パーティー会場を出た瞬間、夜風が頬を冷たく撫でた。
結菜はようやく息を吐く。シャンデリアの光、香水の残り香、笑顔の仮面——全部を背中に置いてきたはずなのに、胸の奥の痛みだけがついてくる。
栗色の巻き毛をまとめた髪が、風にほどけそうで、結菜は指先で押さえた。
この髪も、このドレスも、この笑顔も。
“自分のため”ではない。
そう思った瞬間、喉がきゅっと締まる。
「お疲れさまでした、結菜様」
車のドアを開けた運転手が頭を下げる。
黒塗りの車内は、外の冷気と切り離されたように静かだった。
結菜が座席に沈むと、背もたれが体温を奪う。
スマホを握りしめる。
拓真に何か言われたわけじゃない。何も言われていない。
でも、あの「朝霧」と呼ぶ声だけが、耳の奥に残っている。
——連絡、したら?
自分の中で小さな声が囁く。
「今日、見たよ。拓真と陽菜。お似合いだったね」
そんな言葉なら、笑って言える。
でも、言いたいのはそれじゃない。
(言えるわけない……)
結菜は画面を伏せるように膝の上に置いた。
車は静かに走り出す。窓の外の街灯が流れ、光の筋が結菜の頬に一瞬だけ線を引く。
朝霧家の門が見えた時、結菜の背筋は反射で伸びた。
夜の庭は手入れが行き届きすぎていて、まるで“余計なもの”が排除された世界みたいだった。
玄関の灯りが、結菜を迎えるというより——照らし出す。
「お帰りなさいませ」
執事が静かに頭を下げる。
結菜は「ただいま」と返しながら、靴音を消すように歩いた。
この屋敷では、大きな音を立てることは許されない。怒りも、涙も、同じだ。
リビングの扉の前で、結菜は一度だけ深呼吸した。
中から聞こえる声。低く落ち着いた、父の声。
「入れ」
結菜がノックをするより早かった。
扉を開けると、室内の明かりは暖色なのに、空気は冷え切っていた。
朝霧社長——父、朝霧 恒一が、ソファに座っている。
スーツのジャケットは脱いでいない。仕事の顔のまま、家に帰ってきた男の顔。
「座れ」
「……はい」
結菜は指定された位置に腰を下ろす。背筋を伸ばす。足を揃える。
令嬢として身につけた“正しい姿勢”は、こういう時ほど勝手に出てくる。
父はテーブルの上に、薄い封筒を置いた。
白い、無地の封筒。だが、結菜はその存在だけで分かってしまった。
——契約書だ。
封筒の端に、硬い紙の角。
覗くように見える、印字された会社名。
そして、見覚えのない家紋のようなエンボス。
「朝霧にとって、次の四半期は正念場だ」
父の声は感情を含まない。
まるで天気の話をするみたいに、“結菜の人生”の話を始める。
「金融再編の波が来る。銀行も、商社も、結局は手を組む者が勝つ。片岡が何を考えているか——お前も分かるだろう」
結菜は頷けない。
“片岡”の名前が出ただけで、胸の痛みがぶり返す。
「……はい」
ようやく絞り出した返事は、自分の声じゃないみたいだった。
父は封筒を、指先で結菜の前に押し出した。
「見合いだ」
結菜は瞬きを忘れた。
(見合い……?)
言葉の意味が、頭の中で遅れて響く。
見合い。結婚。縁談。
そういう単語はずっと、遠くにあると思っていた。いつか来るのは分かっていた。
でも、今日じゃない。今じゃない。まだ——
「相手は鷹宮家。鷹宮恒一。大手商社の御曹司だ」
父は淡々と言う。
相手の名前を告げる声が、結菜の呼吸を奪う。
結菜は封筒に触れられない。
触れたら、それが現実になってしまう気がした。
「……どうして、急に」
「急ではない。お前が知らなかっただけだ」
父の視線は揺れない。
「会社のためだ、結菜」
その一言が、結菜の胸を強く叩いた。
“家のため”でも、“あなたのため”でもない。
会社のため。
結菜はそこに、“娘”としての居場所がないことを知っている。
「……私の意思は?」
声が震えないように言った。
震えているのは、手の方だった。膝の上で指先が微かに震えるのを、結菜は自分で押さえた。
父は言い切った。
「意思など必要ない」
結菜の喉の奥が、締め付ける。
息が吸えない。
「朝霧の娘は、朝霧を守るために生まれてきた。お前も分かっているはずだ」
分かっている。
分かっているから、ここにいる。逃げずに座っている。
でも——
(分かってるのに、苦しい)
結菜は目を伏せる。
涙が出そうになるのを、睫毛の奥で止める。
この家で泣いたら、負けだ。泣いたら、もっと縛られる。
父が続ける。
「鷹宮家は条件を出している。お前が嫁ぐことで、朝霧の株式に手を出さない。資本の干渉を止める。——守ってやると言っている」
結菜の胸が、冷たくなる。
守る。
それはつまり、脅しだ。
「お前が断れば、朝霧は狙われる。片岡にも、西園寺にも、鷹宮にも。…市場はそういう場所だ」
父の言葉は正しい。正しいから苦しい。
結菜は笑顔を作る練習も、言葉の角を取る訓練も、全部“会社のため”に受けてきた。
それでも。
頭の中に浮かぶのは、拓真の顔だった。
あの苛立つ目。まっすぐな声。
喧嘩になるほど近くて、でも——一番言えない人。
(拓真には、言えない)
言ったら、拓真は動く。
きっと、家を敵に回してでも、止めようとする。
そうしたら朝霧が危ない。父が言った通り、朝霧が狙われる。
それだけは——
「承知しました」
結菜は言った。
自分でも驚くほど、声が落ち着いていた。
父は一拍だけ沈黙し、頷く。
「賢い」
その言葉が、何より痛かった。
賢い。
それは褒め言葉じゃない。従順だという烙印だ。
父は立ち上がり、最後に付け足すように言う。
「余計なことはするな。片岡にこの話を漏らすな」
結菜の指先が、きゅっと握りしめられた。
「……どうして」
「刺激するな。今は、波風を立てる時じゃない」
父の声は静かで、絶対だった。
結菜は頷くしかない。
父が部屋を出ていく。扉が閉まる。
その瞬間、部屋の明かりが同じでも、世界だけが暗くなった気がした。
結菜はようやく封筒に触れた。
紙は冷たかった。
まるで、これから自分が進む道の温度みたいに。
封筒の端から、契約書の表紙が見える。
そこに記された文字。
《鷹宮家 縁組に関する基本合意書》
結菜は息を吸い、吐く。
胸が痛いのに、泣けない。
スマホが、膝の上で小さく震えた。
通知。
拓真かもしれない。陽菜かもしれない。仕事かもしれない。
結菜は画面を見ない。
(見たら、崩れる)
栗色の巻き毛が、ほどけて頬に落ちる。
結菜はその髪を指で掬い、耳にかけた。
可愛らしい顔のまま、笑う準備だけはできてしまう。
明日も、何もなかったみたいに。
拓真と喧嘩して、陽菜に仲裁されて。
“いつもの日常”を演じる。
——見合いのことだけは、言えないまま。
結菜はようやく息を吐く。シャンデリアの光、香水の残り香、笑顔の仮面——全部を背中に置いてきたはずなのに、胸の奥の痛みだけがついてくる。
栗色の巻き毛をまとめた髪が、風にほどけそうで、結菜は指先で押さえた。
この髪も、このドレスも、この笑顔も。
“自分のため”ではない。
そう思った瞬間、喉がきゅっと締まる。
「お疲れさまでした、結菜様」
車のドアを開けた運転手が頭を下げる。
黒塗りの車内は、外の冷気と切り離されたように静かだった。
結菜が座席に沈むと、背もたれが体温を奪う。
スマホを握りしめる。
拓真に何か言われたわけじゃない。何も言われていない。
でも、あの「朝霧」と呼ぶ声だけが、耳の奥に残っている。
——連絡、したら?
自分の中で小さな声が囁く。
「今日、見たよ。拓真と陽菜。お似合いだったね」
そんな言葉なら、笑って言える。
でも、言いたいのはそれじゃない。
(言えるわけない……)
結菜は画面を伏せるように膝の上に置いた。
車は静かに走り出す。窓の外の街灯が流れ、光の筋が結菜の頬に一瞬だけ線を引く。
朝霧家の門が見えた時、結菜の背筋は反射で伸びた。
夜の庭は手入れが行き届きすぎていて、まるで“余計なもの”が排除された世界みたいだった。
玄関の灯りが、結菜を迎えるというより——照らし出す。
「お帰りなさいませ」
執事が静かに頭を下げる。
結菜は「ただいま」と返しながら、靴音を消すように歩いた。
この屋敷では、大きな音を立てることは許されない。怒りも、涙も、同じだ。
リビングの扉の前で、結菜は一度だけ深呼吸した。
中から聞こえる声。低く落ち着いた、父の声。
「入れ」
結菜がノックをするより早かった。
扉を開けると、室内の明かりは暖色なのに、空気は冷え切っていた。
朝霧社長——父、朝霧 恒一が、ソファに座っている。
スーツのジャケットは脱いでいない。仕事の顔のまま、家に帰ってきた男の顔。
「座れ」
「……はい」
結菜は指定された位置に腰を下ろす。背筋を伸ばす。足を揃える。
令嬢として身につけた“正しい姿勢”は、こういう時ほど勝手に出てくる。
父はテーブルの上に、薄い封筒を置いた。
白い、無地の封筒。だが、結菜はその存在だけで分かってしまった。
——契約書だ。
封筒の端に、硬い紙の角。
覗くように見える、印字された会社名。
そして、見覚えのない家紋のようなエンボス。
「朝霧にとって、次の四半期は正念場だ」
父の声は感情を含まない。
まるで天気の話をするみたいに、“結菜の人生”の話を始める。
「金融再編の波が来る。銀行も、商社も、結局は手を組む者が勝つ。片岡が何を考えているか——お前も分かるだろう」
結菜は頷けない。
“片岡”の名前が出ただけで、胸の痛みがぶり返す。
「……はい」
ようやく絞り出した返事は、自分の声じゃないみたいだった。
父は封筒を、指先で結菜の前に押し出した。
「見合いだ」
結菜は瞬きを忘れた。
(見合い……?)
言葉の意味が、頭の中で遅れて響く。
見合い。結婚。縁談。
そういう単語はずっと、遠くにあると思っていた。いつか来るのは分かっていた。
でも、今日じゃない。今じゃない。まだ——
「相手は鷹宮家。鷹宮恒一。大手商社の御曹司だ」
父は淡々と言う。
相手の名前を告げる声が、結菜の呼吸を奪う。
結菜は封筒に触れられない。
触れたら、それが現実になってしまう気がした。
「……どうして、急に」
「急ではない。お前が知らなかっただけだ」
父の視線は揺れない。
「会社のためだ、結菜」
その一言が、結菜の胸を強く叩いた。
“家のため”でも、“あなたのため”でもない。
会社のため。
結菜はそこに、“娘”としての居場所がないことを知っている。
「……私の意思は?」
声が震えないように言った。
震えているのは、手の方だった。膝の上で指先が微かに震えるのを、結菜は自分で押さえた。
父は言い切った。
「意思など必要ない」
結菜の喉の奥が、締め付ける。
息が吸えない。
「朝霧の娘は、朝霧を守るために生まれてきた。お前も分かっているはずだ」
分かっている。
分かっているから、ここにいる。逃げずに座っている。
でも——
(分かってるのに、苦しい)
結菜は目を伏せる。
涙が出そうになるのを、睫毛の奥で止める。
この家で泣いたら、負けだ。泣いたら、もっと縛られる。
父が続ける。
「鷹宮家は条件を出している。お前が嫁ぐことで、朝霧の株式に手を出さない。資本の干渉を止める。——守ってやると言っている」
結菜の胸が、冷たくなる。
守る。
それはつまり、脅しだ。
「お前が断れば、朝霧は狙われる。片岡にも、西園寺にも、鷹宮にも。…市場はそういう場所だ」
父の言葉は正しい。正しいから苦しい。
結菜は笑顔を作る練習も、言葉の角を取る訓練も、全部“会社のため”に受けてきた。
それでも。
頭の中に浮かぶのは、拓真の顔だった。
あの苛立つ目。まっすぐな声。
喧嘩になるほど近くて、でも——一番言えない人。
(拓真には、言えない)
言ったら、拓真は動く。
きっと、家を敵に回してでも、止めようとする。
そうしたら朝霧が危ない。父が言った通り、朝霧が狙われる。
それだけは——
「承知しました」
結菜は言った。
自分でも驚くほど、声が落ち着いていた。
父は一拍だけ沈黙し、頷く。
「賢い」
その言葉が、何より痛かった。
賢い。
それは褒め言葉じゃない。従順だという烙印だ。
父は立ち上がり、最後に付け足すように言う。
「余計なことはするな。片岡にこの話を漏らすな」
結菜の指先が、きゅっと握りしめられた。
「……どうして」
「刺激するな。今は、波風を立てる時じゃない」
父の声は静かで、絶対だった。
結菜は頷くしかない。
父が部屋を出ていく。扉が閉まる。
その瞬間、部屋の明かりが同じでも、世界だけが暗くなった気がした。
結菜はようやく封筒に触れた。
紙は冷たかった。
まるで、これから自分が進む道の温度みたいに。
封筒の端から、契約書の表紙が見える。
そこに記された文字。
《鷹宮家 縁組に関する基本合意書》
結菜は息を吸い、吐く。
胸が痛いのに、泣けない。
スマホが、膝の上で小さく震えた。
通知。
拓真かもしれない。陽菜かもしれない。仕事かもしれない。
結菜は画面を見ない。
(見たら、崩れる)
栗色の巻き毛が、ほどけて頬に落ちる。
結菜はその髪を指で掬い、耳にかけた。
可愛らしい顔のまま、笑う準備だけはできてしまう。
明日も、何もなかったみたいに。
拓真と喧嘩して、陽菜に仲裁されて。
“いつもの日常”を演じる。
——見合いのことだけは、言えないまま。

