本当はあなたに言いたかった

 ラウンジを出た瞬間、拓真の胸の中だけ温度が狂った。
 冷えているのに、熱い。
 凍っているのに、燃えている。

 結菜があの男の隣で笑っていた。
 整った微笑みで、綺麗に頷いていた。
 自分には投げる棘も、喧嘩も、何もくれないまま。

 ——俺は、外された。

 そんな馬鹿みたいな結論が、頭の中で暴れる。
 理屈じゃない。
 理屈を通すほど、余計に苦しくなる。

 拓真は、足を止めなかった。
 ホテルの廊下を曲がり、エレベーターホールへ向かう。
 背後から追いかけてくる気配がある。

「拓真!」

 結菜の声。
 その声が、心臓を強く叩いた。

 振り返らずに歩く。
 振り返ったら、顔に出てしまう。
 怒りも、痛みも、怖さも。

「待ってってば」

 結菜が追いつき、拓真の腕を掴んだ。
 その指先が細くて、温かい。
 それだけで胸が一瞬だけほどけそうになり、拓真はさらに苛立った。

 ——なんで今さら触る。
 ——触るなら、最初から言え。

 拓真は振りほどくように腕を引いた。

「触るな」

 言ってしまった。
 言ってから、結菜の瞳が一瞬だけ揺れるのが見えて、拓真は内心で自分を殴りたくなる。
 でも引き返せない。

「……触るなって、何」

 結菜の声が震える。
 震えた声は拓真の弱いところに刺さる。
 刺さるから、余計に強い言葉が出る。

「お前の方が先に触るなって顔してただろ」

「そんな顔してない」

「してた」

 拓真はエレベーターホールの脇、人気の少ない壁際へ結菜を引っ張った。
 誰もいない。
 だから言える。
 だから言ってしまう。

 結菜は息を整え、令嬢の笑顔を作ろうとする。
 その笑顔が、今夜のラウンジの笑顔と重なる。

 拓真の胸が冷たくなる。

「……何してた」

「会食のあと、少し話してただけ」

「誰と」

「鷹宮さんと」

 結菜が口にした名前に、拓真の心臓が冷える。
 分かっているのに、聞きたくなかった。

「……なんで黙ってた」

 拓真の声は低い。
 怒りより、痛みの方が近い声。

 結菜は一瞬だけ黙った。
 黙って、目を逸らす。

 その目逸らしが、拓真の誤解を確信に変える。

「……答えろよ」

 拓真が詰める。

「なんで、俺に言わなかった」

 結菜の喉が動く。
 言葉が詰まる。
 詰まったまま、結菜は笑った。

 ——またその笑い。
 逃げる笑い。

「言えるわけないでしょ」

 結菜の声が、ようやく刃になる。
 刃になっても、拓真を切るためじゃなく、自分を守るための刃。

「言えるわけない?」

 拓真は笑ってしまいそうになった。
 笑えない。笑ったら壊れる。

「……俺には、言えないってことか」

「違う」

「何が違う」

 拓真の声が荒くなる。
 自分の呼吸の音がうるさい。
 結菜も、息が浅い。

「違わないよ。だって——」

 結菜が言いかけて止まる。
 止まる。
 いつも止まる。
 その“止まる”が拓真を狂わせる。

「だって何だよ」

 拓真が一歩近づく。
 結菜が反射で一歩下がる。
 その距離が、拓真の中の恐怖を刺激する。

 (……逃げるな)

 逃げられるのが怖い。
 でも追い詰めるのも怖い。

 拓真は握りしめた拳をほどき、震える声で言った。

「お前、俺のこと……信用してないのか」

 結菜の目が揺れた。
 揺れて、痛そうに細くなる。

「信用してる」

「嘘つけ」

「嘘じゃない!」

 結菜が声を上げた。
 初めて、感情がはみ出した声。

 拓真の胸が、少しだけほどける。
 結菜の本音が出た。
 ——でも、次の瞬間。

「信用してるから、言えないの!」

 結菜の言葉が、拓真の胸を撃ち抜いた。

 信用してるから言えない。
 意味が分からなくて、拓真は息を飲む。

「……は?」

 結菜は唇を噛んだ。
 言ってしまった、と顔に出る。
 出た瞬間、結菜はまた令嬢の顔に戻ろうとする。
 戻るな、と拓真の心が叫ぶ。

「結菜、今のどういう意味だ」

「……忘れて」

「忘れられるわけねぇだろ」

 拓真の声が低くなる。
 怒りじゃない。必死だ。

 結菜は視線を逸らし、指先を握りしめた。
 薬指を庇うように。
 その仕草が、拓真の中でまた誤解を育てる。

(薬指……指輪……もう決まってる?)

 拓真の胸が凍る。
 恐怖が、怒りの形を借りて溢れる。

「……お前、もう決めたのか」

 結菜が目を見開く。

「何を」

「鷹宮と」

 言ってしまった瞬間、結菜の顔色が変わった。
 変わったのが、拓真には“肯定”に見えてしまう。

「違う!」

 結菜が否定する。
 否定するのに、言葉が続かない。
 続かないから、拓真は信じられない。

「違うなら、なんで俺に言わねぇ」

「言ったら——」

 結菜が言いかけて、止まる。
 また止まる。
 また逃げる。

 拓真は、耐えられなくなって言った。

「言ったら何だよ。俺が邪魔か? 俺が動くのが困るのか?」

 結菜の目が潤む。
 潤むのに泣かない。泣けない。
 その我慢が、拓真をさらに追い詰める。

「困るよ……!」

 結菜が、かすれた声で言った。

「あなたが動いたら、全部壊れる」

 拓真の呼吸が止まった。

 全部。
 何が全部だ。
 朝霧? 片岡? 鷹宮?
 結菜の人生?

 拓真は、ようやく分かり始める。
 結菜は自分を守ろうとして黙っているんじゃない。
 拓真を——守ろうとしている。

 その事実が、嬉しいより先に怖い。

「……俺を守るなよ」

 拓真の声が震える。
 結菜は泣きそうな顔で笑った。

「守ってない。……守れないよ。私には」

 言葉が刃になる。
 刃が、お互いを切る。

 拓真は結菜の肩に手を伸ばしかけて、止めた。
 触れたら、今度こそ結菜が崩れる気がした。

 結菜が小さく言う。

「ごめん。……でも、お願い。今は、これ以上——」

 今は。
 また今は。
 拓真の胸がまた冷える。

 拓真は吐き捨てるように言った。

「……俺は、いつならいいんだよ」

 結菜は答えられない。
 答えたら、未来を約束してしまう。
 約束できないから、黙る。

 その沈黙が、拓真の中の誤解をまだ完全には消さない。

 (結菜は、結菜で追い詰められてる)
 (でも俺は、外されたままなのかもしれない)

 拓真は歯を食いしばり、最後に言った。

「……もういい。好きにしろ」

 最悪の言葉。
 本当は好きにしてほしくないのに。
 止めたいのに。
 抱きしめたいのに。

 結菜の肩が、微かに揺れた。
 揺れたのに、結菜は笑って頷いた。

「うん。……そうする」

 その頷きが、拓真の心臓を冷たくした。

 拓真は背を向けた。
 背を向けながら、胸の奥で叫ぶ。

 (なんでだよ。なんで、こんなに近いのに)

 結菜はその背中に、言えない言葉を投げた。

 ——本当は、あなたに言いたい。
 ——でも、言ったらあなたが壊れる。
 ——壊れるくらいなら、私が壊れる。

 言葉は届かない。
 届かないまま、二人の喧嘩は“怒り”の形をして、深い傷を残した。