本当はあなたに言いたかった

 拓真は、結菜の“言えない”を責めるのをやめた。
 責めたところで、結菜は笑って逃げる。
 逃げるのは弱いからじゃない。守るためだと、ようやく分かったから。

 それでも、拓真は苦しかった。
 結菜が何を抱えているのか、全部は分からない。
 分からないまま隣に立つには、手がかりが少なすぎた。

 黒崎が集めた資料は冷たい。
 契約条項、守秘、違反時の取り決め。
 数字と文字の世界は、結菜の痛みの形を写してはいるけれど、結菜の“本音”までは写さない。

 拓真が欲しかったのは、本音だった。

 ——結菜が、どんな顔で嘘をついたのか。
 ——どんな夜に、どんな言葉を飲み込んだのか。
 ——どれほど怖くて、どれほど好きだったのか。

 その日、拓真は朝霧家近くの道を通った。
 用事があったわけじゃない。
 ただ、足が勝手に向かった。

 “近づかないで”と言われた場所の、少し外側。
 結菜の気配だけが残っていそうな距離。

 そして、偶然——あるいは、必然。

 朝霧家の敷地脇に停まった清掃車から、黒いゴミ袋が運び出されるのが見えた。
 家のゴミ。
 令嬢の生活の残骸。

 拓真は立ち止まった。
 自分でも分かる。やってはいけない。
 こんなことをしたら、結菜に嫌われる。

 でも——胸の奥が、ざわついて止まらなかった。

 (結菜は、何を捨てた)

 拓真は清掃の動きが終わるのを待ち、誰もいなくなったタイミングでゴミ置き場の陰に回った。
 手袋はない。
 スーツの袖が汚れるのも構わない。

 自分が最低だと思いながら、拓真は袋の口をそっと開いた。
 紙の匂い。インクの匂い。
 生活の匂い。

 中に、細かく裂かれた白い紙が散っていた。
 ただのメモかもしれない。
 でも拓真は、なぜか呼吸が止まった。

 紙片の端に、見覚えのある文字があった。

 《拓……》

 たったそれだけ。
 たったそれだけで、胸が痛くなる。

 拓真は紙片をそっと拾い、別の紙片を探す。
 破かれた紙は、ただ捨てられただけじゃない。
 “送らない”と決めた痕だ。

 紙片を集めるたび、指先が震える。
 汚れたくないんじゃない。
 怖い。
 何が書かれているのか、知るのが怖い。

 でも、知らないままの方がもっと怖い。

 拓真は、破れた紙片を慎重に集め、掌の上で並べた。
 欠けたパズルみたいに、少しずつ文字が繋がる。

 《拓真へ》

 その一枚を見つけた瞬間、拓真の喉が焼けた。
 結菜は、書いた。
 書いたのに、送らなかった。
 送れなかった。

 別の紙片が繋がる。

 《ごめんね》

 たったそれだけの謝罪が、拓真の胸を強く叩く。
 結菜の“ごめん”は、自分を削るごめんだ。

 さらに紙片を合わせる。

 《本当は、あなたに言いたかった》
 《でも、言えなかった》

 拓真の視界が、一瞬だけ滲んだ。
 滲んだことに気づいて、拓真は奥歯を噛みしめる。
 泣くな。
 泣いたら結菜に負ける——そんな意地が、まだ残っている。

 でも、これは勝ち負けじゃない。

 最後の一片が見つかった。
 角が滲んでいて、インクが少し広がっている。
 涙の跡かもしれない。

 紙片を繋げると、そこにあった言葉は——

 《私がいなくても、あなたは大丈夫》

 拓真は、息を吸えなかった。

 (大丈夫なわけねぇだろ)

 怒りが湧く。
 でもその怒りは、結菜を責める怒りじゃない。
 結菜にこんな言葉を書かせた世界への怒りだ。

 拓真は紙片を握りしめた。
 握りしめると、さらに破れてしまいそうで、慌てて力を緩める。
 壊したくない。
 これは結菜の本音の残骸だ。

 拓真は胸の奥で、ようやく理解した。

 結菜は、助けを求めたかった。
 でも求められなかった。
 助けを求めることが“朝霧を壊す”ことになるから。
 そして、拓真が壊れてしまうから。

 拓真は低く呟いた。

「……結菜」

 名前を呼ぶ声が、震えた。
 震えたことが悔しい。
 でも、悔しさより先に——痛い。

 黒崎の言葉が思い出される。

『守るのではなく、隣に立つ形で』

 拓真は紙片を胸ポケットに入れた。
 丁寧に。
 汚れないように。
 大切に扱うように。

 その瞬間、拓真の中で“誤解”が静かに崩れた。

 結菜は俺を外したんじゃない。
 結菜は俺を守ろうとして、自分を外したんだ。

 拓真は、立ち上がった。
 ゴミ置き場の空気が冷たい。
 でも胸の奥は熱い。

 (今度は、俺が言う番だ)

 “なんで黙ってた”じゃない。
 “もう一人で抱えるな”でもない。
 結菜が一番欲しかった言葉を、ちゃんと渡す。

 拓真は歩き出した。
 紙片の重さが、胸にしっかりとある。