本当はあなたに言いたかった

拓真は、自分の手の感触をまだ覚えていた。
 結菜の薬指に触れた時の、薄い痕の硬さ。
 掴んだ手首の細さ。
 振りほどかれた瞬間の冷たさ。

 そして——

『触らないで!』

 あの声が、耳の奥に残って離れない。
 怒鳴られた痛みより、結菜が泣きそうな顔で笑ったことの方が、ずっと刺さった。

 夜の街を歩いても、胸の中は落ち着かない。
 片岡の名でどれだけ扉が開いても、結菜の心の扉だけが開かない。

 拓真は、仕事終わりのホテルラウンジにいた。
 皮肉だ。
 ここは誤解が生まれた場所と同じ匂いがする。
 同じように、光が綺麗で、息が詰まる。

 テーブルには、手をつけないままのグラス。
 拓真はスマホを握りしめ、結菜の連絡先を開いたまま閉じられない。

 “電話するな”と結菜は言わなかった。
 でも“近づかないで”と言った。

 近づかないで。
 その言葉は、拓真にとって“もう来るな”に聞こえてしまう。

「拓真くん」

 声がして顔を上げると、陽菜が立っていた。
 淡い色のコート。品の良い姿勢。
 いつもなら、この落ち着きが“正解”に見えるのに、今日はただ胸が痛い。

「座っていい?」

「……好きにしろ」

 陽菜は向かいに腰を下ろし、拓真の顔をじっと見た。
 それだけで、拓真は視線を逸らしたくなる。

「……結菜ちゃんに会った?」

 陽菜が単刀直入に聞く。
 拓真は短く答えた。

「会った」

「……薬指、見た?」

 拓真の喉がひりつく。
 陽菜はもう知っている。
 だから聞ける。

「見た」

 拓真は吐き捨てるように言った。

「指輪、測ってた。痕があった。……俺の手、振りほどかれた」

 言った瞬間、拓真は自分の声が想像以上に震えていることに気づいて、悔しくなる。
 財閥の御曹司が、こんなことで揺れるな。
 そう叱る声が頭に浮かぶのに、止まらない。

 陽菜は息を吸って、静かに言った。

「拓真くん。……結菜ちゃん、壊れそうだよ」

 その一言が、拓真の胸を真っ直ぐ刺した。

 壊れそう。
 拓真がずっと感じていた違和感を、陽菜が言葉にしてしまった。
 言葉になった瞬間、それは“現実”になってしまう。

「……壊れそう、って」

 拓真の声が掠れる。

「壊れるって、どういうことだよ」

 陽菜は視線を落とし、指先を膝の上で絡めた。
 迷っている仕草。
 でも迷ったまま言うことを選ぶ。

「結菜ちゃんね。笑ってるのに、呼吸が浅い。
 “大丈夫”って言うのが癖になってる。
 そして——」

 陽菜はそこで一度言葉を切った。
 拓真が続きを待ってしまう。
 待ってしまう自分が怖い。

「……自分の気持ちを、もう諦めかけてる目をしてる」

 拓真の胸が冷たくなる。
 諦め。
 結菜は、何を諦めた?
 自由か。未来か。
 それとも——拓真を。

「……俺のせいか」

 思わず漏れた言葉は、自分でも情けなかった。
 陽菜は首を振る。

「違う。拓真くんのせいじゃない。
 ……でも、拓真くんが何もしないままだと、結菜ちゃんは一人で全部抱えて潰れる」

 拓真の拳が震えた。
 何もしない。
 それが一番嫌だ。
 でも動けば戦争だと黒崎は言った。
 結菜は「動いたら全部壊れる」と言った。

 拓真は、歯を食いしばる。

「どうしろってんだよ」

 陽菜の目が揺れた。
 揺れても、陽菜は逃げない。

「……私、見ちゃったんだ。銀行の資料」

 拓真の肩が強張る。
 もう聞いた。
 でも“見ちゃった”という言い方に、陽菜の罪悪感が滲んでいて、拓真は胸が痛む。

 陽菜は続けた。

「縁談は、もう家の話じゃない。案件になってる。
 “守秘”って書いてあった。
 結菜ちゃんが言えないの、当たり前だよ」

 守秘。
 やっぱり。
 拓真の胸が、怒りより先に悔しさで熱くなる。

「……じゃあ、余計に俺は」

 拓真は言いかけて止めた。
 “必要ない”と自分で言ってしまいそうだったから。

 陽菜は、拓真の沈黙を見て、静かに言った。

「拓真くん。私ね、決めた」

「……何を」

 陽菜は真っ直ぐ拓真を見た。
 柔らかいのに、芯のある目。

「私は、“お似合い”の席に乗らない」

 拓真の呼吸が止まる。

「……は?」

 陽菜は微笑んだ。
 微笑みの中に、少しだけ痛みがある。

「周りが勝手に作った正解で、結菜ちゃんを追い詰めるのは嫌。
 拓真くんを、結菜ちゃんから遠ざけるのも嫌。
 ……だから私は、味方になる。ちゃんと」

 拓真の喉が焼ける。
 陽菜はいつも上手に立ち回る子だ。
 その陽菜が、“正解”を拒む。

「お前……それ、家が許すのか」

 拓真の問いに、陽菜は少しだけ笑った。

「許さないよ。だから、決めたの。
 令嬢として“良い子”でいるの、やめる」

 陽菜の声は震えていた。
 震えているのに、逃げない。
 その強さが、拓真をさらに刺す。

 拓真は苦しくて、言葉を探した。

「……俺に、何をしてほしい」

 陽菜はすぐには答えない。
 答えずに、拓真の手元を見る。
 拓真の指先が、まだ震えている。

「拓真くん。結菜ちゃんに“守らせないで”」

 その一言が、拓真の胸に落ちた。

 守らせない。
 結菜は拓真を守ろうとして黙っている。
 守ろうとして、自分を折っている。

 陽菜は続ける。

「結菜ちゃんが守ろうとしてるのは、朝霧と、あなたと、世間。
 でも、結菜ちゃんの心を守れるのは——あなたしかいない」

 拓真は息を吸って、吐いた。
 痛い。
 守れるのは自分だけだと言われることが、嬉しいより重い。

「……俺が動いたら、戦争だ」

 拓真が低く言うと、陽菜は頷いた。

「うん。だから、“戦争じゃないやり方”を探そう。
 壊さずに止める方法。
 契約で。情報で。相手の条件を崩して」

 拓真の脳裏に、黒崎の言葉が重なる。

『戦わずに勝つ方法を探しましょう』

 拓真は、ようやく頷いた。

「……ああ」

 陽菜は、そこで初めて少しだけ肩の力を抜いた。
 そして、声を落とす。

「でもね、拓真くん。最後に一つだけ」

「何だよ」

「結菜ちゃんに、怒らないで。
 怒ると、あの子はもっと笑って、もっと隠れる」

 拓真の胸が痛む。
 怒った。
 傷つけた。
 結菜は笑って逃げた。

 拓真は目を閉じ、低く言った。

「……分かった」

 分かった、と言いながら、どうすればいいのか分からない。
 分からないのに、守りたいだけが残る。

 陽菜は立ち上がり、最後に拓真の背中をそっと押すように言った。

「拓真くん。私、もう黙らない。
 結菜ちゃんが壊れる前に——動く」

 拓真は頷いた。
 その頷きは、今までのどれより重い。

 結菜が折れるのを止めるために。
 壊れない形で、取り戻すため