結菜は、鷹宮から渡されたファイルを抱えたまま、自室の床に座り込んでいた。
“選択肢”。
“主導権”。
“解除の申し立てを妨げない”。
紙の上の言葉は、鍵の形をしている。
でも鍵を握る手が震える。
震えるのは怖いからだ。
鍵を回した瞬間、世界が変わる。
変わった世界で、結菜が立っていられるか分からない。
窓の外は夜。
庭の灯りが整いすぎた道を照らし、朝霧家は今日も静かだ。
静かで、逃げ場がない。
ノックがした。
「結菜」
名前を呼ぶ声が、背中を強く叩いた。
拓真の声。
結菜の心臓が跳ねた。
跳ねて、すぐに冷えた。
(どうしてここに)
守秘条項。交友制限。波風を立てない。
全部が頭をよぎる。
来てはいけない。
会ってはいけない。
でも——会いたい。
結菜は立ち上がれなかった。
返事もできない。
息が浅い。
扉の向こうで拓真が低く言った。
「開けろ。……頼む」
頼む。
命令じゃない声。
それだけで結菜の目の奥が熱くなる。
結菜は震える手で扉を開けた。
拓真が立っていた。
スーツは少し乱れている。
でも目は真っ直ぐで、いつもの苛立ちよりずっと痛そうだった。
「……来るなって言ったのに」
結菜が絞り出すと、拓真は一歩も引かずに言った。
「近づくなって言われても、近づく」
その言い方が、昔の喧嘩の始まりに似ていて、結菜の胸が痛む。
「子どもみたい」
「結菜が大人ぶるからだ」
拓真の言葉に、結菜は笑いそうになって、笑えなかった。
喧嘩ができる距離。
それが懐かしくて、怖い。
拓真は、胸ポケットから小さな紙片の束を取り出した。
折れた紙。
裂けた紙。
それを見た瞬間、結菜の血の気が引いた。
「……それ」
結菜の喉が震える。
拓真が低く言った。
「見つけた」
結菜は息を飲む。
破った手紙。
送れなかった本音。
見つけられたら終わると思っていたのに——もう終わっていた。
「捨てて」
結菜が言う。
必死な声。
拓真が首を振る。
「捨てねぇ」
短くて頑固な声。
拓真らしい。
結菜は視線を逸らし、壁に背をつけた。
逃げ癖が出る。
逃げたくて、逃げられない。
「……どうして、そんなことするの」
結菜が震える声で言うと、拓真は一歩だけ近づいた。
近づいて、でも触れない。
触れたら結菜が壊れると分かっている距離。
「俺が、知らなきゃいけないと思った」
拓真の声は低い。
怒りじゃない。
痛みの声。
「お前が書いた『ごめん』を、俺が見なかったことにできるかよ」
結菜の目の奥が熱くなる。
泣きそうになる。
泣いたら負ける、と頭が言う。
でも胸がもう止めない。
「……見ないで」
結菜は小さく言った。
見ないで。
本音を見ないで。
見たら、拓真が動く。
動いたら、全部壊れる。
拓真が低く言った。
「見た」
言い切る声が、優しいのに強い。
拓真は紙片を握りしめないように、丁寧に持ったまま言う。
「『本当は言いたかった。でも言えなかった』って書いてあった」
結菜の胸が、きゅっと潰れる。
「……忘れて」
結菜は言う。
いつも通りの逃げ道の言葉。
でも今日は拓真が逃がさない。
「忘れない。忘れられない」
拓真が一拍置いて、結菜の目を見た。
「結菜。俺に言えよ」
結菜は首を振る。
振った瞬間、涙が一粒落ちた。
落ちたことが悔しい。
結菜は笑おうとして、笑えなかった。
「言ったら……あなたを巻き込む」
拓真の眉が少しだけ動く。
「巻き込め」
「だめ」
「だめじゃない」
押し問答。
喧嘩。
でもこれは、いつもの喧嘩じゃない。
胸の奥を抉る喧嘩だ。
結菜は、ようやく言葉を吐き出した。
吐き出すほど、胸が痛い。
「怖かったの」
声が震える。
喉が痛い。
それでも言う。
「あなたを巻き込みたくなくて……朝霧が壊れるのも、あなたが壊れるのも嫌で……」
結菜は息を吸い、涙を拭わずに続けた。
「だから、黙った。嘘をついた。逃げた。
『触らないで』って言った。手紙も破いた」
拓真の目が揺れる。
揺れて、痛そうに細くなる。
結菜は、最後の本音を喉の奥から引きずり出した。
「……でも本当は」
言った瞬間、胸が裂けるほど痛い。
言ったら戻れない。
でも戻りたい場所なんて、もうない。
結菜は小さく言った。
「……助けてって言いたかった」
拓真の息が止まる。
結菜は泣きながら、続けた。
「好きって……言いたかった」
言ってしまった。
言った瞬間、結菜の中の“令嬢”が一枚剥がれ落ちた。
拓真は、少しだけ笑った。
笑うのに、目が潤んでいる。
「……お前さ」
拓真の声が、いつもより柔らかい。
そして、結菜の胸を一番近くで叩く言葉が落ちる。
「喧嘩できるの、お前だけだ」
結菜の目が見開かれる。
そんなこと言わないで。
嬉しくなるから。戻れなくなるから。
拓真は続けた。
「俺の本音は、いつもお前にしか出ない」
声が震える。
不器用な男の、限界の声。
「お前がいないと、俺は……正解の席で笑うだけの人形になる」
人形。
その言葉が、結菜の胸の奥に刺さる。
鏡の中の自分と重なる。
結菜は泣きながら笑ってしまった。
笑うしかなかった。
こんなに痛いのに、嬉しい。
「……馬鹿みたい」
「馬鹿でいい」
拓真は一歩近づいて、今度は逃げない距離で言った。
「結菜。守るために離れるな。
俺は壊れねぇ。お前が思うより、ちゃんと強い」
結菜は首を振る。
「強いのは、あなたじゃなくて片岡家。……戦争になる」
拓真の目が、静かに燃えた。
「戦争にしない」
言い切る声が、黒崎の言葉と重なる。
契約で止める。壊さずに取り戻す。
拓真は紙片を結菜に差し出した。
「これ、捨てない。
お前が“言いたかった”証拠だから」
結菜は紙片を見つめ、震える指で受け取った。
紙は軽いのに、胸が重い。
結菜は小さく呟く。
「……もう、言えないと思ってた」
「言っただろ。今」
拓真の言葉に、結菜は泣きそうな顔で笑った。
「……うん」
喧嘩でしか近づけなかった二人が、
喧嘩の先で、初めて“告白”に辿り着く。
それはまだ、約束じゃない。
まだ、何も解決していない。
でも——
結菜は初めて、逃げずに拓真を見た。
拓真も初めて、結菜を“守る”のではなく“隣に立つ”目で見た。

