本当はあなたに言いたかった

 夜のオフィスは、昼より残酷だった。
 人が少ない分、心の音がうるさい。
 拓真は会議室の窓際に立ち、街の灯りを見下ろしていた。

 守りたい。
 壊したくない。
 でも、止めたい。

 矛盾が胸の中で絡まり、息が苦しい。

 机の上には、黒崎が集めた資料が並んでいる。
 鷹宮家の契約条項。守秘条項。違反時の取り決め。
 そして、朝霧社の資本構造と、取締役三原の動き。
 紙の上の文字は冷たいのに、拓真の手は熱い。

 (こんなもんで、人の人生が決まるのかよ)

 結菜が笑って頷くしかない理由が、紙の上に整然と書かれている。
 “朝霧を守るため”。
 “波風を立てないため”。
 その言葉が、結菜の口から出たら、どれほど苦しいか。

 拓真は、スマホを握りしめた。
 結菜に連絡したところで、返ってこない。
 返ってきたとしても、きっと“令嬢の言葉”が返ってくる。

 ——お願い、近づかないで。
 ——今は。
 ——大丈夫。

 それが一番、拓真を壊す。

「拓真様」

 黒崎の声が背後から落ちた。
 拓真は振り向かない。振り向いたら、顔に出るから。

「お話がまとまりました。鷹宮側の“弱点”になり得る点がいくつか」

「……今はいい」

 拓真の声が、自分でも驚くほど低かった。
 怒っているんじゃない。
 疲れている。怖がっている。

 黒崎は一歩だけ近づき、机の上の資料を揃えた。
 余計な音を立てない。
 この男はいつも、拓真の“暴走”の手前でブレーキになる。

「拓真様。今、感情で動けば——」

「分かってる」

 拓真は吐き捨てた。
 分かっている。分かっているのに、分からない。

「分かってるのに、どうにもならねぇんだよ」

 言ってしまった。
 弱音。
 片岡家の当主候補が、言ってはいけない言葉。

 黒崎は黙った。
 黙って待つ。
 拓真が自分から言葉を出すまで、余計なことを言わない。

 その沈黙が、拓真の胸の奥をほどいた。

 拓真は窓ガラスに映る自分の顔を見た。
 整ったスーツ。整った髪。
 なのに目の奥だけが荒れている。

「……俺さ」

 声が掠れる。
 拓真は笑ってしまいそうになって、笑わない。

「結菜が、あんな顔すんの、初めて見たんだよ」

 薬指を隠す仕草。
 笑って逃げる癖。
 泣きそうなのに泣かない目。

 黒崎は静かに言った。

「結菜様は、ずっと耐えてこられたのでしょう」

「耐えるなって言ったって、耐えるしかないんだろ」

 拓真の声が荒くなる。
 荒くなって、すぐに落ちる。

「……俺が動いたら、結菜が一番傷つく」

 黒崎が頷いた。

「はい。ですから——」

「じゃあ、俺は何をすりゃいい」

 拓真は、とうとう言ってしまった。

 不器用な男の、限界の言葉。

「俺、どうすればいい」

 言った瞬間、胸の奥が一気に痛くなった。
 助けてと言っているみたいで、情けなくて、でも止められない。

 黒崎は、初めて少しだけ表情を緩めた。
 叱らない。笑わない。
 ただ、現実を渡す声で言う。

「“結菜様が一人で抱えなくて済む形”を作りましょう」

「形?」

「はい。感情ではなく、事実で。
 結菜様が『言えない』理由を壊すのではなく、解除する。
 守秘条項、違反時条項、朝霧社の取締役の動き——そこに穴があります」

 拓真は拳を握りしめた。

「穴?」

「“波風を立てない”ための条件が、結菜様の自由を縛っています。
 その条件が不合理だと証明できれば、鷹宮側は引かざるを得ない。
 朝霧社側にも、別の選択肢を提示できる」

 別の選択肢。
 つまり、結菜が“駒”のままでも朝霧を守る道はある、と示すこと。

 拓真は息を吸う。
 胸が痛い。
 でも、ようやく道が見える気がした。

「……でも、時間がねぇ」

 黒崎は即答した。

「あります。発表前夜までに、材料を揃えます」

 拓真は黒崎を見た。
 黒崎は淡々としている。
 淡々としているのに、そこに“覚悟”がある。

「拓真様。ひとつだけ」

「何だよ」

「結菜様に、怒りをぶつけないでください」

 拓真の胸が痛む。
 怒りをぶつけた。何度も。
 そのたびに結菜は笑って逃げた。

「……分かってる」

 分かっているのに、できない。
 できなかった。
 でも、やるしかない。

 拓真は机の上の資料を見下ろした。
 紙は冷たい。
 でも、この冷たさでしか救えないものがある。

「……俺、結菜にさ」

 拓真は言いかけて止めた。
 “好きだ”と口にしてしまいそうで。
 好きだと言ったら、守秘条項より先に自分が壊れる気がした。

 黒崎は何も言わない。
 言わないまま、ただ待つ。

 拓真は、絞り出すように言った。

「俺、壊したくないんだ。結菜の世界も、結菜自身も」

 黒崎が頷いた。

「なら、壊さずに取り戻しましょう。
 拓真様が“守る”のではなく、“隣に立つ”形で」

 隣に立つ。
 その言葉が、拓真の胸の奥に落ちていく。

 拓真は深く息を吐いた。
 そして、初めて少しだけ肩の力が抜けた。

「……頼む」

 短い言葉。
 片岡の御曹司が口にするには、あまりに素直な言葉。

 黒崎は一礼した。

「承知しました」

 夜のオフィスに、静かな決意だけが残る。
 拓真の胸の奥ではまだ嵐が吹いている。
 でも、その嵐はもう“暴走”じゃない。

 ——壊さずに奪い返すための、戦いの準備だった。