本当はあなたに言いたかった

 結菜が見合いを「受け入れる」と決めた翌日、空は皮肉なくらい澄んでいた。
 朝霧本社の会議室の窓から見える街は、何も知らない顔で動いている。
 世界は整っている。
 整っているから、結菜だけが浮く。

 父に言われた通り、結菜は“余計な感情”を消す努力をした。
 笑う。頷く。丁寧に話す。
 自分の心を使わない。
 心を使わなければ、壊れない。

 ——そのはずだった。

「朝霧様、お時間をいただきありがとうございます」

 鷹宮恒一は、今日も丁寧だった。
 丁寧すぎるほどに。
 礼儀正しい微笑み、落ち着いた声、距離の取り方。
 何も間違っていないのに、結菜は息が浅くなる。

 会議室には、父はいない。
 代わりに、朝霧側の秘書・玲子と、鷹宮側の秘書が控えている。
 完全な二人きりではない。
 だからこそ、余計に“形式”が強い。

 テーブルの上に、資料が置かれた。
 婚約発表の文案。写真撮影の日程。社交界向けの挨拶回り。
 紙の上の文字が、結菜の未来を静かに縛る。

 鷹宮はページをめくりながら、結菜に視線を向けた。

「結菜さん、確認していただけますか。発表は、早い方が世間の揺れを抑えられます」

「……承知しました」

 結菜は頷く。
 頷きながら、胸の奥が小さく痛む。

 “早い方が”
 それはつまり、逃げる時間を削るということだ。

 鷹宮は優しい声で続けた。

「あなたが望まない形にはしません。発表後も、朝霧での役割は尊重します。必要なら生活の拠点も——」

 尊重。
 必要なら。
 すべてが合理的で、整っている。
 整っているからこそ、結菜は怖い。

 (私の気持ちは、どこにもいらない)

 それを“優しさ”で包まれるほど、心が凍る。

 結菜はペンを持ち、資料の端に小さくチェックを入れた。
 チェック。
 まるで、買い物のリストに印をつけるみたいに。

「……結菜さん」

 鷹宮が、ふと声色を変えた。
 変えたと言っても、ほんの少しだけ温度が下がる程度。
 でも結菜には分かった。
 この人は、空気の変化を見落とさない。

「疲れていませんか」

 結菜は反射で笑った。

「大丈夫です」

 言うほどに、“大丈夫”が嘘になる。
 嘘になるほど、喉が痛い。

 鷹宮は頷き、静かに言った。

「……嘘をつくのが上手い方ですね」

 結菜の手が止まった。
 心臓が、小さく跳ねる。

「……何のことですか」

「大丈夫です、と言う時。目が大丈夫じゃない」

 その指摘は、優しさの形をしていた。
 だからこそ怖い。
 拓真に見抜かれるのは怖いのに、鷹宮に見抜かれるのはもっと怖い。

 結菜は笑顔を貼り直そうとして、うまくいかなかった。

「……私は、こういう顔です」

「いいえ。あなたは、もっと感情がある」

 鷹宮の言葉は穏やかで、否定が強い。
 強いから、結菜は逃げられない。

 結菜は、指先で薬指を軽く触れた。
 あの計測痕が、今も皮膚の下に残っている気がして。

 (やめて)

 見ないで。
 心の中の痛みを、触れないで。

 鷹宮は、結菜が答えないことを責めない。
 責めないまま、さらに正しいことを言う。

「結菜さん。あなたは、誰かを守ろうとして自分を殺す癖がある」

 結菜の喉が詰まる。
 何も言っていないのに、言い当てられる。
 その正確さが恐ろしい。

「……そんなこと」

「あります」

 鷹宮は淡々と言い切った。
 淡々だから、逃げられない。

「あなたの目は、ずっと“誰か”を気にしている。——誰かに言えないことがある」

 結菜の背筋が冷たくなる。

 (拓真のこと?)

 鷹宮は、気づいている。
 気づいているのに、そこに踏み込まない。
 踏み込まない優しさが、結菜をさらに追い詰める。

 鷹宮は、そこで初めて少しだけ声を落とした。

「だから、逃げ道も用意します」

 結菜は顔を上げた。

「……逃げ道?」

 鷹宮は、名刺入れから一枚の紙を取り出した。
 契約書ではない。
 署名欄もない。
 ただの、メモのような紙。

「婚約破棄のための手順です。万が一、あなたが本当に耐えられなくなった時——朝霧が傷つかない形で、終わらせる道」

 結菜の胸が、ぎゅっと潰れた。

 優しい。
 合理的。
 完璧な逃げ道。

 でも、それはつまり——

 (最初から、終わる前提も入ってるってこと?)

 結菜は息が苦しくなる。
 逃げ道がある、と言われるほど、結菜は檻の中にいると実感する。

 鷹宮は続けた。

「あなたが潰れてしまうのは、こちらにとっても不利益です。——それに」

 そこまで言って、鷹宮はほんの少しだけ間を置いた。

「あなたが潰れたら、あなたが守ろうとしている“誰か”も壊れます」

 結菜の呼吸が止まった。

 ——誰か。
 拓真。
 守りたい衝動で動き出す人。
 動き出したら、家同士がぶつかる。
 戦争になる。
 結菜が一番恐れていること。

 鷹宮は、結菜の沈黙を見て小さく息を吐いた。

「……当てましたね」

 結菜は否定できない。
 否定したら、嘘になる。
 嘘をつくのが上手いと見抜かれている以上、否定は無意味だ。

 結菜は、指先でメモを押さえた。
 紙は軽い。
 軽いのに、重い。
 この紙一枚で、結菜の未来が“逃げられる形”に整えられている。

 (優しさが怖い)

 拓真の不器用な優しさは、喧嘩になって痛い。
 鷹宮の整った優しさは、喧嘩にならない分、もっと痛い。

 結菜は絞り出すように言った。

「……私は、逃げません」

「逃げることは悪いことではありません」

「悪いです」

 結菜の声が震えた。
 震えた声を、鷹宮は見逃さない。
 でも追い詰めない。

「あなたが壊れる前に、壊れない道を選ぶ。それは“賢い”ことです」

 また、その言葉。
 賢い。
 結菜は、その言葉が嫌いになりたかった。
 嫌いになりきれない自分が嫌だった。

 結菜は微笑みを作り直し、紙を鞄にしまった。
 しまう動作が、まるで自分の心をしまうみたいだった。

「……ありがとうございます」

 鷹宮が頷く。

「こちらこそ。あなたが“無理をしない”ように進めます」

 無理をしない。
 その言葉が、結菜の胸を締めつける。

 無理をしない=心を使わない。
 心を使わない=本当の結菜を殺す。

 結菜は、会議室を出る直前に一度だけ振り返った。

 鷹宮は、変わらず穏やかな笑みだった。
 優しい。
 正しい。
 だから怖い。

 扉の外に出た瞬間、結菜は深く息を吐いた。
 吐いた息が震える。
 玲子が小声で言った。

「結菜様……大丈夫ですか」

 結菜は笑った。

「大丈夫」

 また嘘。

 でも今日は、その嘘の中に別の意味が混ざっていた。

 ——逃げ道がある。
 逃げても、朝霧は守れる。
 それを知ってしまった瞬間から、結菜の心はさらに揺れる。

 “守る”ために折れた結菜の中で、
 “守りながら終わらせる”という新しい選択肢が、静かに芽を出していた。