本当はあなたに言いたかった

 署名をした翌日から、結菜は“令嬢”としての動きを加速させた。
 社内の挨拶回り、社交界の予定、鷹宮家との段取り。
 全部を淡々とこなすほど、心が薄くなる。

 そして何より、拓真に会わない。
 会えば、目を見れば、言ってしまう気がするから。

 ——ごめん。
 ——助けて。
 ——本当は好き。

 どれも言えない。
 守秘条項の紙の匂いが、まだ指に残っている。

 その日の午後、結菜は本社の中庭を抜け、別棟の応接室へ向かっていた。
 鷹宮側との打ち合わせ。
 玲子が先を歩き、結菜は半歩遅れて進む。

 春に近い風が吹き、栗色の巻き毛が頬に触れる。
 結菜は指でそっと払った。
 笑顔を崩さないように。

 応接室の手前で、玲子が小声で言った。

「結菜様、片岡様が——」

 言い終える前に、影が落ちた。

「朝霧」

 低い声。
 聞き慣れた声。
 心臓が、嫌なほど跳ねた。

 結菜は振り向かない。
 振り向いたら、目が揺れるのが分かっているから。

「……用があるなら、秘書を通して」

 令嬢の声。
 丁寧で、冷たい声。

 拓真が一歩近づく。
 気配が熱い。

「通した。通しても、お前が逃げた」

 結菜の喉が痛む。
 逃げている。
 逃げるしかない。

「忙しいの」

 嘘が、もう癖になった。

 拓真が笑った。
 笑ったのに、目が笑っていない。

「忙しいって言えば、全部許されんのかよ」

 結菜は歩き出そうとした。
 その瞬間、拓真の手が伸びて、結菜の手首を掴んだ。

 ——熱い。

 掴まれた瞬間、結菜の身体が固まる。
 体温が流れ込んでくるみたいで、心が揺れる。

「離して」

 結菜は声を落とした。
 周囲に人がいる。
 噂が燃える。
 燃えたら、契約が固まる。

「離さない」

 拓真の声は低く、頑固だ。
 昔のまま。
 昔のままだから苦しい。

「お前、俺から逃げるの上手くなったな」

 結菜の胸がちくりと痛む。
 逃げ癖。
 昔からそうだと拓真は言った。
 でも、今の逃げは違う。守るための逃げだ。

「……今は」

 結菜が言いかけた瞬間、拓真が結菜の手を引いた。
 手首だけじゃない。指先まで。
 結菜の手が、拓真の手の中に収まる。

 そして拓真の視線が、薬指に落ちる。

 結菜の背中が冷たくなった。
 息が止まる。

 ——見ないで。

 拓真の親指が、薬指の付け根をそっと撫でた。

 痛みはない。
 でもひりつく。
 あのリングゲージが滑った時の冷たさが、皮膚の下から蘇る。

「……これ」

 拓真の声が、かすれた。

「痕がある」

 結菜の喉が詰まる。
 計測痕。
 ほんの薄い跡。
 消えたはずなのに、拓真の指が触れた瞬間、そこだけ熱を持つ。

「……何でもない」

 結菜は即答した。
 嘘。
 でも真実は言えない。

 拓真の目が、怒りより先に恐怖で揺れた。

「何でもないわけねぇだろ。……指輪、測ったのか」

 結菜は息が苦しい。
 答えたら終わる。
 答えなかったら、拓真が壊れる。

 どっちにしても壊れるなら——
 結菜は自分が壊れる方を選ぶ。

「……離して」

 結菜はもう一度言った。
 声が震える。
 震えたことが悔しい。

 拓真は離さない。
 離さないまま、さらに低い声で言う。

「鷹宮か」

 結菜の目が揺れた。
 揺れた瞬間、拓真の誤解が“確信”に変わる。

「……やっぱりか」

「違う」

 結菜は反射で否定した。
 否定したのに、言葉が続かない。
 続かないから、拓真は信じない。

「違うなら説明しろよ!」

 拓真の声が少し大きくなる。
 廊下の空気が止まる気配。
 玲子が遠くで息を飲んだ。

 結菜の視界が揺れる。
 泣きそうになる。
 でも泣けない。泣いたら漏れる。

 結菜は、力いっぱい手を引いた。

「——っ」

 拓真の指がほどけ、結菜の手が抜ける。
 その瞬間、結菜は自分でも驚くほど強く言った。

「触らないで!」

 言った瞬間、空気が凍る。
 結菜の声が、廊下に響いてしまった。

 拓真の目が、一瞬だけ真っ白になる。
 傷ついた目。
 その目が結菜の胸を刺す。

 結菜は息を吸い、令嬢の顔を作り直した。
 作り直すほど、心が削れる。

「……ごめん。今は、本当に」

 今は。
 逃げ道の言葉。
 でも今は、永遠みたいに続く。

 拓真は、拳を握りしめた。
 震えている。
 怒りなのか、恐怖なのか分からない。

「……お前、もう俺のこと、必要じゃねぇのか」

 その言葉が、結菜の心臓を撃ち抜いた。

 必要じゃないわけない。
 必要なら苦しくない。
 でも言えない。

 結菜は笑った。
 笑ってしまう。
 可愛らしい顔のまま、最悪の嘘を選ぶ。

「……そういう話じゃない」

 拓真の目が、冷える。
 冷えた目が、結菜を遠くにする。

「じゃあ、どういう話だよ」

 結菜は答えられない。
 答えたら、拓真が動く。
 動いたら戦争だと黒崎が言った。
 戦争になったら、結菜が原因にされる。

 結菜はただ一言だけ言った。

「……お願い。これ以上、近づかないで」

 守るための言葉が、いちばん残酷な刃になる。

 拓真は、しばらく結菜を見ていた。
 その目に、感情が渦巻いている。
 でも言葉が出ない。

 最後に拓真は低く言った。

「……分かった」

 分かった、の意味が分からない声。

 拓真は背を向けて歩き出した。
 その背中が、昔より少しだけ大きく見えた。
 遠くなる背中。

 結菜はその場に立ち尽くし、薬指を握りしめた。
 拓真の指が触れた場所が、まだ熱い。

 ——計測痕。
 ——指輪。
 ——結婚。

 全部、拓真に繋がってしまう。
 繋げたくないのに、繋がってしまう。

 玲子がそっと近づき、声を落とした。

「結菜様……」

 結菜は笑った。
 令嬢の笑顔。

「大丈夫。行こう」

 そして結菜は歩き出した。
 薬指の痕が、消えないまま。