金融パーティーの会場は、笑い声よりも先に“香り”が満ちていた。
高級な花の甘さと、グラスに揺れるシャンパンの泡、そして香水の残り香。どれもが上品なのに、結菜の喉の奥だけが乾く。
天井から降りるシャンデリアが、宝石のように光を散らし、白いテーブルクロスの上で反射する。
そこに映る人々の表情は、みんな“正しい顔”をしていた。笑顔の角度、言葉の温度、近づく距離。
この場では、感情は飾りで、価値は交渉材料。
——社長令嬢の結菜も、例外じゃない。
結菜は淡いアイボリーのドレスを選ばされ、栗色の巻き毛をゆるくまとめてきた。柔らかい印象を作るためだと、玲子は当然のように言った。
可愛らしい顔立ちが、“害のなさ”に見えるように。
そうやって作られた自分が、少しだけ遠い。
「結菜ちゃん」
背後から呼ばれ、結菜は振り返る。
西園寺陽菜が、淡い水色のドレスで立っていた。品のある微笑み。誰にでも同じ温度で接しながら、誰よりも空気を読む目。
「来てくれてよかった。今日はね、久しぶりに会う人が多いから、絶対結菜ちゃんがいた方が安心だと思って」
「……陽菜がいれば、皆安心でしょ」
「それ、褒めてる? 刺してる?」
陽菜がくすっと笑う。
その笑い方ひとつで、周囲の緊張がゆるむ。そういう才能を、結菜は心底羨ましく思う。
「刺してない。……ただ、陽菜はいつも完璧だなって思っただけ」
「完璧じゃないよ。私も、怖いこといっぱいある」
陽菜の声は柔らかいのに、言葉の裏に少しだけ“本音”が混じった気がして、結菜は一瞬、胸がざわついた。
けれど陽菜はすぐに話題を変えるように視線を動かす。
「ほら、片岡さんたち来たよ」
結菜の心臓が、跳ねた。
扉の向こうから人の流れが割れ、そこに自然にできた“道”の中心に、片岡拓真がいた。
黒のタキシード。余計な装飾のないシンプルな装いなのに、存在感だけが浮いている。
歩幅が大きい。視線が真っ直ぐ。笑っていないのに、周りが勝手に笑顔になる。
——昔からそうだ。
拓真の周りには、いつも人が集まる。
そして今日、彼の隣には。
陽菜が、いた。
拓真が会場の中央に進み、陽菜が半歩遅れで寄り添う。
その距離が、あまりに自然で、あまりに綺麗で——
結菜の胸の奥が、静かに痛んだ。
「見て。やっぱり西園寺さん、素敵ね」
「片岡様と並ぶと、もう……絵になる」
近くで囁かれる声が、結菜の耳に刺さる。
まるで、正解がそこにあるみたいに。
(……そうよね)
結菜は笑って、グラスを持ち上げた。
自分に言い聞かせるように、口角を上げる。
「本当。お似合いだね」
——声が震えないように。
陽菜が結菜の横顔をちらりと見た。
何か言いかけたように唇が動いて、でも言葉にはならない。
結菜は気づかないふりをした。気づいたら、崩れてしまいそうだったから。
拓真がこちらに気づく。
視線が絡む。たった一秒。
なのに結菜の胸が熱くなって、すぐに目を逸らした。
逸らした瞬間——
「朝霧」
拓真が、結菜の名前を呼んだ。
呼び方が昔のまま。
苗字だけなのに、距離が近い。
結菜は仕方なく振り向く。
拓真が陽菜と一緒に歩み寄ってくる。周囲の視線が集まり、空気が“観察”に変わるのが分かる。
ここは社交の場。誰の言葉も、誰の笑顔も、噂の材料になる。
「よく来たな」
「招待状が来たから。……仕事でしょ」
「仕事で来る顔じゃない」
「じゃあ、どんな顔ならいいの?」
結菜の声に棘が混じり、陽菜がそっと間に入る。
「拓真くん、結菜ちゃん、今日は喧嘩しないって約束してきたんじゃないの?」
「約束なんてしてない」
「してないのに、ここまで持つの逆に偉いよね」
陽菜が笑うと、周囲もつられて笑う。
結菜はその笑い声に救われる一方で、心のどこかでまた痛んだ。
——陽菜がいなかったら、私は今ここで、どうしていたんだろう。
拓真が結菜の手元をちらりと見る。
グラスを持つ指先が、わずかに白くなっている。
それに気づかれて、結菜は反射で手を引っ込めた。
「……緊張してんのか?」
「してない」
「嘘つけ。お前、昔からそういう時——」
拓真が言いかけて止める。
止めたことが、結菜を苛立たせる。
「なによ。言いかけてやめるの、やめてくれない?」
「……」
拓真は答えない。
陽菜だけが、静かに微笑んだまま結菜を見る。
それが、優しいのに、怖い。
結菜は笑顔を貼り直す。
「二人は忙しいでしょ。ほら、もう呼ばれてる」
視線の先で、片岡家の関係者が拓真に合図を送っている。
拓真はその合図に一瞬だけ顔を曇らせ——
「……行く」
短く言って、陽菜を伴って離れていった。
結菜は、その背中を見送った。
背中の隣にいるのが、陽菜であることが、ひどく自然で。
自然すぎて、苦しい。
(私が隣にいたら、自然じゃないのかな)
そんなこと、考えるべきじゃない。
考えた瞬間に、胸が裂ける。
「結菜ちゃん」
陽菜が振り返り、ほんの少しだけ声を落とした。
「……無理して笑ってない?」
結菜は、反射で笑う。
「してないよ」
嘘は、上手くなった。
令嬢は、上手に笑えるほど価値がある。そう教えられてきた。
陽菜の瞳が、少しだけ揺れる。
でも陽菜はそれ以上踏み込まない。踏み込まない優しさが、結菜には時々“刃”になる。
「そっか。じゃあ、後で一緒にデザート食べよ。甘いの、好きでしょ?」
「……うん」
結菜は頷き、再び会場の人波へ戻る。
周囲に挨拶をし、笑い、グラスを持ち替え、相槌を打つ。
そのたびに、視界の端に映る“お似合いの絵”が、少しずつ胸を削る。
拓真の隣に、陽菜。
誰もが納得する構図。
結菜はそれを、笑って受け流す。
——笑っている間だけ、痛みが見えなくなるから。
そして、結菜はまだ知らない。
この夜の“絵”が、ただの噂では終わらず、
自分の人生の選択を、容赦なく狭めていくことを。
胸の痛みを、誰にも見せられないまま。
高級な花の甘さと、グラスに揺れるシャンパンの泡、そして香水の残り香。どれもが上品なのに、結菜の喉の奥だけが乾く。
天井から降りるシャンデリアが、宝石のように光を散らし、白いテーブルクロスの上で反射する。
そこに映る人々の表情は、みんな“正しい顔”をしていた。笑顔の角度、言葉の温度、近づく距離。
この場では、感情は飾りで、価値は交渉材料。
——社長令嬢の結菜も、例外じゃない。
結菜は淡いアイボリーのドレスを選ばされ、栗色の巻き毛をゆるくまとめてきた。柔らかい印象を作るためだと、玲子は当然のように言った。
可愛らしい顔立ちが、“害のなさ”に見えるように。
そうやって作られた自分が、少しだけ遠い。
「結菜ちゃん」
背後から呼ばれ、結菜は振り返る。
西園寺陽菜が、淡い水色のドレスで立っていた。品のある微笑み。誰にでも同じ温度で接しながら、誰よりも空気を読む目。
「来てくれてよかった。今日はね、久しぶりに会う人が多いから、絶対結菜ちゃんがいた方が安心だと思って」
「……陽菜がいれば、皆安心でしょ」
「それ、褒めてる? 刺してる?」
陽菜がくすっと笑う。
その笑い方ひとつで、周囲の緊張がゆるむ。そういう才能を、結菜は心底羨ましく思う。
「刺してない。……ただ、陽菜はいつも完璧だなって思っただけ」
「完璧じゃないよ。私も、怖いこといっぱいある」
陽菜の声は柔らかいのに、言葉の裏に少しだけ“本音”が混じった気がして、結菜は一瞬、胸がざわついた。
けれど陽菜はすぐに話題を変えるように視線を動かす。
「ほら、片岡さんたち来たよ」
結菜の心臓が、跳ねた。
扉の向こうから人の流れが割れ、そこに自然にできた“道”の中心に、片岡拓真がいた。
黒のタキシード。余計な装飾のないシンプルな装いなのに、存在感だけが浮いている。
歩幅が大きい。視線が真っ直ぐ。笑っていないのに、周りが勝手に笑顔になる。
——昔からそうだ。
拓真の周りには、いつも人が集まる。
そして今日、彼の隣には。
陽菜が、いた。
拓真が会場の中央に進み、陽菜が半歩遅れで寄り添う。
その距離が、あまりに自然で、あまりに綺麗で——
結菜の胸の奥が、静かに痛んだ。
「見て。やっぱり西園寺さん、素敵ね」
「片岡様と並ぶと、もう……絵になる」
近くで囁かれる声が、結菜の耳に刺さる。
まるで、正解がそこにあるみたいに。
(……そうよね)
結菜は笑って、グラスを持ち上げた。
自分に言い聞かせるように、口角を上げる。
「本当。お似合いだね」
——声が震えないように。
陽菜が結菜の横顔をちらりと見た。
何か言いかけたように唇が動いて、でも言葉にはならない。
結菜は気づかないふりをした。気づいたら、崩れてしまいそうだったから。
拓真がこちらに気づく。
視線が絡む。たった一秒。
なのに結菜の胸が熱くなって、すぐに目を逸らした。
逸らした瞬間——
「朝霧」
拓真が、結菜の名前を呼んだ。
呼び方が昔のまま。
苗字だけなのに、距離が近い。
結菜は仕方なく振り向く。
拓真が陽菜と一緒に歩み寄ってくる。周囲の視線が集まり、空気が“観察”に変わるのが分かる。
ここは社交の場。誰の言葉も、誰の笑顔も、噂の材料になる。
「よく来たな」
「招待状が来たから。……仕事でしょ」
「仕事で来る顔じゃない」
「じゃあ、どんな顔ならいいの?」
結菜の声に棘が混じり、陽菜がそっと間に入る。
「拓真くん、結菜ちゃん、今日は喧嘩しないって約束してきたんじゃないの?」
「約束なんてしてない」
「してないのに、ここまで持つの逆に偉いよね」
陽菜が笑うと、周囲もつられて笑う。
結菜はその笑い声に救われる一方で、心のどこかでまた痛んだ。
——陽菜がいなかったら、私は今ここで、どうしていたんだろう。
拓真が結菜の手元をちらりと見る。
グラスを持つ指先が、わずかに白くなっている。
それに気づかれて、結菜は反射で手を引っ込めた。
「……緊張してんのか?」
「してない」
「嘘つけ。お前、昔からそういう時——」
拓真が言いかけて止める。
止めたことが、結菜を苛立たせる。
「なによ。言いかけてやめるの、やめてくれない?」
「……」
拓真は答えない。
陽菜だけが、静かに微笑んだまま結菜を見る。
それが、優しいのに、怖い。
結菜は笑顔を貼り直す。
「二人は忙しいでしょ。ほら、もう呼ばれてる」
視線の先で、片岡家の関係者が拓真に合図を送っている。
拓真はその合図に一瞬だけ顔を曇らせ——
「……行く」
短く言って、陽菜を伴って離れていった。
結菜は、その背中を見送った。
背中の隣にいるのが、陽菜であることが、ひどく自然で。
自然すぎて、苦しい。
(私が隣にいたら、自然じゃないのかな)
そんなこと、考えるべきじゃない。
考えた瞬間に、胸が裂ける。
「結菜ちゃん」
陽菜が振り返り、ほんの少しだけ声を落とした。
「……無理して笑ってない?」
結菜は、反射で笑う。
「してないよ」
嘘は、上手くなった。
令嬢は、上手に笑えるほど価値がある。そう教えられてきた。
陽菜の瞳が、少しだけ揺れる。
でも陽菜はそれ以上踏み込まない。踏み込まない優しさが、結菜には時々“刃”になる。
「そっか。じゃあ、後で一緒にデザート食べよ。甘いの、好きでしょ?」
「……うん」
結菜は頷き、再び会場の人波へ戻る。
周囲に挨拶をし、笑い、グラスを持ち替え、相槌を打つ。
そのたびに、視界の端に映る“お似合いの絵”が、少しずつ胸を削る。
拓真の隣に、陽菜。
誰もが納得する構図。
結菜はそれを、笑って受け流す。
——笑っている間だけ、痛みが見えなくなるから。
そして、結菜はまだ知らない。
この夜の“絵”が、ただの噂では終わらず、
自分の人生の選択を、容赦なく狭めていくことを。
胸の痛みを、誰にも見せられないまま。

