会見から戻った朝霧家は、静かだった。
静かすぎて、結菜の呼吸の音だけが目立つ。
父は応接間に入るなり、ジャケットも脱がずに書類を机へ置いた。
その動作が“終わり”を告げる。
「よくやった」
褒め言葉のはずなのに、結菜の胸は冷える。
“よくやった”は、娘に向ける言葉ではなく、道具に向ける評価だ。
結菜は立ったまま、微笑みを作った。
可愛らしい顔のまま、令嬢の顔で。
「ありがとうございます」
父が頷き、淡々と続ける。
「これで朝霧は守られる。市場も落ち着く。鷹宮家も動きやすい」
守られる。
守られるのは朝霧。
結菜の心は、今日も守られない。
父は、机の端に置いた白い封筒を指で弾いた。
硬い角。
契約書の匂い。
「明日からは発表後の挨拶回りだ。鷹宮家の席にも出る。
余計なことは言うな。余計な感情は捨てろ」
余計な感情。
拓真。
喧嘩。
笑って隠した涙。
全部そこに入る。
結菜は頷こうとして——止まった。
自分でも驚いた。
頷くのが癖になっていたはずなのに。
止まったのは、今日、扉の隙間で聞いた言葉のせいだ。
『娘さんが“言えない”状況を整えておけば——』
整えられた檻。
整えたのは、父だけじゃない。三原と鷹宮当主。
そして父は、その中で引けない顔をしていた。
結菜は、喉が痛いのに、声を出した。
「……お父さん」
父が顔を上げる。
結菜の“娘の声”が出たことに、わずかに眉が動く。
「何だ」
結菜は息を吸った。
胸の奥が震える。
でも、止めたらまた頷いてしまう。
結菜は言った。
「私、駒じゃない」
言ったつもりだった。
けれど、声は最後まで形にならなかった。
喉が震えて、言葉が欠ける。
「……私、は……」
震える。
今まで一度も父の前で震えたことがない。
震えた瞬間、結菜は自分が“娘”に戻ってしまうのが怖くなった。
父は、表情を変えずに言った。
「……何を言いたい」
冷たいわけではない。
ただ、揺れない。
揺れないことが、結菜をさらに震えさせる。
結菜は拳を握りしめた。
薬指が疼く。
拓真の指が触れた熱が、今も残っている気がして。
「……私」
喉が震える。
涙が出そうになる。
泣くな、と言われてきたのに。
泣いたら負けるのに。
結菜は、必死に言葉を繋げた。
「私の結婚が、朝霧を守るのは分かる。
でも——それだけじゃ、私が……」
そこまで言って、結菜は息が詰まった。
“苦しい”と言ってしまいそうで。
“嫌だ”と言ってしまいそうで。
言ったら、全てが壊れる気がして。
父が静かに言った。
「お前は、揺れるな」
結菜の胸が痛む。
揺れるな。
それは命令であり、呪いだ。
結菜は震えた声で、やっと言えた。
「……揺れてるの」
たったそれだけ。
父の目が、ほんの一瞬だけ揺れた。
揺れたのは、怒りではない。
疲れに近いもの。
父は息を吐き、低く言った。
「揺れてもいい。だが、外に出すな」
結菜の喉が痛い。
揺れてもいい。
でも黙れ。泣くな。笑え。頷け。
それは結局、何も変わらない。
結菜は、最後の力で言葉を探した。
父に伝えたいのは、抗議じゃない。
お願いだ。
“私も人間だ”という、たったそれだけの確認。
「……お父さん。私、ちゃんと……」
ちゃんと、何?
ちゃんと幸せになりたい。
ちゃんと好きって言いたい。
ちゃんと——生きたい。
その“ちゃんと”の先が、喉で消えた。
結菜は、とうとう目を逸らした。
逸らしてしまった。
逃げたのは口じゃなく、視線だった。
父は結菜の逃げを許すように、淡々と言った。
「お前は賢い。最後には必ず、朝霧を選ぶ」
その言葉が、結菜の胸を折る。
信頼じゃない。
“従う”と決めつける言葉。
結菜は、唇を噛んだ。
噛んで、血が滲みそうになるのを堪える。
そして、初めて父の前で——
微笑みを作らなかった。
「……お父さん」
結菜の声は小さい。
でも、逃げなかった。
「私は、朝霧を守る。……でも」
喉が震える。
それでも言う。
「私を、壊さないで」
言えた瞬間、胸の奥が熱くなった。
涙が一粒、頬を伝いそうになる。
結菜は慌てて指で拭う。
父は何も言わなかった。
黙って、結菜を見ていた。
その沈黙は、優しさではない。
でも、ほんの少しだけ——
父もまた、引けない場所にいるのだと結菜は分かった。
結菜は深く頭を下げた。
「……失礼します」
部屋を出た瞬間、背中の力が抜けた。
廊下の冷たい空気が、頬の熱を冷やす。
結菜は壁に手をつき、息を吐いた。
駒じゃない。
言い切れなかった。
でも、喉が震えたのは——
初めて、自分の意思で逆らおうとした証だった。

