本当はあなたに言いたかった


 夜が明ける前の空は、淡い灰色だった。
 朝霧家の庭の灯りがまだ消えず、道だけが静かに照らされている。
 結菜は窓辺に立ち、昨夜受け取った紙片を指先でそっと撫でた。

 《拓真へ》
 破れても、残っている。
 言えなかった言葉の残骸が、今は“言えた”証拠になっている。

 結菜は息を吸った。
 胸が痛い。
 でも、昨日までの痛みとは違う。
 痛いのに、少しだけ前を向ける痛み。

 扉がノックされた。

「結菜」

 拓真の声。
 昨夜と同じ。
 でも昨夜より少し落ち着いた声。

 結菜は扉を開けた。
 拓真が立っている。
 目の下に薄い影。眠れていない顔。
 でも、視線だけは真っ直ぐだった。

「……朝になる前に、話がある」

「うん」

 結菜は頷いた。
 頷くことが、今日は“命令”じゃない。
 自分の意思だ。

 二人は廊下を抜け、誰もいない小さなサンルームへ入った。
 ガラス越しに庭が見える。
 花はまだ眠っていて、風だけが動いている。

 拓真が言った。

「結菜。俺は昨日、片岡家に逆らった」

 結菜の心臓が跳ねる。
 それは、結菜が一番恐れていたこと。
 戦争の匂い。

「……どうして」

「戦争にしないために、逆らった」

 矛盾しているのに、拓真の目は揺れていなかった。

「俺の結婚は道具じゃないって、言った。
 当主になれなくてもいいって言った」

 結菜の喉が震える。
 そんなことを言わせたくなかった。
 言わせたら、拓真の人生が傷つく。

「……私のせい」

 結菜が言いかけた瞬間、拓真が遮った。

「違う」

 はっきりと。
 結菜が今まで聞いたことのないほど、真っ直ぐに。

「結菜のせいにしたら、俺は一生お前を恨む。
 だから言う。俺の意思だ」

 結菜の目の奥が熱くなる。
 熱くなるのに、今は笑えない。
 笑ったらまた逃げてしまうから。

 拓真は続けた。

「黒崎と動いてる。三原と鷹宮当主の動きも掴んだ。
 鷹宮家の条件は、強すぎる。だから崩せる」

 契約で止める。
 壊さずに取り戻す。
 拓真は本当に、その道を選んだのだと結菜は理解した。

 結菜は小さく言った。

「……でも、朝霧が」

「朝霧は、結菜が守る」

 拓真の言葉は、結菜の胸を痛く叩く。
 結菜はずっと、そのために折れてきた。

 拓真は一歩近づき、でも触れない距離で言う。

「だから俺は、結菜に“守らせない”んじゃない。
 結菜が守るなら、俺は隣で支える。
 守るために折れるんじゃなくて、守りながら生きる形を作る」

 結菜の喉が震えた。
 それは、鷹宮が言った“選択肢”と同じ方向だ。
 でも、鷹宮の言葉は合理で、拓真の言葉は熱い。

 結菜は視線を落とし、握っていた紙片を胸に当てた。

「……私、怖いの」

 声が小さい。
 でも逃げないで言えた。

「あなたが動いたら戦争になるって、ずっと思ってた。
 私が原因になって、あなたが壊れるのが怖かった」

 拓真が息を吐いた。

「俺も怖い」

 その言葉が意外で、結菜は顔を上げる。
 拓真が、初めて弱さを見せる。

「怖いのに、動く。
 怖いのに、隣に立つ。
 ——それが俺の選択だ」

 結菜の胸が、ぎゅっと潰れる。
 こんな言葉を、ずっと欲しかった。
 でも欲しがる資格がないと思っていた。

 拓真が、ようやく手を差し出した。
 今までみたいに掴む手じゃない。
 奪う手じゃない。
 ただ、“ここにいる”と示す手。

「結菜。俺の手を取れ」

 結菜の指先が震える。
 薬指が疼く。
 指輪の痕。契約の鎖。
 全部が邪魔をする。

 結菜は一歩引きそうになって、止まった。

 
 ——自分の意思で逆らう、最初の一歩。

 結菜は、ゆっくりと息を吸った。

「……私、決める」

 結菜は自分の手を、拓真へ差し出した。
 震えている。
 でも逃げない。

 拓真がその手を受け取る。
 握り潰さない。
 掴み取らない。
 ただ、あたためるように包む。

 結菜の目の奥が熱くなり、涙が落ちそうになる。
 でも今度は、笑って誤魔化さない。

「……守るって言わないで」

 結菜が小さく言う。

「守られると、私はまた“駒”になる気がする」

 拓真が、少しだけ笑った。
 優しく。

「じゃあ、約束する」

 拓真は結菜の手を包んだまま、言った。

「俺はお前を“守る”んじゃない。
 お前の隣に立つ。
 お前が選ぶのを、邪魔しない。
 お前が折れそうな時は——一緒に折れない形を探す」

 結菜の喉が震えた。
 震えて、ようやく言える。

「……私も、逃げない」

 言えた瞬間、結菜の胸がふっと軽くなった。
 契約の鎖はまだある。
 朝霧の圧も、鷹宮当主の思惑も、三原の黒幕も、全部残っている。

 でも、結菜はもう一人じゃない。

 サンルームのガラス越しに、朝の光が少しだけ差し込んだ。
 庭の花が、まだ眠ったまま淡く光る。

 結菜は拓真の手を握り返した。
 自分の意思で。

「……最短距離って、これだったんだね」

 拓真が低く答える。

「お前が手を出すまで、俺はずっと遠回りしてた」

 結菜は泣きながら、小さく笑った。
 今度の笑いは逃げじゃない。

 ——これが、二人の約束。

 喧嘩でしか近づけなかった幼なじみは、
 自分の意思で手を差し出し、
 相手がそれを受け取ることで、ようやく同じ場所に立った。