本当はあなたに言いたかった

 朝霧家の朝は、音が少ない。
 食器の触れ合う音すら控えめで、時計の針だけが遠慮なく進む。
 結菜はダイニングの椅子に座り、温い紅茶を口に運んだ。

 味がしない。
 眠れていないからじゃない。
 心がどこかで“味”を捨てたからだ。

 栗色の巻き毛は、きちんとまとめられている。
 可愛らしい顔立ちには、薄い化粧で“健康”が足された。
 誰が見ても、問題のない令嬢。

 父は新聞に目を落としたまま言った。

「鷹宮家が日程を押さえた。正式な顔合わせは来週だ」

「はい」

 結菜は頷いた。
 頷く回数が増えるほど、自分の中の“娘”が薄くなる。

 父は紙面を折り、結菜を見ないまま続ける。

「もう迷うな。揺れるな。余計な感情は捨てろ」

 余計な感情。
 拓真への気持ちも、涙も、恐怖も、全部そこに入る。

 結菜は笑ってみせた。

「大丈夫。もう、揺れてない」

 嘘ではない。
 揺れなくなるほど、折れた。

 父はようやく結菜に視線を向けた。
 鋭さはない。
 ただ、揺れない目。

「お前の結婚で、朝霧は守られる」

 それが、父の結論。
 それが、朝霧の正解。

 結菜の胸の奥で、何かが静かに固まった。
 守られる。
 その言葉は、結菜を守らない。

 結菜は紅茶のカップを置き、背筋を伸ばした。
 姿勢が美しくなるほど、心が遠くなる。

「……私が結婚しなかったら、朝霧はどうなるの」

 声が震えないように言った。
 でも質問自体が、もう“娘”の声だ。

 父は短く答えた。

「狙われる」

「誰に」

「片岡にも、西園寺にも、鷹宮にも。市場にも。——全てだ」

 結菜は目を伏せた。
 全て。
 つまり、逃げ場はない。

 父は淡々と続ける。

「朝霧の娘が揺れれば、朝霧が揺れる。お前はそれを分かっている。だから賢い」

 賢い。
 またその言葉。
 結菜はもう痛いと感じるのをやめたかった。

 テーブルの上に、白い封筒が置かれている。
 父がそれを指先で押し出した。
 封筒の角が硬い。
 あの契約書の封筒と同じ匂いがする。

「これが、鷹宮家からの正式な書面だ」

 結菜は封筒を見た。
 見ただけで分かる。
 ——契約が、また一枚増えた。

 父は言った。

「読む必要はない。条件は既に詰めた。お前は署名すればいい」

 結菜の喉が痛んだ。

「……読む」

 結菜はそう言って、封筒に手を伸ばした。
 手が震えない。
 震えない自分が怖い。

 封を切り、紙を引き出す。
 表紙に印字された文字が目に入る。

《婚約に関する基本合意書》
《付帯:提携維持のための守秘条項》

 守秘。
 つまり、言うな。
 誰にも。
 拓真にも。

 結菜は静かに息を吐いた。

「……ねえ、お父さん」

 結菜の声が、自分でも驚くほど落ち着いていた。

「私がもし、誰かに助けを求めたら?」

 父は一拍だけ沈黙した。
 そして、凍るほど静かに言った。

「求めるな」

 それで終わり。

「朝霧は、助けを求める側じゃない。助けを“買う側”だ。お前の結婚で、それを買う」

 買う。
 結婚を。
 娘の人生を。

 結菜は、ようやく理解した。
 父にとって結菜は、娘であり、商品であり、保険だ。

 結菜は笑った。
 可愛らしい顔のまま、綺麗に。

「分かった」

 娘の言葉を捨てる音がした。
 心の奥で、何かが落ちる音。

 父は満足そうに頷いた。

「よし。これで朝霧は守られる」

 結菜はペンを取った。
 署名欄に、自分の名前を書く。
 朝霧結菜。
 その文字が、紙の上で“令嬢”になる。

 書き終えた瞬間、結菜は不思議と涙が出なかった。
 泣くのは娘で、令嬢は泣かない。

 父が立ち上がり、最後に言う。

「今日からお前は、“朝霧の娘”ではなく、“朝霧の令嬢”として動け」

 結菜は立ち上がり、深く頭を下げた。

「……承知しました」

 その瞬間、結菜は確かに、娘を捨てた。
 捨てて、令嬢になった。

 守られるのは、朝霧。
 守られないのは、結菜の心。