噂は、火花じゃない。
乾いた紙に落ちた灰みたいに、音もなく広がって、気づいた時には燃えている。
拓真と別れた夜から、結菜はほとんど眠れなかった。
眠れないのに、朝は来る。
朝が来れば、笑う。
笑えば、何もなかったことにできる——そう教わってきたから。
朝霧ホールディングスの役員フロアは、今日も静かだった。
静かなのに、空気がざわついている。
社員の目が、結菜の薬指を見ている気がした。
見ていないはずなのに、見られている。
結菜は廊下を歩きながら、指先を握りしめた。
栗色の巻き毛が肩で揺れる。
可愛らしい顔に、いつもの微笑み。
その微笑みが、今日はやけに重い。
「結菜さん」
取締役の三原が、角を曲がったところで待っていた。
偶然を装った立ち方。
偶然を装った笑顔。
「お忙しいところ、少し」
「今、資料確認が——」
「すぐ終わります。……良い知らせですから」
良い知らせ。
その言い方が、結菜の胸を冷やす。
三原は結菜を小会議室へ促した。
扉が閉まる。
空気が、密室の匂いになる。
「社内で、噂が動いています」
三原はそう言い、笑った。
笑っているのに目が冷たい。
噂を“資産”にする人間の目。
「鷹宮家との縁談。——これは、追い風です」
結菜の喉が、きゅっと締まる。
「追い風……?」
「ええ。市場は不安を嫌います。朝霧は今、狙われている。ですが縁談が見えれば、“後ろ盾”ができる。株価も、取引先の信用も、落ち着く」
言葉が正しい。
正しいから、結菜は反論できない。
反論すれば、“会社のため”に逆らう娘になる。
「まだ、決まっていません」
結菜は薄く言った。
事実だ。
けれど三原は、事実より“物語”を優先する。
「決まりますよ。決めるのが仕事です」
さらりと、残酷なことを言う。
「あなたは社長令嬢だ。令嬢の結婚は、会社の結婚です」
結菜の胸の奥で、何かがぱきりと音を立てた。
折れたのが心なのか、諦めなのか分からない。
三原は続ける。
「問題は、外です。週刊誌が嗅ぎつけています。真鍋という男です。ご存知でしょう」
結菜の背中が冷える。
真鍋。
あの目。あの声。あの“面白い”という言葉。
「記事が出る寸前です。——ただ、こちらも手は打てます」
三原は机の上に一枚の紙を置いた。
広報用の草案。
“交際”という言葉は使わず、“将来を見据えた良好な関係”と書いてある。
曖昧で、都合がいい。
「こちらから先に“示す”んです。縁談を隠すから、噂が勝手に形になる。こちらから形を出せば、相手はそれ以上書けない」
結菜は紙を見つめた。
紙の上の文字が、まるで自分の人生の取扱説明書みたいだった。
「……私は、そんな——」
言いかけて、止まる。
“そんな”の先に続く言葉が、全部感情だから。
感情を言ったら、負ける。
三原は結菜の沈黙を“承諾”と受け取るように頷いた。
「賢い判断です。社長もお喜びになる」
また、その言葉。
賢い。
従順だと褒める言葉。
結菜は紙をそっと押し返した。
「……検討します」
「ええ。早い方が良い。明日には“世間”が形を決めますから」
世間。
その言葉が、結菜の喉を締めた。
小会議室を出ると、廊下の空気がまた違って見えた。
どこかで誰かが笑っている。
その笑い声が、結菜には遠い。
エレベーターの前で、二人の社員が小声で話しているのが聞こえた。
「……やっぱり鷹宮家らしいよ」
「朝霧令嬢、良い縁談だよね。片岡の噂もあったけど……」
結菜の心臓が、ひゅっと鳴る。
片岡の噂。
拓真。
“お似合い”の噂。
自分だけが外される物語。
結菜は何も聞こえないふりをして、エレベーターに乗った。
一方、ホテル近くのカフェ。
真鍋はスマホを耳に当て、笑っていた。
「……いやぁ、もう固いっすよ。朝霧令嬢と鷹宮専務。会食、複数回。写真も押さえた。片岡御曹司が荒れてるのも、絵になる」
相手の笑い声が電話越しに聞こえる。
「タイトルはね、“令嬢の選択”。いいでしょ? お似合いは銀行令嬢、でも朝霧令嬢は商社御曹司へ——って」
真鍋は楽しそうだ。
人の人生が、紙面の材料に見える。
「……出すタイミング? 明後日。朝霧側が先に出すなら、こっちは“裏”を強める。出さないなら、こっちが先。どっちでも勝てる」
真鍋は電話を切り、コーヒーを一口飲んだ。
そして手元のタブレットに、結菜の写真を拡大する。
可愛らしい顔。栗色の巻き毛。
笑っているのに目が笑っていない。
「……いい顔するじゃん」
真鍋は小さく呟いた。
“壊れそうな令嬢”は、売れる。
朝霧本社。
社長室の前で、結菜は立ち止まった。
父に報告するべきか。
でも父は言うだろう。
「笑え。頷け。会社のためだ」と。
結菜は深呼吸し、扉をノックした。
「入れ」
父の声が、いつも通り冷たい。
結菜が入室すると、父は書類から目を上げずに言った。
「噂は聞いている。騒ぐな」
結菜の胸が沈む。
「……真鍋が動いています」
「なら先に形を出す。広報案は三原が持ってきただろう。お前は黙って頷け」
結菜は答えられなかった。
答えた瞬間に、涙が出そうだった。
だから、頷く。
「……はい」
父が満足そうに頷く。
「賢い娘だ」
結菜は笑った。
笑顔は、勝手に作れる。
でも胸の奥で、別の自分が泣いていた。
(拓真に、知られたら)
知られたら、また喧嘩になる。
喧嘩になったら、さらに噂が燃える。
噂が燃えたら、縁談が“確定”になる。
——もう、火はついている。
あとは誰が、風を送るかだけ
乾いた紙に落ちた灰みたいに、音もなく広がって、気づいた時には燃えている。
拓真と別れた夜から、結菜はほとんど眠れなかった。
眠れないのに、朝は来る。
朝が来れば、笑う。
笑えば、何もなかったことにできる——そう教わってきたから。
朝霧ホールディングスの役員フロアは、今日も静かだった。
静かなのに、空気がざわついている。
社員の目が、結菜の薬指を見ている気がした。
見ていないはずなのに、見られている。
結菜は廊下を歩きながら、指先を握りしめた。
栗色の巻き毛が肩で揺れる。
可愛らしい顔に、いつもの微笑み。
その微笑みが、今日はやけに重い。
「結菜さん」
取締役の三原が、角を曲がったところで待っていた。
偶然を装った立ち方。
偶然を装った笑顔。
「お忙しいところ、少し」
「今、資料確認が——」
「すぐ終わります。……良い知らせですから」
良い知らせ。
その言い方が、結菜の胸を冷やす。
三原は結菜を小会議室へ促した。
扉が閉まる。
空気が、密室の匂いになる。
「社内で、噂が動いています」
三原はそう言い、笑った。
笑っているのに目が冷たい。
噂を“資産”にする人間の目。
「鷹宮家との縁談。——これは、追い風です」
結菜の喉が、きゅっと締まる。
「追い風……?」
「ええ。市場は不安を嫌います。朝霧は今、狙われている。ですが縁談が見えれば、“後ろ盾”ができる。株価も、取引先の信用も、落ち着く」
言葉が正しい。
正しいから、結菜は反論できない。
反論すれば、“会社のため”に逆らう娘になる。
「まだ、決まっていません」
結菜は薄く言った。
事実だ。
けれど三原は、事実より“物語”を優先する。
「決まりますよ。決めるのが仕事です」
さらりと、残酷なことを言う。
「あなたは社長令嬢だ。令嬢の結婚は、会社の結婚です」
結菜の胸の奥で、何かがぱきりと音を立てた。
折れたのが心なのか、諦めなのか分からない。
三原は続ける。
「問題は、外です。週刊誌が嗅ぎつけています。真鍋という男です。ご存知でしょう」
結菜の背中が冷える。
真鍋。
あの目。あの声。あの“面白い”という言葉。
「記事が出る寸前です。——ただ、こちらも手は打てます」
三原は机の上に一枚の紙を置いた。
広報用の草案。
“交際”という言葉は使わず、“将来を見据えた良好な関係”と書いてある。
曖昧で、都合がいい。
「こちらから先に“示す”んです。縁談を隠すから、噂が勝手に形になる。こちらから形を出せば、相手はそれ以上書けない」
結菜は紙を見つめた。
紙の上の文字が、まるで自分の人生の取扱説明書みたいだった。
「……私は、そんな——」
言いかけて、止まる。
“そんな”の先に続く言葉が、全部感情だから。
感情を言ったら、負ける。
三原は結菜の沈黙を“承諾”と受け取るように頷いた。
「賢い判断です。社長もお喜びになる」
また、その言葉。
賢い。
従順だと褒める言葉。
結菜は紙をそっと押し返した。
「……検討します」
「ええ。早い方が良い。明日には“世間”が形を決めますから」
世間。
その言葉が、結菜の喉を締めた。
小会議室を出ると、廊下の空気がまた違って見えた。
どこかで誰かが笑っている。
その笑い声が、結菜には遠い。
エレベーターの前で、二人の社員が小声で話しているのが聞こえた。
「……やっぱり鷹宮家らしいよ」
「朝霧令嬢、良い縁談だよね。片岡の噂もあったけど……」
結菜の心臓が、ひゅっと鳴る。
片岡の噂。
拓真。
“お似合い”の噂。
自分だけが外される物語。
結菜は何も聞こえないふりをして、エレベーターに乗った。
一方、ホテル近くのカフェ。
真鍋はスマホを耳に当て、笑っていた。
「……いやぁ、もう固いっすよ。朝霧令嬢と鷹宮専務。会食、複数回。写真も押さえた。片岡御曹司が荒れてるのも、絵になる」
相手の笑い声が電話越しに聞こえる。
「タイトルはね、“令嬢の選択”。いいでしょ? お似合いは銀行令嬢、でも朝霧令嬢は商社御曹司へ——って」
真鍋は楽しそうだ。
人の人生が、紙面の材料に見える。
「……出すタイミング? 明後日。朝霧側が先に出すなら、こっちは“裏”を強める。出さないなら、こっちが先。どっちでも勝てる」
真鍋は電話を切り、コーヒーを一口飲んだ。
そして手元のタブレットに、結菜の写真を拡大する。
可愛らしい顔。栗色の巻き毛。
笑っているのに目が笑っていない。
「……いい顔するじゃん」
真鍋は小さく呟いた。
“壊れそうな令嬢”は、売れる。
朝霧本社。
社長室の前で、結菜は立ち止まった。
父に報告するべきか。
でも父は言うだろう。
「笑え。頷け。会社のためだ」と。
結菜は深呼吸し、扉をノックした。
「入れ」
父の声が、いつも通り冷たい。
結菜が入室すると、父は書類から目を上げずに言った。
「噂は聞いている。騒ぐな」
結菜の胸が沈む。
「……真鍋が動いています」
「なら先に形を出す。広報案は三原が持ってきただろう。お前は黙って頷け」
結菜は答えられなかった。
答えた瞬間に、涙が出そうだった。
だから、頷く。
「……はい」
父が満足そうに頷く。
「賢い娘だ」
結菜は笑った。
笑顔は、勝手に作れる。
でも胸の奥で、別の自分が泣いていた。
(拓真に、知られたら)
知られたら、また喧嘩になる。
喧嘩になったら、さらに噂が燃える。
噂が燃えたら、縁談が“確定”になる。
——もう、火はついている。
あとは誰が、風を送るかだけ

