本当はあなたに言いたかった

 朝霧本社のエントランスホールには、朝から大型モニターが点いていた。
 ニュースリリース用のテロップが、静かに流れている。

《朝霧ホールディングス×鷹宮商事 戦略的提携に向けた協議開始》
《両社は長期的な協力関係の構築を目指す》

 言葉は柔らかい。
 でもそれは、もう決まった未来の“予告”だった。

 結菜はその前を、いつも通りの足取りで通った。
 栗色の巻き毛はきれいに整えられ、可愛らしい顔には微笑みがある。
 社長令嬢としての、完璧な顔。

 社員たちが頭を下げる。

「朝霧さん、おはようございます」

「おはよう」

 結菜は笑う。
 笑えば、皆は安心する。
 安心すれば、会社は揺れない。

 だから笑う。

 でもモニターの文字が視界に入るたび、胸の奥が冷たくなる。
 提携。
 協議開始。
 ——婚約発表の前振り。

 結菜は歩きながら、ポケットの中のスマホに触れた。
 画面は見ない。
 見たら、壊れる。

 昨日破いた手紙の紙片が、ゴミ箱の底に沈んでいる。
 《拓真へ》の文字だけが、まだ頭の中に残っている。

 (届かない方が、守られる)

 そう言い聞かせるほど、喉が痛い。

 

 午前の会議は、まるで儀式だった。
 広報、法務、秘書室、取締役。
 全員が“整えた言葉”を確認し、整えた表情で頷く。

 結菜の席の前に、資料が置かれる。

《明日 10:00 共同記者会見》
《発表内容:提携の進捗・両家の縁組に関する基本合意》

 “縁組”
 その二文字が、紙の上で淡く光る。

 結菜はペンを持ち、チェックを入れた。
 チェックを入れる指が震えない。
 震えないことが、怖い。

「結菜さん、コメント案はこちらです」

 広報担当が差し出す紙には、きれいな文章が並んでいる。

《このたび両家の長年のご縁を背景に——》
《互いを尊重し、将来を見据え——》
《皆さまのご期待に添えるよう——》

 結菜の気持ちは一文字もない。
 でも、結菜の名前だけが使われる。

 結菜は微笑んだ。

「問題ありません」

 その声の落ち着きに、周囲がほっとする。
 ほっとされるたびに、結菜は遠くなる。

 会議の最後、父が淡々と言った。

「明日、お前は朝霧の顔として立て。泣くな。揺れるな。余計な感情は捨てろ」

「はい」

 結菜は頷く。
 頷きが、呼吸みたいに自然になる。

 父は満足そうに頷き返し、書類を閉じた。

「これで朝霧は守られる」

 その言葉で、会議は終わる。
 結菜の人生も、同じ言葉で終わっていく気がした。



 夕方。
 オフィスを出ると、空が焼けていた。
 綺麗すぎる空は、結菜を慰めない。

 車に乗り込む前、結菜はもう一度だけロビーのモニターを見た。
 テロップが流れ、社員が立ち止まり、囁く。

「明日、発表らしいよ」
「朝霧令嬢と鷹宮専務、だよね」
「やっぱり……お似合いだよね」

 “お似合い”。

 結菜の胸の痛みが、静かに広がる。
 〔伏線Bの痛みが、ここで“確定”へ近づく〕

 結菜は笑って、頭を下げた。

「お疲れさま」

 声が優しいほど、心が削れる。



 夜。
 自室。

 結菜はドアを閉めた瞬間、膝がわずかに緩むのを感じた。
 でも倒れない。倒れたら終わる。
 結菜は壁に手をつき、ゆっくり靴を脱いだ。

 鏡の前に立つ。
 そこにいるのは、可愛らしい顔で整った髪の“令嬢”。

 結菜は、ピアスを外し、ネックレスを外し、髪留めを外した。
 栗色の巻き毛がふわりと落ちる。
 その瞬間だけ、少しだけ息がしやすくなる。

 ドレッサーの引き出しを開けると、便箋の残りが見えた。
 昨日破った紙の感触が蘇る。
 《拓真へ》と書けたのに、送れなかった自分。

 結菜は椅子に座り込み、ようやく小さく息を吐いた。

「……明日なんだ」

 声が震えた。
 震えたことに気づいて、結菜は笑って誤魔化そうとして——できなかった。

 喉の奥が熱い。
 目の奥が痛い。

 結菜は薬指を見た。
 痕はもう薄い。
 でも拓真の指が触れた熱だけが、まだ残っている気がする。

 (私、何してるんだろ)

 助けを求めるな。
 波風を立てるな。
 朝霧を守れ。
 それが全部正しいのに、胸が痛い。

 結菜はスマホを手に取った。
 画面を開いた。
 未読の通知は、もう増えていなかった。

 増えていないことが、結菜をさらに追い詰める。
 拓真が諦めたのかもしれない。
 諦めて当然だ、と頭が言う。
 でも心は痛い。

 結菜は画面を伏せ、抱きしめるように胸に当てた。

「……ごめん」

 声が、小さく漏れた。
 誰にも届かない声。

 次の瞬間、堪えていたものが少しだけ溢れた。
 涙が一粒、頬を伝う。
 慌てて拭う。
 拭っても、次が出る。

 結菜は、笑った。
 泣きながら笑うのは、いちばん苦しい。

「泣くなって言われたのに」

 言われた通りに生きてきた。
 笑って耐えてきた。
 令嬢として正しく。

 それでも、明日が怖い。

 結菜はベッドに倒れ込むように座り、枕に顔を埋めた。
 声は出さない。
 声を出したら、本当に壊れるから。

 枕の中で、息が震える。
 肩が揺れる。
 でも涙は止まらない。

 明日、結菜は“朝霧の令嬢”として壇上に立つ。
 笑って頷いて、未来を確定させる。

 その前夜、結菜は初めて——
 誰にも見せない場所で、静かに崩れた。