本当はあなたに言いたかった

 拓真の胸の中には、ずっと同じ映像が貼り付いていた。
 ホテルのラウンジで、結菜が鷹宮の隣に座っていた光景。
 頷くたびに未来が固まっていくみたいで、心臓が冷えた。

 そして、陽菜が見た資料。
 鷹宮家との縁談。
 朝霧が“守られる”という名の取引。

 ——結菜は、駒にされている。

 そう理解した瞬間から、拓真の中で“守りたい衝動”は、もはや衝動ではなく本能になった。
 動け。
 止めろ。
 取り戻せ。

 でも同時に、結菜の声が刺さっている。

『あなたが動いたら、全部壊れる』

 壊れる。
 朝霧が。片岡が。市場が。
 結菜が守ろうとしているものが。

 それでも——

 壊さずに守るなんて、綺麗事だ。
 壊さなきゃ守れないものがある。

 拓真は、気づけば朝霧本社へ向かっていた。
 黒崎の制止を振り切る形で。

「拓真様、今動けば、噂が燃えます」

「燃えさせねぇ。俺が止める」

「止め方が“戦争”になります」

 黒崎の声は冷静だった。
 冷静だから、拓真の苛立ちを煽る。

「戦争でも何でもいい」

 拓真が吐き捨てると、黒崎は一瞬だけ目を細めた。

「……結菜様の望みは、それでしょうか」

 その一言が、拓真の胸を叩いた。
 結菜の望み。
 結菜は、拓真が暴れることを望んでいない。
 望んでいないから、言えなかった。
 望んでいないから、守ろうとしていた。

 分かっている。
 分かっているのに、止まれない。

 朝霧本社のエントランスに着くと、警備が一瞬だけ空気を変えた。
 片岡の名は、どのビルでも扉を軽くする。
 それが拓真には腹立たしい。

 受付が丁寧に頭を下げる。

「片岡様、本日は——」

「社長に会う」

「ご予約は」

「今から取る」

 強引だ。
 強引な自分が嫌だ。
 でもこのままでは間に合わない。

 エレベーターに乗り、最上階。
 扉が開く。
 空気が硬い。朝霧の硬さだ。

 廊下の先に、篠宮玲子が立っていた。
 結菜の秘書。
 いつも完璧に整えられた表情が、今日は僅かに揺れている。

「片岡様……」

「通せ」

 拓真が言うと、玲子は一拍だけ沈黙し、低い声で言った。

「……今、社長室には鷹宮家の方がいらっしゃいます」

 拓真の血が冷えた。

「誰だ」

「鷹宮商事の鷹宮誠司様(当主)と——専務の恒一様です」

 当主。
 つまり、縁談の“最終確認”。

 拓真の喉が焼ける。
 今行かなければ、今日ここで決まる。

 拓真は歩き出した。
 玲子が止めようとする。

「片岡様、どうか——」

「止めるな」

 玲子の目が、わずかに痛そうに揺れた。
 結菜の側近だからこそ、結菜がどれだけ怯えるか分かっている目。

「結菜様は……“波風を立てないで”と」

 玲子の言葉が、拓真の胸を抉る。
 それでも拓真は止まれなかった。

 社長室の扉の前。
 守衛のように立つ秘書が一瞬躊躇う。
 拓真はノックをせず、取っ手に手をかけた。

 ——その手を、黒崎が掴んだ。

 硬い、強い力。

「拓真様。ここまでです」

「離せ」

「離しません」

 黒崎の声は低く、いつになく強かった。

「今、扉を開けたら終わります」

「終わらせねぇために来たんだろ」

 拓真が言うと、黒崎は一息置いて、はっきり言った。

「それは戦争です」

 戦争。
 その単語が、廊下の空気を切った。

「片岡家が朝霧家に乗り込む。鷹宮家の当主が同席している。
 ここで感情をぶつければ、三家は引けなくなります。
 市場が動き、記事が確定し、結菜様は“原因”にされます」

 拓真の胸が痛む。
 結菜が原因。
 結菜が矢面。
 それは、絶対に嫌だ。

 黒崎はさらに続ける。

「そして、結菜様が一番嫌う形になります」

 拓真の喉が詰まった。

 結菜が嫌う形。
 拓真が暴れて、結菜の世界を壊す形。
 結菜が守ろうとしていた朝霧を壊す形。

 ——結菜は、それを恐れていた。
 だから言えなかった。

 拓真の拳が震える。
 扉の向こうに、結菜がいる気がする。
 いないかもしれない。
 でも“結菜の未来”はそこにある。

 拓真は歯を食いしばり、低く言った。

「……じゃあ、俺は何をすりゃいい」

 初めて、拓真の声が“助けて”に近かった。
 不器用な男の、限界の声。

 黒崎は掴んだ手を離さず、静かに言った。

「戦わずに勝つ方法を探しましょう」

「そんなのあるのかよ」

「あります。——事実を集める。条件を崩す。相手に“損”を作る。
 感情ではなく、契約で止める」

 契約で止める。
 鷹宮の土俵で戦うということだ。
 拓真は胸の奥が悔しさで焼けた。

 でも、それしかない。

 扉の向こうから、笑い声が聞こえた。
 大人の笑い声。
 未来が整えられていく笑い声。

 拓真はその笑い声に、吐き気がした。

「……結菜」

 声にならない名前が、喉の奥で掠れる。
 今ここで叫べば、全部を壊せる。
 壊して連れ去れば、拓真は気が済むかもしれない。

 でも壊れたあと、結菜は拓真を見ない。
 そういう確信が、拓真にはあった。

 黒崎が、最後に釘を刺すように言う。

「拓真様。結菜様は“守られる”ことを望んでいません。
 望んでいるのは——“隣に立つ”ことです」

 隣に立つ。
 拓真の胸に、その言葉が落ちた。

 守るために壊すのではなく、壊さずに隣に立つ。
 その難しさが、拓真の拳をほどかせる。

 拓真はゆっくりと手を引いた。
 扉の取っ手から指を離す。
 離した瞬間、負けた気がして息が苦しい。

 でも——今ここで扉を開けないことが、結菜を守る唯一の方法でもある。

 拓真は背を向けた。
 廊下を歩き出す。

 黒崎が半歩後ろについてくる。
 玲子が遠くから、胸を押さえるように小さく息を吐いた。

 拓真は立ち止まらず、低く呟いた。

「……待ってろ。壊さずに、取り戻す」

 その誓いは、自分に言い聞かせる言葉だった。
 誰にも届かないまま、拓真はエレベーターに乗った。

 扉が閉まり、上階の空気が切り離される。
 その瞬間、拓真は初めて、自分の膝が微かに震えていることに気づいた。

 怒りで動いていたはずなのに、
 中身はずっと恐怖だった。

 ——失う恐怖。
 ——壊してしまう恐怖。

 そしてその夜、
 扉の向こうで、結菜の未来はまた一つ、静かに整えられていった。