本当はあなたに言いたかった


 翌朝のオフィスは、コーヒーの匂いとキーボードの音で満ちていた。
 昨日の夜、結菜の世界は変わったはずなのに——会社は何も変わらない顔で動いている。

 結菜はデスクに座り、パソコンを立ち上げた。
 画面の光が目に痛い。眠れていない。
 それでも“社長令嬢”は、眠れなかった痕跡を残してはいけない。

 栗色の巻き毛はいつもより丁寧に巻いて、柔らかく肩に落とした。
 可愛らしい顔立ちを崩さないように、口角だけ少し上げる。
 笑える。笑う練習は、ずっとしてきた。

「朝霧さん、今朝の資料です」

 若手社員が差し出したファイルを受け取り、結菜は頷いた。
 指先が少しだけ震える。紙が擦れる音がやけに大きく聞こえて、結菜はその震えを爪先の力で押さえ込んだ。

 ——見合いのこと、誰にも言うな。
 父の言葉が、まだ耳に残っている。

 当然だ。
 言った瞬間、すべてが動く。
 会社が、家が、そして——拓真が。

 (拓真だけには、言えない)

 言えない理由は、ひとつじゃない。
 言ったら“助けて”と言うことになる気がする。
 助けてと言ったら、弱さを見せることになる。
 そして、拓真にだけは——可哀想だと思われたくない。

 結菜が画面に視線を落としたまま、資料の数字を追っていると。

「おい」

 低い声が、背後から落ちてきた。

 結菜の背筋が反射で硬くなる。
 振り向かなくても分かる。歩幅、気配、声の温度。

「呼び捨てにしないでください、片岡さん。ここは会社です」

 振り向きながら言うと、拓真は結菜のデスク脇に立っていた。
 スーツの襟元、ネクタイの結び目、整いすぎているのに乱暴な目つきだけが昔のまま。

「朝霧さん、って呼べば満足か?」

「最低限の礼儀は必要だと思う」

「礼儀ね」

 拓真が鼻で笑う。
 結菜はその笑い方に、なぜだか傷つく。
 傷ついている場合じゃないのに、心が勝手に反応する。

「で、何の用?」

「昨日」

 拓真が言いかけて、結菜の手が止まった。

 ——昨日。
 パーティー。お似合いの絵。
 それとも、父の命令。契約書の封筒。
 どれのことを言われても、結菜は耐えられない。

「昨日がどうしたの」

 平然と返したつもりだった。
 でも拓真の目が、結菜の顔をじっと見て——それだけで、嘘がばれる気がする。

「お前、顔色悪い」

「悪くない」

「悪い」

「しつこい」

「しつこくなるくらい、変なんだよ」

 拓真の声が少し低くなる。
 結菜は胸がきゅっと縮む。
 心配されるのが怖い。心配されると、崩れてしまう。

 結菜は椅子を少し引き、書類を整えるふりをした。

「忙しいの。見ての通り」

「忙しい? お前が?」

「嫌味?」

「違う。……いや、違わないかもしれないけど」

「どっちなの」

 いつもの喧嘩。
 なのに今日は、言い返す言葉のどれもが喉の奥で引っかかる。
 結菜は気づく。——自分は今、戦えない。

 拓真が、結菜のデスク上のファイルに視線を落とした。

「……これ、朝霧単独の案件じゃないだろ」

「片岡には関係ない」

「関係ある。俺が絡んでる以上、関係ある」

「絡んでるのは仕事だけ」

 言った瞬間、結菜は自分でも驚いた。
 棘が、深い。
 拓真の目が、一瞬だけ細くなる。

「……お前、昨日からおかしい」

「昨日からじゃない。昔からこう」

「昔からこう、って言うなら、喧嘩くらいちゃんとしろよ」

 拓真の言葉が、胸に刺さった。
 喧嘩くらいちゃんとしろ。
 結菜は喧嘩ができない自分が、拓真にとって“別の何か”に見えてしまうのが怖い。

「喧嘩したいなら、相手を選んで」

 結菜は立ち上がった。
 椅子が僅かに軋む。
 周囲の社員たちが視線を逸らす気配がする。
 見られている。噂になる。ここで崩れたら終わる。

 拓真が、結菜の腕を掴んだ。

 ——熱い。

 その体温が、結菜の中の何かを溶かしそうで、怖くなる。

「逃げんな」

「逃げてない」

「逃げてる。お前、嫌な話になるといつも——」

 拓真の言葉が、そこまで来て止まった。

 “いつも”
 結菜の逃げ癖。
 自分でも分かっている。
 だって、逃げるしかない時がある。

 結菜は腕を振りほどいた。
 その勢いで、デスク上のペンが転がり落ちた。カツン、と乾いた音。

「……やめて」

 声が震えた。
 震えたことが悔しくて、結菜は唇を噛む。

 拓真の目が揺れる。
 揺れるけれど、言葉は出てこない。

「朝霧さん」

 そこへ、陽菜の声が入った。
 柔らかいのに、空気を一瞬で整える声。

 結菜が振り向くと、陽菜が書類の束を抱えて立っていた。
 陽菜は二人の間に流れる緊張を一瞬で理解し、笑顔のまま近づく。

「拓真くん、結菜ちゃん、ここ会社だよ?」

「……分かってる」

 拓真が短く答える。
 陽菜は拓真の袖を軽く引いて、距離を作る。

「会議室、取られてる。話すならそっち」

「話すことなんてない」

 結菜が反射で言うと、陽菜の目が結菜の顔を見た。
 見透かすような、でも優しい目。

「結菜ちゃん、無理しないで。……大丈夫?」

 その言葉が、“優しい刃”みたいに刺さる。
 大丈夫じゃない。
 でも大丈夫じゃないと言ったら、何もかも崩れる。

 結菜は笑った。
 上手に。いつも通りに。

「大丈夫。忙しいだけ」

 嘘をつく。
 嘘をついた瞬間、胸の奥が痛んで、呼吸が浅くなる。

 拓真が結菜を見たまま言う。

「忙しい? ……誰と会ってんだよ」

 結菜の心臓が跳ねた。
 見合い。鷹宮。契約書。父の命令。
 全部が喉までせり上がってくる。

 言えない。
 言ったら、拓真が壊す。
 壊したら、朝霧が危ない。
 父が言った“余計なことをするな”が、鎖のように絡む。

「……関係ない」

 結菜は絞り出した。

 拓真の眉間が深くなる。

「関係あるだろ。お前のことだぞ」

 その言葉が、結菜の胸を叩いた。
 “お前のことだぞ”
 それは、守ろうとする言葉。
 でも今の結菜には、それが一番怖い。

 結菜は視線を逸らし、ファイルを抱えた。

「打ち合わせがあるの。失礼します」

「待て」

 拓真が言う。
 結菜は立ち止まらない。
 止まったら、言ってしまいそうだから。

 廊下に出ると、冷房の風が頬を冷やした。
 結菜は歩幅を早める。
 逃げる。
 自分でも分かるほど、綺麗に逃げている。

 背後から、陽菜が拓真に小声で言うのが聞こえた。

「拓真くん……追い詰めないで。結菜ちゃん、今、壊れそう」

 壊れそう。
 その言葉が、背中に突き刺さる。

 結菜は唇を噛み、角を曲がった。
 胸が苦しい。
 それでも、涙は出せない。

 ——言えない理由は、ひとつ。

 あなたにだけは、知られたくないから。

 結菜は誰もいない非常階段の前で、ようやく息を吐いた。
 コンクリートの冷たさが、背中越しに伝わる。

 スマホがポケットの中で震えた。
 通知。
 結菜は画面を見ない。
 見る勇気がない。

 今日も、いつも通りの顔で笑う。
 喧嘩をして、仲裁されて、日常を演じる。

 ——見合いのことだけは、言えないまま。