本当はあなたに言いたかった

 片岡家の食卓は、静けさが支配する。
 箸の音さえ控えめで、会話は必要な分だけ。
 感情は飾りではなく、ノイズとして扱われる。

 拓真はそのノイズを胸に抱えたまま、席に着いていた。

 父——片岡宗一郎が、正面でグラスを置く。
 その動作ひとつで、空気が“決定”に寄る。

「鷹宮と朝霧が動いた。西園寺も噛む。——お前の隣を固める」

 固める。
 それは結婚のことだ。
 拓真の人生の“座席指定”。

 母——美佐子が、穏やかに笑う。

「拓真。陽菜さんのこと、あなたも悪くないと思っているでしょう? あの子なら安心よ」

 安心。
 またその言葉。
 安心のために、結菜が削られていることを誰も見ない。

 拓真は箸を置いた。
 置いた瞬間、心臓の音がうるさい。

「……俺は結婚しない」

 沈黙が落ちた。
 落ちた沈黙は、怒鳴り声より重い。

 母が微笑みを崩さずに言う。

「あら。子どもみたいなことを」

「子どもみたいでもいい。俺の結婚は道具じゃない」

 拓真の声は低かった。
 低いのに、揺れている。
 怒りより、恐怖が混ざっている。

 父が、少しだけ目を細めた。

「道具だ」

 たった三文字が、拓真の胸を殴る。

「片岡の名は道具だ。お前も道具だ。
 道具が感情で動けば、家が揺れる」

 拓真は歯を食いしばる。
 分かっている。
 分かっているから、これまで黙ってきた。

 でも——結菜が壊れるのを見て、もう黙れなくなった。

「家が揺れてもいい」

 拓真が言い切った瞬間、母の表情がわずかに固まった。
 父の目は、さらに冷たくなる。

「……朝霧の令嬢の件か」

 父は正確に踏んできた。
 拓真の胸が痛む。
 結菜の名前を、片岡家の口の中で“案件”にしたくない。

 拓真は一瞬だけ言葉に詰まって——でも、逃げなかった。

「結菜は、駒にされてる」

 口にした瞬間、喉が焼けた。
 でも言わない方がもっと苦しい。

 母が眉を寄せる。

「朝霧さんは……鷹宮家へ行くのが正解よ。あなたが巻き込むべきじゃない」

 正解。
 その言葉が、拓真の中の何かを切った。

「正解って何だよ」

 拓真は笑いそうになって、笑わなかった。

「結菜が泣かないで頷くのが正解?
 俺が黙って見送るのが正解?
 ——そんな正解、いらねぇ」

 父が、低い声で言う。

「お前が動けば、戦争になる」

 戦争。
 黒崎が言った“戦争”。
 結菜が恐れていた“全部壊れる”。

 拓真は一瞬だけ息を飲む。
 でも、それでも——

「戦争にしないやり方がある」

 拓真は机の上の資料を指で叩いた。
 黒崎が集めた、冷たい紙の束。

「契約で止める。条件を崩す。
 朝霧が“結菜を差し出さなくても守られる道”を作る」

 父の視線が、紙に落ちる。
 その目は一瞬だけ“興味”を見せた。
 片岡宗一郎は感情では動かない。数字と損得で動く。

「……お前がやるのか」

「俺がやる」

 拓真は言い切った。
 言い切るほど、胸が痛い。
 でも、言い切らなければ結菜は救えない。

 母が震える声で言う。

「拓真、あなた……家に逆らうの?」

 拓真は母を見た。
 母の瞳には心配もある。
 でもその心配は、“拓真の幸せ”より“片岡の体面”が先だ。

「逆らう」

 拓真の声は静かだった。
 静かなほど、決意が強い。

「俺は片岡の当主候補として生きる。
 でも、その条件は一つだ。
 ——俺の結婚を、俺の意志で選ぶ」

 父が、ゆっくりとグラスを持ち上げる。

「意志……か」

 そして、冷たく言った。

「お前の意志が家を損ねるなら、お前は当主にはなれない」

 脅し。
 でも父は脅しているつもりはない。事実を言っているだけ。

 拓真の胸が、スーっと冷える。
 当主になれなければ、結菜を守る力も失う。
 でも今のまま当主になっても、結菜は失う。

 選択は、もう一つしかない。

 拓真は父を見据え、低く言った。

「なら、当主にならなくていい」

 母が息を飲んだ。
 家の空気が凍る。

 拓真は続ける。
 自分の声が震えていないことに、自分で驚いた。

「俺は、結菜を守りたい。
 でも“壊して守る”んじゃなくて、隣に立つ形で守りたい。
 それを片岡が許さないなら——俺は片岡を選ばない」

 〔守りたい衝動が“選択”になる〕

 父の目が、わずかに細くなる。
 怒りではない。計算の目だ。
 息子が本気だと、ようやく理解した目。

「……後戻りはできないぞ」

「元から戻る気もない」

 拓真は席を立った。
 椅子が床を擦る音が、やけに大きい。

 母が、震える声で呼ぶ。

「拓真……!」

 拓真は振り返らなかった。
 振り返ったら、迷いが顔に出る。
 迷ったら、負ける。

 廊下に出ると、黒崎が待っていた。
 何も聞かず、ただ一礼する。

 拓真は黒崎の前でだけ、小さく息を吐いた。

「……俺、やるからな」

 黒崎が頷く。

「承知しました」

 拓真は夜の空気を吸い、心の中で結菜の名前を呼んだ。

 (結菜。今度は、逃げない)

 喧嘩でしか近づけなかった距離を、
 今度は選択で縮める。

 拓真は、片岡家に反旗を翻した。
 それは“戦争”ではなく、“未来の取り戻し”の始まりだった。