本当はあなたに言いたかった

 結菜が父に逆らおうとして喉が震えた夜、陽菜は眠れなかった。
 眠れない理由は一つじゃない。

 ——結菜の笑顔が壊れそうなこと。
 ——拓真が不器用に暴れそうなこと。
 ——そして、自分がずっと“正解の席”に座らされてきたこと。

 陽菜は、結菜に会う約束を取った。
 屋上ではない。
 今度は、逃げ道のない場所ではなく、二人が昔よく寄り道したカフェの奥の席。

 雨の匂いが残る夕方、結菜が先に座っていた。
 栗色の巻き毛はゆるくまとめられ、可愛らしい顔に微笑みがある。
 でも、その微笑みは薄い。
 薄いほど、陽菜は胸が痛む。

「陽菜、来てくれたんだ」

「うん。……結菜ちゃん」

 陽菜は席に座り、しばらく言葉を探した。
 探しても見つからない。
 優しい言葉ほど、結菜を傷つけると知っているから。

 結菜が笑った。

「大丈夫だよ。私、ちゃんとやるから」

 ちゃんと。
 その言葉が、陽菜の胸を刺した。
 結菜は“ちゃんと”するほど、壊れる。

 陽菜は深呼吸して、言った。

「結菜ちゃん……もう、ちゃんとしなくていい」

 結菜の笑顔が、一瞬だけ止まる。
 止まって、すぐに戻る。
 戻るのが癖になっている。

「それは無理。だって私、朝霧の——」

「令嬢、でしょ」

 陽菜が先に言った。
 結菜の言葉を奪うようで、胸が痛い。
 でも奪わなければ、結菜はまた笑って終わらせる。

 結菜は目を逸らした。
 逸らした先の窓ガラスに、二人の横顔が映る。
 どちらも笑っているのに、どちらも笑っていない。

 陽菜は、膝の上で手を握りしめた。
 指先が冷たい。

「ねえ、結菜ちゃん。私ね……ずっと黙ってたことがある」

 結菜が小さく首を傾げる。

「……なに?」

 陽菜は喉の奥が痛くなるのを感じた。
 言うのが怖い。
 言ったら、優しい関係が変わる。
 でも、変えないと間に合わない。

「私、拓真くんが……嫌いじゃなかった」

 結菜の目が、ほんの少しだけ見開かれた。
 驚き。
 そして、その直後に来る“理解”。

 陽菜は続けた。
 逃げないように、言葉を一つずつ置く。

「嫌いじゃない、っていうのは——
 好きになれるかもしれない、ってこと」

 結菜は笑ってみせた。
 笑ってしまう。
 結菜の癖。

「……陽菜、正直だね」

 その返しが、陽菜には痛かった。
 正直。
 正直な言葉が、結菜にはもう届かない。

 陽菜は首を振った。

「正直じゃないよ。ずっと逃げてた。
 “お似合い”って言われる席に座って、安心って言われて、
 結菜ちゃんの隣から拓真くんを遠ざけて……それでも私は何も言わなかった」

 結菜が小さく息を呑む。
 陽菜はそこで初めて、自分の目が熱くなっていることに気づいた。

 涙は、令嬢には似合わない。
 でも今は、止められない。

「……でもね」

 陽菜の声が震える。
 震えて、言葉が滲む。

「結菜ちゃんが笑うのが、一番苦しいの」

 その一言が、結菜の肩を揺らした。
 揺らしたのに、結菜はやっぱり笑う。

「苦しいって……どうして」

 結菜が問い返す。
 問い返すのに、目が潤んでいる。
 潤んでいるのに泣かない。泣けない。

 陽菜は、堪えていたものが溢れてしまった。

「だって結菜ちゃん、笑う時ほど壊れそうだもん」

 涙が一粒、頬を伝った。
 陽菜は慌てて拭おうとして、手が震えてうまく拭えない。

「私ね、拓真くんの隣にいると“正解”って言われる。
 でも、拓真くんが本音を出すのは結菜ちゃんの前だけ。
 結菜ちゃんが喧嘩する時だけ、拓真くんは生きてる顔をする」

 結菜の目が揺れる。
 揺れて、唇が震える。
 でも結菜は、また笑いそうになる。

 陽菜は、涙のまま言った。

「結菜ちゃん……もう笑わないで」

 結菜の口角が、止まった。
 止まった瞬間、結菜の可愛らしい顔が幼く見える。
 栗色の巻き毛の影で、目の奥が熱く揺れている。

「……笑わないと、私……」

 結菜の声が掠れる。

「笑わないと、朝霧が守れない」

 その言葉が、陽菜の胸を裂いた。
 結菜は自分を守るために笑っているんじゃない。
 家を守るために笑っている。

 陽菜は涙を拭いながら、強く首を振った。

「守れる。守れる道、絶対ある。
 だからお願い、結菜ちゃん。
 一人で抱えないで」

 結菜の指先が、カップの縁をぎゅっと握りしめた。
 薬指が隠れる。
 隠れたまま、結菜は小さく言った。

「……陽菜、私……ごめん」

 ごめん。
 結菜のごめんは、いつも自分を削る謝罪だ。

 陽菜は首を振り、涙のまま笑った。

「謝らないで。
 謝るのは私。
 私、結菜ちゃんの味方なのに……
 味方って言いながら、ずっと黙って、正解の席に座ってた」

 結菜は、ようやく視線を陽菜に戻した。
 その目が、初めて“令嬢の顔”じゃない。

「……陽菜は悪くないよ」

 結菜がそう言った瞬間、陽菜は胸が苦しくなった。
 結菜は優しい。
 優しいから、また自分を削る。

 陽菜は涙をこぼしながら、最後に言った。

「私、もう黙らない。
 結菜ちゃんが壊れる前に、私も動く。
 ——それが、私の選んだ“味方”」

 結菜の瞳が、さらに潤む。
 潤んで、でも泣かないまま、頷いた。

「……うん」

 その小さな頷きが、陽菜には救いだった。
 “正解”の席を捨ててでも、結菜の心を守りたい。
 陽菜はそう決めた。

 そして同時に、陽菜は理解していた。

 この涙は、終わりじゃない。
 結菜が本当に泣けるようになるまで、
 まだいくつも、言わなければならない言葉がある。