記者会見当日。
朝霧本社の会議室は、音がしないのに騒がしかった。
テレビ局のケーブル、広報の早足、資料を揃える指先。
整っているのに、心だけが整わない。
結菜は鏡の前で口角を上げる練習をしていた。
可愛らしい顔に、令嬢の微笑み。
栗色の巻き毛は丁寧に巻かれ、淡い色のスーツが“良い娘”を完成させる。
——笑え。頷け。揺れるな。
その命令が、結菜の骨まで染みている。
会見の直前、玲子が結菜の耳元で囁いた。
「結菜様……鷹宮家の当主、鷹宮誠司様が到着しました」
胸が冷える。
誠司——名前だけ聞いた“当主”。
縁談の本体。
結菜の人生を取引に変える人間。
そして同時に、取締役三原がこちらへ向かってくるのが見えた。
笑顔。丁寧。好意的。
なのに目が、忙しなく光っている。
「結菜さん」
三原が低い声で言う。
「すべて、予定通りです。——鷹宮家と朝霧、これで盤石になります」
盤石。
結菜の心は盤石じゃないのに。
結菜は微笑んだ。
「……はい」
言葉が薄い。薄いほど、三原は満足そうに頷く。
「賢い。さすが社長令嬢だ」
また、その言葉。
賢い。
従うための褒め言葉。
結菜は会見場へ向かう途中、ふと廊下の角で足を止めた。
開け放たれた小会議室の中。
誰もいないと思っていたのに、扉の隙間から声が聞こえる。
——父の声。
——そして、聞き覚えのない低い男の声。
結菜は息を殺した。
盗み聞きするつもりはない。
ただ、足が止まってしまった。
「……朝霧社長」
低い男の声が言う。
落ち着いていて、柔らかいのに、逆らえない圧がある。
「こちらは“縁組”が前提です。資本干渉を止める代わりに、我々が欲しいのは確実な関係——つまり、娘さんです」
結菜の背中が凍った。
娘さん。
私。
確実な関係。
つまり、鎖。
父の声が続く。
「分かっています。朝霧としても、それが最も確実です」
「確実……そうです。市場は不確実を嫌う」
その男が笑う。
笑い声が、綺麗すぎて怖い。
「ですから、今回の発表は“提携”を前に出し、縁組は補助的に。
世間は物語を求めます。『朝霧令嬢は鷹宮へ』という物語を、こちらから与える」
与える。
物語を。
結菜の人生を。
父が息を吐く気配がした。
「……片岡が動きかねない。娘が幼なじみを抱えている」
結菜の心臓が跳ねる。
父は知っている。
知っているのに、切り捨てる。
低い男が、楽しそうに言った。
「だからこそ、封じるのです。守秘条項。交友制限。違反時の取り決め。
娘さんが“言えない”状況を整えておけば、片岡は動けない」
結菜の喉が痛い。
“言えない状況”。
整えられた檻。
自分が息をする場所まで、紙で決められていた。
父が低く言う。
「……三原が社内を動かしすぎている。噂が燃えた」
その瞬間、結菜の中で点が繋がった。
三原。
真鍋。
鷹宮当主。
——噂が燃えるように仕組まれていた。
低い男が、穏やかに答える。
「噂は燃やすものです。燃えれば、人は“正解”を求める。
正解を出せば、皆が安心する。
安心のためなら、娘さんは黙って頷く」
黙って頷く。
それが、結菜の役目。
結菜の指先が震えた。
震えたのに、声は出ない。
ここで声を出せば、会見が壊れる。朝霧が揺れる。
——それを恐れて、黙るように作られている。
父の声が、少しだけ荒れた。
「……娘の心が持たない」
その言葉に、結菜は一瞬、胸が詰まった。
父は、気にしている?
気にしているのに——
低い男が、柔らかく笑った。
「心は、後からついてきます。
社長も言っていたでしょう。“結婚は仕事だ”と」
祖父の言葉。
朝霧の言葉。
敵が、朝霧の言葉を使う。
父が、沈黙する。
沈黙は、降伏だった。
結菜はその瞬間、はっきり理解した。
——本当の敵は、鷹宮家の当主と、社内の三原。
——そして父は、引けない場所に追い込まれている。
父は悪ではない。
でも父は、結菜を差し出すしかない場所に立たされている。
扉の向こうで、低い男——鷹宮誠司が言った。
「さあ、社長。時間です。
“朝霧が守られる未来”を、世間に示しましょう」
結菜の背中が冷たくなる。
守られる未来。
守られない結菜。
結菜は廊下の壁に指先を当て、深く息を吸った。
吸った息が震える。
(……私、何をしてる)
でも、まだ声にできない。
声にできないから、令嬢の顔を作る。
結菜は口角を上げ、会見場へ向かった。
心の中でだけ、初めてはっきりと呟く。
(敵は、あなたたちだ)
その呟きは小さかった。
でも、折れたままの結菜の中に、確かに“怒り”が灯った。
朝霧本社の会議室は、音がしないのに騒がしかった。
テレビ局のケーブル、広報の早足、資料を揃える指先。
整っているのに、心だけが整わない。
結菜は鏡の前で口角を上げる練習をしていた。
可愛らしい顔に、令嬢の微笑み。
栗色の巻き毛は丁寧に巻かれ、淡い色のスーツが“良い娘”を完成させる。
——笑え。頷け。揺れるな。
その命令が、結菜の骨まで染みている。
会見の直前、玲子が結菜の耳元で囁いた。
「結菜様……鷹宮家の当主、鷹宮誠司様が到着しました」
胸が冷える。
誠司——名前だけ聞いた“当主”。
縁談の本体。
結菜の人生を取引に変える人間。
そして同時に、取締役三原がこちらへ向かってくるのが見えた。
笑顔。丁寧。好意的。
なのに目が、忙しなく光っている。
「結菜さん」
三原が低い声で言う。
「すべて、予定通りです。——鷹宮家と朝霧、これで盤石になります」
盤石。
結菜の心は盤石じゃないのに。
結菜は微笑んだ。
「……はい」
言葉が薄い。薄いほど、三原は満足そうに頷く。
「賢い。さすが社長令嬢だ」
また、その言葉。
賢い。
従うための褒め言葉。
結菜は会見場へ向かう途中、ふと廊下の角で足を止めた。
開け放たれた小会議室の中。
誰もいないと思っていたのに、扉の隙間から声が聞こえる。
——父の声。
——そして、聞き覚えのない低い男の声。
結菜は息を殺した。
盗み聞きするつもりはない。
ただ、足が止まってしまった。
「……朝霧社長」
低い男の声が言う。
落ち着いていて、柔らかいのに、逆らえない圧がある。
「こちらは“縁組”が前提です。資本干渉を止める代わりに、我々が欲しいのは確実な関係——つまり、娘さんです」
結菜の背中が凍った。
娘さん。
私。
確実な関係。
つまり、鎖。
父の声が続く。
「分かっています。朝霧としても、それが最も確実です」
「確実……そうです。市場は不確実を嫌う」
その男が笑う。
笑い声が、綺麗すぎて怖い。
「ですから、今回の発表は“提携”を前に出し、縁組は補助的に。
世間は物語を求めます。『朝霧令嬢は鷹宮へ』という物語を、こちらから与える」
与える。
物語を。
結菜の人生を。
父が息を吐く気配がした。
「……片岡が動きかねない。娘が幼なじみを抱えている」
結菜の心臓が跳ねる。
父は知っている。
知っているのに、切り捨てる。
低い男が、楽しそうに言った。
「だからこそ、封じるのです。守秘条項。交友制限。違反時の取り決め。
娘さんが“言えない”状況を整えておけば、片岡は動けない」
結菜の喉が痛い。
“言えない状況”。
整えられた檻。
自分が息をする場所まで、紙で決められていた。
父が低く言う。
「……三原が社内を動かしすぎている。噂が燃えた」
その瞬間、結菜の中で点が繋がった。
三原。
真鍋。
鷹宮当主。
——噂が燃えるように仕組まれていた。
低い男が、穏やかに答える。
「噂は燃やすものです。燃えれば、人は“正解”を求める。
正解を出せば、皆が安心する。
安心のためなら、娘さんは黙って頷く」
黙って頷く。
それが、結菜の役目。
結菜の指先が震えた。
震えたのに、声は出ない。
ここで声を出せば、会見が壊れる。朝霧が揺れる。
——それを恐れて、黙るように作られている。
父の声が、少しだけ荒れた。
「……娘の心が持たない」
その言葉に、結菜は一瞬、胸が詰まった。
父は、気にしている?
気にしているのに——
低い男が、柔らかく笑った。
「心は、後からついてきます。
社長も言っていたでしょう。“結婚は仕事だ”と」
祖父の言葉。
朝霧の言葉。
敵が、朝霧の言葉を使う。
父が、沈黙する。
沈黙は、降伏だった。
結菜はその瞬間、はっきり理解した。
——本当の敵は、鷹宮家の当主と、社内の三原。
——そして父は、引けない場所に追い込まれている。
父は悪ではない。
でも父は、結菜を差し出すしかない場所に立たされている。
扉の向こうで、低い男——鷹宮誠司が言った。
「さあ、社長。時間です。
“朝霧が守られる未来”を、世間に示しましょう」
結菜の背中が冷たくなる。
守られる未来。
守られない結菜。
結菜は廊下の壁に指先を当て、深く息を吸った。
吸った息が震える。
(……私、何をしてる)
でも、まだ声にできない。
声にできないから、令嬢の顔を作る。
結菜は口角を上げ、会見場へ向かった。
心の中でだけ、初めてはっきりと呟く。
(敵は、あなたたちだ)
その呟きは小さかった。
でも、折れたままの結菜の中に、確かに“怒り”が灯った。

