鷹宮恒一は、いつも通り穏やかだった。
穏やかな笑み、整った声、丁寧な距離。
だから結菜は、いつも息が詰まる。
朝霧本社の応接室。
婚約発表後の挨拶回りの段取りが、淡々と進められていく。
紙の上の未来は、もう揺れない形に固められていた。
結菜は資料に目を落とし、頷く。
頷きながら、心の中では別の声が叫んでいる。
(敵は、誰)
昨日、扉の隙間で聞いた言葉がまだ耳に残る。
“言えない状況を整える”
それを穏やかに言った男——鷹宮当主・誠司。
そして社内の三原。
結菜は、鷹宮恒一を見た。
この人はどっちだ。
敵か。味方か。
それとも、どちらにもなれる人か。
「結菜さん」
鷹宮が、書類を閉じて声を落とした。
周囲には秘書がいる。
けれど彼の声は“二人の話”の音に変わる。
「……あなたの顔が、少し変わりましたね」
結菜の指先が止まる。
「変わった?」
「はい。前は、頷くのが上手でした。今は——頷く前に、一瞬だけ目が揺れる」
見抜かれている。
その事実が怖い。
でも同時に、もう隠すのが苦しい。
結菜は微笑みを作りかけて、やめた。
やめたことに、自分で驚く。
「……私は、揺れてはいけないんです」
令嬢の言葉。
でもその言葉の奥に、初めて“娘”が滲む。
鷹宮は頷き、静かに言った。
「揺れてはいけないのは、あなたの感情ではなく——朝霧の株価です」
結菜の胸が、ひゅっと鳴る。
それは皮肉ではない。
事実をそのまま言う声。
鷹宮は続ける。
「結菜さん。あなたは理解している。だから黙って頷いた。
でも、理解するだけでは心は壊れます」
結菜の喉が詰まる。
“壊れる”という単語を、鷹宮の口から聞くのは痛かった。
「……私が壊れたら、困るからですか」
結菜は自嘲気味に言ってしまった。
鷹宮は否定しない。
「困ります。あなたが壊れれば、契約が崩れる」
あまりに正直で、結菜は一瞬笑いそうになった。
笑えない。
笑ったら、また自分を殺す。
鷹宮は、そこで少しだけ間を置いた。
そして、真っ直ぐに言った。
「でも、それだけではありません」
結菜の胸がざわつく。
「私は、あなたに潰れてほしくない」
優しい言葉。
なのに結菜は、怖い。
この優しさもまた、檻の形をしている気がするから。
結菜は息を吸い、勇気を出して聞いた。
「……鷹宮さんは、どちらなんですか」
「どちら?」
「敵ですか。味方ですか」
言ってしまった。
この人の前で、そんなことを聞くなんて。
でも、聞かないと進めない。
鷹宮は驚かなかった。
ただ、小さく笑った。
「賢い質問です」
結菜の胸が痛む。
また“賢い”。
でも今回は、少し違う温度だった。
「私は——どちらにもなれます」
鷹宮はそう言って、名刺入れではなく、薄いファイルを取り出した。
中に一枚の書面がある。
それは契約書でも、合意書でもない。
“権利”の紙だった。
「結菜さん。あなたに選択肢を渡します」
結菜の指先が震えた。
「……選択肢」
鷹宮は低い声で、淡々と説明した。
「婚約破棄の主導権を、あなた側に置く書面です。
正確には“解除の申し立てを鷹宮家が妨げない”という合意。
あなたが望むなら、朝霧が最小の損失で済む形に整える」
結菜の呼吸が止まる。
逃げ道。
渡されたメモが、今ここで“正式な形”になった。
でもそれは同時に、鷹宮が本気で“終わらせる道”も用意している証拠だ。
怖い。
でも——救いでもある。
「……どうして、そこまで」
結菜が絞り出すと、鷹宮は少しだけ視線を落とした。
「私は、鷹宮家の人間です。
当主の意向に逆らう気はありません。——表向きは」
表向き。
その言い方が、結菜の背筋を冷たくする。
「けれど、当主のやり方は強い。強すぎる。
強すぎるやり方は、いつか必ず反動を生みます。
私はそれが嫌いです」
嫌い。
鷹宮が“感情”を口にしたことが、結菜には意外だった。
鷹宮は続ける。
「そして何より——あなたのような方が、ただの道具として壊れるのを見るのは、趣味ではない」
趣味。
その言葉が少し乱暴で、鷹宮らしくなくて、結菜は一瞬だけ息を忘れた。
「結菜さん。あなたは、朝霧を守ろうとしている。
その覚悟は、本物です。
でも覚悟が本物だからこそ、あなたは壊れる」
結菜の目の奥が熱くなる。
否定できない。
否定したら嘘になる。
鷹宮は静かに言った。
「だから、選ばせます。
“守るために折れる”か、
“守りながら、自分も生きる”か」
結菜の喉が震えた。
生きる。
その言葉は、結菜がずっと欲しかった言葉なのに、ずっと遠かった。
結菜は、書面を見つめた。
紙は薄い。
でも、この薄さが未来を変える。
鷹宮は最後に、優しくもなく冷たくもなく言った。
「あなたがどちらを選んでも、私は整えます。
敵にも、味方にも——あなたの選択次第で」
結菜は、震える指で書面に触れた。
触れた瞬間、薬指が疼いた。
拓真の熱い手。
振りほどいた自分。
破った手紙。
全部が胸の奥でぶつかる。
結菜は小さく息を吐いた。
「……私、選べるんですね」
鷹宮が頷く。
「選べます。今なら」
今なら。
その言葉が、結菜を少しだけ前に押した。
結菜は書面をファイルごと受け取り、胸に抱えた。
重い。
でも、今までの契約書とは違う重さ。
——これは鎖じゃない。
——鍵だ。
結菜は初めて、鷹宮に向けて令嬢の笑顔ではない微笑みを浮かべた。
「……ありがとうございます」
鷹宮は穏やかに微笑む。
「どういたしまして。結菜さん」
その声は、敵でも味方でもない。
ただ、結菜の未来を動かす“協力者”の声だった。
穏やかな笑み、整った声、丁寧な距離。
だから結菜は、いつも息が詰まる。
朝霧本社の応接室。
婚約発表後の挨拶回りの段取りが、淡々と進められていく。
紙の上の未来は、もう揺れない形に固められていた。
結菜は資料に目を落とし、頷く。
頷きながら、心の中では別の声が叫んでいる。
(敵は、誰)
昨日、扉の隙間で聞いた言葉がまだ耳に残る。
“言えない状況を整える”
それを穏やかに言った男——鷹宮当主・誠司。
そして社内の三原。
結菜は、鷹宮恒一を見た。
この人はどっちだ。
敵か。味方か。
それとも、どちらにもなれる人か。
「結菜さん」
鷹宮が、書類を閉じて声を落とした。
周囲には秘書がいる。
けれど彼の声は“二人の話”の音に変わる。
「……あなたの顔が、少し変わりましたね」
結菜の指先が止まる。
「変わった?」
「はい。前は、頷くのが上手でした。今は——頷く前に、一瞬だけ目が揺れる」
見抜かれている。
その事実が怖い。
でも同時に、もう隠すのが苦しい。
結菜は微笑みを作りかけて、やめた。
やめたことに、自分で驚く。
「……私は、揺れてはいけないんです」
令嬢の言葉。
でもその言葉の奥に、初めて“娘”が滲む。
鷹宮は頷き、静かに言った。
「揺れてはいけないのは、あなたの感情ではなく——朝霧の株価です」
結菜の胸が、ひゅっと鳴る。
それは皮肉ではない。
事実をそのまま言う声。
鷹宮は続ける。
「結菜さん。あなたは理解している。だから黙って頷いた。
でも、理解するだけでは心は壊れます」
結菜の喉が詰まる。
“壊れる”という単語を、鷹宮の口から聞くのは痛かった。
「……私が壊れたら、困るからですか」
結菜は自嘲気味に言ってしまった。
鷹宮は否定しない。
「困ります。あなたが壊れれば、契約が崩れる」
あまりに正直で、結菜は一瞬笑いそうになった。
笑えない。
笑ったら、また自分を殺す。
鷹宮は、そこで少しだけ間を置いた。
そして、真っ直ぐに言った。
「でも、それだけではありません」
結菜の胸がざわつく。
「私は、あなたに潰れてほしくない」
優しい言葉。
なのに結菜は、怖い。
この優しさもまた、檻の形をしている気がするから。
結菜は息を吸い、勇気を出して聞いた。
「……鷹宮さんは、どちらなんですか」
「どちら?」
「敵ですか。味方ですか」
言ってしまった。
この人の前で、そんなことを聞くなんて。
でも、聞かないと進めない。
鷹宮は驚かなかった。
ただ、小さく笑った。
「賢い質問です」
結菜の胸が痛む。
また“賢い”。
でも今回は、少し違う温度だった。
「私は——どちらにもなれます」
鷹宮はそう言って、名刺入れではなく、薄いファイルを取り出した。
中に一枚の書面がある。
それは契約書でも、合意書でもない。
“権利”の紙だった。
「結菜さん。あなたに選択肢を渡します」
結菜の指先が震えた。
「……選択肢」
鷹宮は低い声で、淡々と説明した。
「婚約破棄の主導権を、あなた側に置く書面です。
正確には“解除の申し立てを鷹宮家が妨げない”という合意。
あなたが望むなら、朝霧が最小の損失で済む形に整える」
結菜の呼吸が止まる。
逃げ道。
渡されたメモが、今ここで“正式な形”になった。
でもそれは同時に、鷹宮が本気で“終わらせる道”も用意している証拠だ。
怖い。
でも——救いでもある。
「……どうして、そこまで」
結菜が絞り出すと、鷹宮は少しだけ視線を落とした。
「私は、鷹宮家の人間です。
当主の意向に逆らう気はありません。——表向きは」
表向き。
その言い方が、結菜の背筋を冷たくする。
「けれど、当主のやり方は強い。強すぎる。
強すぎるやり方は、いつか必ず反動を生みます。
私はそれが嫌いです」
嫌い。
鷹宮が“感情”を口にしたことが、結菜には意外だった。
鷹宮は続ける。
「そして何より——あなたのような方が、ただの道具として壊れるのを見るのは、趣味ではない」
趣味。
その言葉が少し乱暴で、鷹宮らしくなくて、結菜は一瞬だけ息を忘れた。
「結菜さん。あなたは、朝霧を守ろうとしている。
その覚悟は、本物です。
でも覚悟が本物だからこそ、あなたは壊れる」
結菜の目の奥が熱くなる。
否定できない。
否定したら嘘になる。
鷹宮は静かに言った。
「だから、選ばせます。
“守るために折れる”か、
“守りながら、自分も生きる”か」
結菜の喉が震えた。
生きる。
その言葉は、結菜がずっと欲しかった言葉なのに、ずっと遠かった。
結菜は、書面を見つめた。
紙は薄い。
でも、この薄さが未来を変える。
鷹宮は最後に、優しくもなく冷たくもなく言った。
「あなたがどちらを選んでも、私は整えます。
敵にも、味方にも——あなたの選択次第で」
結菜は、震える指で書面に触れた。
触れた瞬間、薬指が疼いた。
拓真の熱い手。
振りほどいた自分。
破った手紙。
全部が胸の奥でぶつかる。
結菜は小さく息を吐いた。
「……私、選べるんですね」
鷹宮が頷く。
「選べます。今なら」
今なら。
その言葉が、結菜を少しだけ前に押した。
結菜は書面をファイルごと受け取り、胸に抱えた。
重い。
でも、今までの契約書とは違う重さ。
——これは鎖じゃない。
——鍵だ。
結菜は初めて、鷹宮に向けて令嬢の笑顔ではない微笑みを浮かべた。
「……ありがとうございます」
鷹宮は穏やかに微笑む。
「どういたしまして。結菜さん」
その声は、敵でも味方でもない。
ただ、結菜の未来を動かす“協力者”の声だった。

