本当はあなたに言いたかった


 片岡家主催のレセプションは、“正解”で溢れていた。
 会場の装花、グラスの並び、司会の声の抑揚。
 すべてが、財閥の格式と安定を誇示するために整えられている。

 誰が誰の隣に立つべきかも、最初から決まっているみたいに。

 結菜は招待状を握りしめたまま、入口の前で一度だけ呼吸を整えた。
 来るべきじゃないと思っていた。
 来なければ、噂が“欠席=確定”になるとも思った。
 どちらにしても逃げ場はない。

 淡い色のドレス。
 栗色の巻き毛はゆるく巻いて、可愛らしい顔に“何も思っていません”の微笑みを貼る。
 今日の結菜は、朝霧の顔だ。結菜の心は置いてきた。

「朝霧様、ご来場ありがとうございます」

 受付が頭を下げる。
 周囲の視線が一斉に集まる。
 結菜が“誰の令嬢か”を確認する目。
 そして、“誰の隣に座るのか”を探す目。

 結菜は視線を返さず、まっすぐ会場へ入った。

 音楽が流れる。笑い声。グラスの触れ合う音。
 その中心に、目を奪われる“絵”があった。

 片岡拓真。
 黒のタキシード。背筋の伸びた姿勢。
 そして、その腕に自然に寄り添う西園寺陽菜。

 ——お似合いだ。

 誰かが小声で囁いた気がした。
 その言葉は、聞こえたのか、結菜が勝手に作ったのか分からない。
 どちらでも同じだった。胸が痛む。

 陽菜は淡いドレスで、微笑みが柔らかい。
 拓真は普段の刺々しさを消して、“当主候補”の顔をしている。
 その二人が並ぶと、絵になる。
 絵になりすぎて、結菜の居場所がどこにもない気がした。

 (……正解、だね)

 心の中で呟いた瞬間、胸の奥の痛みが強くなる。
 結菜は笑って、グラスを取った。
 笑っている間だけ、痛みが見えない。

 会場を回る。挨拶をする。微笑む。
 “朝霧令嬢”として完璧に。

 けれど視界の端に、いつも拓真と陽菜が映る。
 逃げても逃げても、中心の絵が消えない。

 陽菜が、視線だけで結菜に気づいた。
 微かに目が揺れて、すぐに笑顔に戻る。
 「ごめん」と言っているみたいな目だった。

 拓真は——気づかない。
 気づかないふりをしている。
 どちらでも、結菜の胸は痛い。

 結菜がドリンクを置き、壁際に寄った時、近くのグループの会話が耳に入った。

「片岡様、やっぱり西園寺令嬢と……ね」

「安心感が違うもの。あの二人なら盤石よ」

「朝霧令嬢? 鷹宮の方でしょ。朝霧も安定するし、世間も納得」

 納得。
 その言葉が、結菜の背中を冷たく撫でる。

 納得されるために、私は生まれてきたのか。
 納得されるために、笑っているのか。

 結菜はグラスの縁を指でなぞり、息を整えた。
 泣くな。
 ここでは泣けない。
 泣いたら、噂が“事実”になる。

 その時、会場中央で母親らしき女性の声が響いた。

「拓真、こちらへ。陽菜さんと一緒にご挨拶を」

 片岡美佐子の声だった。
 あの、穏やかな圧をかける声。

 拓真が一瞬だけ顔をしかめ、すぐに表情を整える。
 陽菜が半歩寄り添い、二人で並んで歩く。

 “ペア”として。

 結菜の喉がひくりと動いた。
 胸の奥で、何かが静かに崩れる音がする。

 拓真が、陽菜と一緒に笑う。
 笑っている。
 社会の正解として。財閥の正解として。
 その笑顔が、結菜には知らない人みたいに見えた。

 (喧嘩してた拓真は、どこ)

 自分にだけ棘を向けていた拓真は、どこ。
 「話せよ」と言っていた拓真は、どこ。

 結菜は目を逸らす。
 逸らした先に鏡があり、そこに映る自分の顔が“令嬢の顔”で笑っている。
 可愛らしい顔が、悲しさを隠すのに都合がいい。

 その時、陽菜がふと、結菜の方へ視線を投げた。
 一瞬だけ。
 でもはっきりと。

 ——結菜ちゃん。

 陽菜は呼ばない。呼べない。
 呼べば、二人のペアに傷がつく。
 この場の“正解”が揺れる。

 結菜は、陽菜に向けて小さく笑って見せた。
 大丈夫、の笑顔。
 壊れていないふりの笑顔。

 陽菜の瞳が痛そうに揺れ、すぐにまた微笑みに戻る。
 “正解”の一部に戻る。

 結菜は、もう一度自分に言い聞かせた。

 (私がいなくても、世界は整う)

 拓真の隣には陽菜がいる。
 朝霧の娘は鷹宮へ。
 その方が、会社も、家も、世間も——納得する。

 結菜はその“整った物語”の中で、ただ静かに立っていた。
 胸の痛みが、誰にも見えないように。

 そして、拓真がこちらを見た。
 ほんの一瞬。
 目が合った。

 拓真の目は、笑っていなかった。
 当主候補の仮面の下で、何かが焦げている目。

 結菜の心臓が跳ねる。
 跳ねた瞬間、結菜は反射で笑って目を逸らした。

 ——逸らすしかない。
 逸らしたら、何も始まらない。
 だから、傷つかずに済む。

 そう思い込まないと、ここに立っていられなかった。