朝霧家の客間は、季節より先に整っていた。
花は咲きすぎず、香りは強すぎず、照明は柔らかすぎず。
“可愛がり”という名の圧が、息をしやすい形で配置されている。
結菜は畳に座り、背筋を伸ばした。
膝の上に置いた手は揃えられ、薬指だけがわずかに疼く気がした。
第28章で署名した紙の感触が、まだ指先に残っている。
向かいに座るのは、祖父——朝霧恒一郎。
創業者であり、朝霧という家の“根”を作った男。
祖父は結菜を見ると、柔らかく笑った。
「結菜、顔が細くなったな」
可愛がりの言葉。
心配の言葉。
でもその言葉は、結菜を抱きしめるためではなく、正しい形に戻すために使われる。
「……おじいさま」
「大丈夫だ。お前は昔から、可愛い顔でちゃんと耐える子だった」
耐える。
その単語が、結菜の胸を冷たく撫でる。
耐えられる子。
だから駒にできる子。
結菜は微笑んだ。
令嬢の微笑み。
娘の笑みではない。
「はい」
祖父は嬉しそうに頷き、茶を一口飲んだ。
「鷹宮家の話は聞いている。良い縁だ。朝霧にとって最高の仕事だ」
仕事。
結婚が仕事。
それを祖父が口にすると、終わりの音がする。
結菜は喉が痛くなった。
痛いのに、声は出る。
「……仕事、ですか」
祖父は当然のように笑う。
「そうだ。結婚は仕事だ。お前の結婚は、朝霧の仕事」
言い切られると、もう逃げ道はない。
逃げ道は、あっても使えない。
祖父は続けた。
「お前は社長令嬢として育った。恵まれている。愛されている。
だからこそ、朝霧に返すべきものがある」
愛されている。
その言葉は甘いのに、鎖になる。
愛されたのだから従え。
守られたのだから差し出せ。
祖父は、結菜の髪を褒めるように言った。
「栗色の巻き毛も、その可愛い顔も、全部朝霧の宝だ。
宝は、宝箱にしまうだけじゃ意味がない。使って輝く」
使って。
輝く。
つまり——使って、売って、朝霧を守る。
結菜の胸が、静かに沈む。
でも表情は崩れない。
崩れたら、宝は価値を失う。
「鷹宮恒一は、良い男だ。礼儀があり、頭も切れる。
お前に無理はさせんだろう」
無理はさせない。
鷹宮の優しさが怖いと結菜が思ったことを、祖父は知らない。
祖父は笑いながら言葉を続ける。
「それに、片岡よりよほど安心だ」
結菜の心臓が跳ねた。
「……片岡」
祖父が片岡の名を口にすること自体が、結菜には刃だった。
拓真の名前が、道具の会話の中に入ってくる。
祖父は平然と言う。
「片岡は強い。強すぎる。お前のような子は、巻き込まれて壊れる」
祖父の言葉は、結菜が恐れていた通りだ。
拓真が動けば戦争になる。
結菜が原因にされる。
祖父は優しく、でも決定的に言った。
「だから、お前は鷹宮へ行け。そこで朝霧を守れ。
余計な感情は捨てろ」
同じ言葉。
父も、祖父も、同じことを言う。
朝霧という家が、同じことを言う。
結菜は膝の上で拳を握りしめた。
握りしめた瞬間、薬指が疼いた。
指輪のサイズを測った痕。
拓真の指が触れた熱。
全部がそこにあるのに、全部捨てろと言われる。
結菜は静かに言った。
「……私、幸せになれますか」
自分でも驚いた。
こんな問いを口にしたら、叱られると思っていた。
祖父は笑った。
優しく。
それが一番怖い笑いだった。
「幸せは、仕事の後についてくる」
結菜の胸が、締め付ける。
「仕事が上手くいけば、皆が褒める。
褒められれば、満たされる。
それが幸せだ」
結菜は息が苦しくなる。
それは幸せじゃない。
でも、朝霧ではそれが幸せの定義だ。
祖父は結菜の手に、そっと自分の手を重ねた。
皺のある温かい手。
その温かさが、鎖の温かさに感じる。
「結菜。お前は可愛い。
可愛い子は、泣かなくていい。泣く前に、正しく生きればいい」
正しく。
結菜はその言葉に、喉の奥が痛くなる。
泣かなくていい。
泣かなくていいように、感情を捨てろ。
それが朝霧家の“愛”だった。
祖父は最後に、さらに優しく言った。
「お前は大丈夫だ。私が可愛がってきた子だ。
朝霧はお前を裏切らない」
裏切らない。
その言葉が、結菜には“逃げるな”に聞こえた。
結菜は微笑み、深く頭を下げた。
「……承知しました」
可愛がりが、鎖になる瞬間。
結菜はそれを、笑顔のまま受け取った。
立ち上がって部屋を出る時、背中に祖父の声が追いかけてくる。
「結菜。朝霧の令嬢として、誇りを持て」
誇り。
誇りという名の檻。
結菜は廊下を歩きながら、胸の奥で小さく呟いた。
(私の誇りは……どこに置けばいいの)
答えは出ない。
出ないまま、結菜はまた令嬢の顔で前へ進む。

