本当はあなたに言いたかった

 「条件」は、静かに人を縛る。
 怒鳴られない。脅されない。
 ただ、丁寧な言葉で“選択肢”を消していく。

 朝霧本社の小会議室。
 窓の外は明るいのに、室内の空気は冷えていた。
 テーブルの上に並ぶ書類は、整いすぎている。

 結菜は背筋を伸ばし、書類の一枚目に視線を落とした。
 栗色の巻き毛はきれいにまとめられ、可愛らしい顔には“令嬢の微笑み”が貼り付いている。
 微笑みがあるほど、心が遠い。

 鷹宮恒一は向かいに座り、いつもの穏やかな笑みで言った。

「結菜さん。本日は条項の最終確認です。難しい話ではありません」

 難しい話ではない。
 そう言われるほど、結菜は息が詰まる。

 玲子が結菜の横でペンを用意し、鷹宮側の秘書が資料の束を揃える。
 誰も声を荒げない。
 だからこそ、逃げられない。

「まずは守秘条項。これは既にご承知の通りです」

 鷹宮がページをめくる。
 その動作ひとつで、結菜の喉がきゅっと締まる。
 守秘。
 つまり、拓真に言えない理由が“紙”になる。

 結菜は頷いた。
 頷くしかない。

「次に、生活上の取り決めです。結婚後、結菜さんの行動は自由です。——ただし」

 ただし。
 その言葉が、檻の鍵になる。

「事前に予定を共有してください」

 結菜の指先が、微かに硬くなる。

「……共有、ですか」

「はい。安全のためです。あなたの身辺は、今後さらに注目される。週刊誌も、社交界も。
 “偶然”の写真一枚で、朝霧も鷹宮も揺れます」

 正しい。
 正しいから、拒めない。

 鷹宮は穏やかに続ける。

「具体的には、外出、会食、私的な交友関係。事前に秘書間で調整します。
 行動が制限されるという意味ではなく、“波風を立てない”ための手順です」

 波風を立てない。
 言葉が、また鎖になる。

 結菜は微笑んだ。

「承知しました」

 言いながら、胸の奥で何かが小さく沈む。
 ——予定を共有する。
 つまり、自由は“管理”される。

 鷹宮は次のページを開く。

「次に、交友の制限です」

 結菜の呼吸が止まりそうになる。

「制限、とは」

 鷹宮の口調は変わらない。
 変わらないのに、言葉だけが冷たい。

「異性との二人きりの会食は、当面控えてください。誤解を生まないために」

 結菜の脳裏に、拓真の顔が浮かぶ。
 会えない理由が、また一つ紙に書かれていく。

「……必要な場合は」

「必要な場合は、第三者を同席させます。秘書でも構いません。
 また、幼なじみの方々とも——」

 鷹宮が一瞬だけ言葉を選ぶように間を置いた。
 その間が、結菜には恐怖だった。

「……距離の取り方には配慮してください」

 結菜の指先が冷える。
 幼なじみ。
 拓真。
 陽菜。
 その“距離”が、いちばん難しい。

 結菜は喉の奥で息を飲み込み、頷いた。

「分かりました」

 鷹宮がほっとしたように微笑む。
 微笑むほど、結菜の中の“娘”がまた一枚削れる。

 鷹宮はさらに続けた。

「次は、発表後の“立ち位置”です。世間に向けて、統一したメッセージを出します」

 机の上に置かれたのは、Q&A形式の紙だった。

《Q:お二人の馴れ初めは?》
《A:両家の長年のご縁を背景に——》
《Q:交際期間は?》
《A:互いを尊重し、将来を見据え——》

 結菜は目を伏せた。
 そこに“結菜の気持ち”は一文字もない。
 あるのは、両家の都合と言葉の整合性だけ。

 鷹宮は柔らかく言う。

「結菜さんが話しやすい形で構いません。無理をさせるつもりはない」

 無理をさせない。
 その優しさが、結菜には怖い。

 結菜は、ふと、あのメモ——“逃げ道”の紙を思い出した。
 鷹宮は最初から、終わる道まで用意している。
 それが“合理”であり、結菜を守る形なのだと分かる。
 分かるほど、心が冷える。

 鷹宮が最後のページを開いた。
 そこに書かれていた文言が、結菜の息を奪う。

《違反時の取り決め》
《守秘違反・風評被害発生時は、朝霧家側に損害が生じた場合——》

 結菜の瞳が、文字の上で止まる。

 ——朝霧家側に損害。
 つまり、結菜が何かをすれば、朝霧が傷つく。
 それが“数値”として結菜に返る。

 結菜は小さく笑った。
 笑うしかない。

「……これ、私が息をするだけで損害になりそうですね」

 冗談の形にした本音。
 玲子が息を飲む。
 鷹宮は微笑みを崩さずに言った。

「息をすることは、制限しません」

 その返しが、丁寧すぎて逆に刺さる。
 鷹宮は続ける。

「結菜さん。あなたを縛りたいわけではありません。
 あなたを縛るのは、世間です。私は“縛り方を整える”だけです」

 整える。
 結菜の世界は、整えられていく。
 整うほど、結菜の居場所が消える。

 結菜は頷き、ペンを取った。
 署名欄に、自分の名前を書く準備をする。

 その時、薬指が微かに疼いた。
 リングゲージの冷たさ。
 拓真の指が触れた熱。
 その両方が、皮膚の下でぶつかる。

 結菜は手を止め、指先を握りしめた。
 震えていない。
 震えない自分が、また怖い。

 鷹宮が声を落とす。

「結菜さん。辛いですか」

 結菜は即答した。

「大丈夫です」

 嘘。
 でも、嘘がないとここに座れない。

 鷹宮は結菜を責めず、ただ静かに言った。

「……この条件は、あなたの自由を奪うためではなく、朝霧を守るためです」

 父の言葉と、同じ形。
 朝霧を守る。
 結菜を守らない言葉。

 結菜は、ゆっくりと署名した。

 朝霧結菜。
 文字が紙の上で乾いていく。
 乾いていくほど、結菜の未来が固まる。

 鷹宮が穏やかに言った。

「ありがとうございます。これで大枠は整いました」

 整った。
 その言葉が、結菜には鎖の音に聞こえた。

 会議室を出る直前、玲子が小声で言った。

「結菜様……」

 結菜は笑って答えた。

「大丈夫」

 また嘘。

 でもこの嘘は、前より重い。
 条件という名の檻が、もう見える形になったから。