本当はあなたに言いたかった

 レセプションの帰り道、結菜の足元だけが遠かった。
 タクシーの窓に映る自分の顔は、きれいに笑っている。
 可愛らしい顔立ち。栗色の巻き毛。
 “令嬢”として正しい形。

 でも、目の奥だけが空っぽだった。

 家に着くまでの間、結菜は一度もスマホを見なかった。
 見たら、拓真の名前がある気がした。
 あったら、返せない。
 返せない自分が、もう耐えられない。

 朝霧家の門をくぐると、庭の灯りが整いすぎた道を照らしていた。
 美しいのに、息が詰まる。
 この屋敷はいつも、結菜を“娘”に戻さない。

「結菜」

 玄関を抜けた瞬間、父の声がした。
 リビングの扉が開いている。
 父はソファに座り、書類を広げたまま顔を上げない。

「遅かったな」

「……片岡家の席が長引いて」

「そうか」

 それだけ。
 娘の心がどうだったかなんて、聞かれない。

 父はテーブルの上の封筒を指で弾いた。
 白い封筒。硬い角。
 あの契約書の匂いがする封筒。

「鷹宮家から連絡があった。明後日、正式に顔合わせの席を設けたいそうだ」

 結菜の胸が、静かに沈んだ。

 明後日。
 近い。
 逃げられない距離。

「……分かりました」

 自分の口が勝手に動く。
 頷け。笑え。
 その命令が体に染みついている。

 父は頷く。

「いい返事だ。世間が騒ぐ前に形を整える。真鍋の件もある。こちらが先に“示す”」

 “示す”。
 それはつまり、公表だ。

 結菜の喉が痛くなる。
 公表されたら、もう戻れない。
 戻りたい場所がどこか分からないのに、戻れないことだけが怖い。

「……片岡家は」

 結菜が思わず口にした瞬間、父の視線が鋭く上がった。

「片岡は関係ない」

 その一言で、結菜の心が一段冷えた。

 関係ない。
 拓真は、関係ない。

 ——そうだよね。
 会社の話に、拓真は関係ない。
 でも結菜の心には、拓真しか関係がなかった。

 父は淡々と続ける。

「鷹宮家は条件を守る。朝霧への干渉を止める。市場の揺れも抑える。——お前の結婚で、朝霧は守られる」

 守られる。
 その言葉は、結菜の心を守らない。

 結菜は唇を噛み、静かに言った。

「……私が、嫌だと言ったら」

 自分でも驚いた。
 こんな言葉を、口にするつもりはなかった。

 父は、驚かなかった。
 ただ、淡々と答えた。

「嫌だと言うな」

 それだけ。

 結菜の目の奥が熱くなる。
 でも泣けない。
 泣いたら、負ける。
 泣いたら、“駒が泣いている”というだけになる。

「……私は、駒ですか」

 声が震えた。
 震えたことが悔しくて、結菜は背筋を伸ばした。

 父はようやく結菜を見た。
 目は冷たくない。
 冷たいのではなく、ただ“揺れない”。

「駒じゃない。朝霧の娘だ」

 同じだ。
 言葉が違うだけで、意味は同じ。

「娘は、朝霧を守る」

 父は当たり前のように言った。

 結菜は笑ってしまいそうになった。
 笑ったら壊れるから、笑わない。

 その時、結菜の脳裏に、会場で見た“正解”が浮かぶ。

 拓真の隣にいる陽菜。
 あの自然な距離。
 みんなが「安心」と呼んだ絵。
 そして、結菜がそこから一歩外れている感覚。

 (私がいなくても、世界は整う)

 その言葉が、胸の奥で何度も反響する。

 拓真の人生には、結菜がいなくても整う。
 片岡家は陽菜を推し、世間は“お似合い”と囁く。
 結菜は鷹宮へ行けば、朝霧は守られる。
 会社も、家も、世間も——納得する。

 納得するために生きる。
 それが令嬢の仕事なら。

 結菜は、ゆっくりと息を吸った。
 肺が痛い。
 それでも声は出る。

「……分かりました」

 父が頷く。
 満足そうに。

「賢い」

 その言葉を、結菜はもう痛いと感じなくなっていた。
 痛いはずなのに、感覚が鈍い。

 部屋を出ようとした時、父が最後に言った。

「余計な感情は捨てろ。片岡に未練を残すな」

 結菜の足が止まった。

 未練。
 父の口から出た瞬間、それは“感情”として認識された。
 結菜の胸の奥の唯一の柔らかい部分を、父が正確に踏んだ。

「……未練なんて」

 結菜は言いかけて、言い切れなかった。

 未練なんて、ない。
 そう言ったら嘘になる。
 嘘をついたら、また苦しくなる。

 結菜は小さく頭を下げ、部屋を出た。

 廊下は静かで、暗くて、冷たい。
 自室に入ると、鏡が結菜を迎えた。

 鏡の中の結菜は、今日も可愛らしい顔で笑っている。
 でも、その笑顔は“結菜”のものじゃない。

 結菜はドレスのファスナーに手をかけ、ゆっくり下ろした。
 衣擦れの音がやけに大きい。
 服を脱いでも、胸の重さは取れない。

 ドレッサーの引き出しに、紙袋が入っている。
 ドレスサロンの紙袋。
 持ち手の跡が、指に残る気がする。

 結菜はそれを引き出しから出し、膝の上に置いた。
 紙袋を見て、思った。

 (……私、選んでない)

 選ばされた。
 整えられた。
 頷かされた。

 なのに。

 拓真にだけは、言えなかった。
 言えば、拓真が壊す。
 壊したら、朝霧が傷つく。
 傷ついたら、結菜のせいになる。

 全部、分かっている。
 分かっているから、折れる。

 結菜はスマホを手に取った。
 画面を開く。
 拓真の名前は、通知一覧にいくつも並んでいた。
 未読のまま積もった呼びかけ。

 結菜は指先で画面をなぞり、通話ボタンの手前で止めた。

 (……ごめん)

 言えない。
 今さら言えない。
 言うならもっと早く言うべきだった。

 結菜はスマホを伏せた。
 そして、決める。

 ——私は、見合いを受け入れる。

 泣かない。
 喧嘩もしない。
 もう、拓真に期待しない。
 期待したら、壊れるのは自分だから。

 結菜は鏡を見て、口角を上げた。
 完璧な令嬢の笑顔。
 その笑顔のまま、目の奥だけが濡れていく。

「私がいなくても、世界は整う」

 声に出した瞬間、何かが静かに終わった。

 でも同時に、胸の奥で小さく痛むものが残っている。
 その痛みが、本当の結菜の最後の抵抗だった。