。
自分の意思で。
「拓真」
「ん?」
「私ね……これからも、迷うと思う」
「迷え」
拓真が即答する。
「迷うってことは、お前が生きてるってことだ」
結菜は喉の奥が熱くなるのを感じて、そっと笑った。
逃げの笑いじゃない。
「……うん」
ふと、拓真が結菜の耳元に声を落とす。
「喧嘩は、減らせ」
「無理」
「即答かよ」
「だって、喧嘩は……私たちの最短距離でしょ」
拓真が小さく笑う。
笑いながら、結菜の手を少しだけ強く握った。
「じゃあ、喧嘩しても離れないって約束にしろ」
結菜は頷いた。
頷きが、命令じゃなく誓いになる。
「約束する」
外に出ると、風が髪を揺らした。
栗色の巻き毛が光を受けて柔らかく赤みを帯びる。
結菜はもう、それを隠さない。
朝霧の令嬢として生きることは、変わらない。
でも、朝霧の令嬢である前に——
朝霧結菜として、息をする。
拓真が隣にいる。
陽菜が自分の席で笑っている。
そして朝霧は、“誰かの縁組”ではなく、“自分の足”で守られる形に整った。
結菜は小さく息を吸って、空を見上げた。
(私がいなくても世界は整う、なんて嘘だった)
私がいなくても世界は回る。
でも、私が私として生きる世界は——私が選ばないと、始まらない。
結菜はもう一度、拓真の手を握り返した。
その温度が、明日へ続く確かな証だった。

