本当はあなたに言いたかった

 噂は、言葉にしない方が重い。
 言わない、という選択が、いちばん人を追い詰める時がある。

 西園寺銀行の応接フロアを出た陽菜は、エレベーターの鏡に映る自分の顔を見て、ほんの少しだけ眉を寄せた。
 笑顔が、崩れている。

 ——結菜ちゃんの縁談。
 ——鷹宮家。
 ——社内でも“追い風”と呼ばれている。

 資料の文字は頭に焼き付いて離れないのに、陽菜は誰にも言えない。
 言えば、動く。
 動けば、壊れる。

 結菜も、拓真も、そして自分も。

 陽菜はスマホを握りしめ、画面の上で一度だけ指を止めた。
 結菜の名前。
 通話ボタン。

 押せばいい。
 押して「大丈夫?」と聞けばいい。
 でも、その“大丈夫?”が一番危ないのを陽菜は知っている。

 結菜は大丈夫じゃない時ほど、「大丈夫」と笑う。
 そして、笑ったまま崩れてしまう。

 陽菜は通話をやめて、短いメッセージだけ打った。

《少しだけ会える?》

 すぐに返事は来なかった。
 来ないことが、陽菜の胸をざわつかせる。
 結菜は今、会う余裕すら奪われているのかもしれない。

 しばらくして、通知が来た。

《うん。昼休み、屋上。》

 屋上。
 人目を避けたい場所。
 結菜らしい。

 ——やっぱり。

 陽菜は息を吐き、時計を見た。
 昼休みまでの時間が、やけに長い。



 朝霧本社の屋上は、風が冷たかった。
 街の音が遠く、空だけが近い。
 結菜はフェンスのそばに立ち、栗色の巻き毛を風に揺らしながら、空を見ていた。

 陽菜が扉を開けると、結菜は振り向かない。
 振り向かないまま、微笑みだけを作る。

「来てくれたんだ」

 その声が、いつもより少しだけ軽い。
 軽いほど、陽菜は胸が痛む。

「うん。……結菜ちゃん、顔色」

「大丈夫」

 即答。
 噛みつくほどの速さで出る“防御”。

 陽菜は結菜の横に並び、同じ空を見るふりをした。
 ここで正面から見つめたら、結菜はもっと笑ってしまうから。

「……ねえ」

 陽菜が声を落とす。
 言葉の形を整えながら、慎重に。

「最近、忙しい?」

 結菜が、小さく笑った。

「またそれ?」

 笑っているのに、目が笑っていない。
 陽菜はその事実を、もう誤魔化せない。

「だって……結菜ちゃん、すごく無理してる」

「無理してないよ」

「してる」

 陽菜がきっぱり言うと、結菜の指がフェンスを握りしめた。
 握りしめた指先が、少し白い。

 陽菜はその手元を見ないふりをして、静かに続けた。

「結菜ちゃん、私ね……怖い」

「何が」

「結菜ちゃんが、つらそうで」

 結菜の肩が、ほんの少し揺れた。
 揺れても、結菜は泣かない。
 泣く代わりに笑う。

「大丈夫。私、強いから」

 その言い方が、時と同じで。
 陽菜は唇を噛んだ。

 ——強いんじゃない。
 ——辛くないふりが上手いだけ。

 陽菜は、胸の奥にある“資料”を言いたくなった。
 言えば、救える気がした。
 でも言えば、結菜はさらに閉じる。
 「見られた」と思う。
 「知られた」と思う。
 そして、もっと笑う。

 陽菜は、言葉を飲み込んだ。

 (言えない)

 言えない代わりに、陽菜は一歩だけ近づいて言った。

「……結菜ちゃん。拓真くんと、喧嘩した?」

 結菜が一瞬だけ呼吸を止めた。
 止めて、また笑った。

「喧嘩はいつもしてる」

「いつもの喧嘩じゃないでしょ」

 陽菜が言うと、結菜はようやく空から視線を外し、陽菜を見た。
 可愛らしい顔が、少しだけ幼く見える。
 栗色の巻き毛の影で、目の奥が熱く揺れている。

「……陽菜」

 結菜の声が、少しだけ掠れた。

「私ね。拓真にだけは、言えないことがあるの」

 陽菜の胸が、きゅっと縮む。

 (やっぱり)

 陽菜は頷きたいのに、頷くと結菜が“肯定された”と感じてしまう気がして、首が動かない。

 結菜は続ける。

「言ったら……巻き込む。壊す。……だから」

 だから、言えない。
 だから、嘘をつく。
 だから、逃げる。

 陽菜は息を吸って、吐いて、たった一言だけを選んだ。

「……言えないよね」

 それは肯定でも否定でもない。
 責めてもいない。
 ただ、理解しているという合図。

 なのに——結菜の目が一瞬だけ潤んだ。

 潤んで、結菜は慌てて笑う。
 笑ってしまう。
 泣いたら終わると分かっているから。

「……うん。言えない」

 結菜の声が小さく震えた。
 その震えが、陽菜の胸を刺す。

 陽菜は抱きしめたくなった。
 でも抱きしめたら、結菜は“可哀想”にされる気がして拒むだろう。
 結菜のプライドは、そのくらい強い。

 だから陽菜は、手を伸ばさなかった。
 伸ばせないまま、ただ隣に立つ。

 風が吹き、結菜の巻き毛が頬にかかる。
 結菜が指でそれを耳にかける仕草が、いつもより遅い。
 まるで、その一秒に全部の痛みが詰まっているみたいだった。

「ねえ、陽菜」

 結菜が言った。

「私、変かな」

 陽菜は首を振った。
 即座に。強く。

「変じゃない」

「じゃあ、なんでこんなに苦しいんだろ」

 結菜の声が、今にも泣きそうで。
 陽菜は胸の奥の“資料”が喉元まで上がるのを感じた。

 ——言ってしまえばいい。
 ——私が見たことを言えば、結菜は一人じゃなくなる。

 でもその瞬間、陽菜は想像する。
 結菜の表情が固まり、笑顔が戻り、距離を取る姿。
 「ごめん、私、やっぱり大丈夫」
 そう言って、もう屋上にも来なくなる。

 陽菜は、また言葉を飲み込んだ。

 そして代わりに、約束でも慰めでもない“現実”を渡すように言った。

「結菜ちゃん。……一人で全部抱えないで」

 結菜が笑った。

「抱えてないよ」

 嘘。
 嘘だと分かる。
 分かるのに、陽菜はそれ以上言えない。

 言えないまま、陽菜は小さく言った。

「私、味方だよ」

 結菜は、ほんの少しだけ目を細めた。
 嬉しそうに見えたのに、その直後、すぐにまた笑う。

「ありがとう」

 ありがとう。
 その言葉が、陽菜には“さよなら”みたいに聞こえてしまう。

 屋上の扉が遠くで開き、誰かの足音がした。
 結菜は反射で背筋を伸ばし、令嬢の顔に戻る。
 陽菜も同じように笑顔を作る。

 ——こうして、二人はまた何もなかったふりをする。

 結菜が最後に小さく呟いた。

「陽菜……拓真のこと、お願い。変に思わないで」

 陽菜の胸が痛む。
 変に思わない。
 でも、拓真は苦しむ。
 苦しませたくない。
 結菜も、拓真も。

 陽菜は、結菜の横顔を見て、もう一度だけ、同じ言葉を繰り返した。

「……言えないよね」

 それ以上は、言わなかった。
 言えなかった。

 沈黙は優しさの形をして、
 でも確実に——結菜の胸を削っていった。