ホテルのラウンジは、夜の光を静かに飲み込んでいた。
磨かれた大理石の床に、シャンデリアの煌めきが淡く映り、ピアノの音が遠くで呼吸する。
ここにいる人間は皆、声を大きくしない。
大きくしない代わりに、視線が雄弁だ。
拓真は、その視線の中を歩いていた。
片岡家の会食を抜けたあと、黒崎に止められてもなお——胸の奥の熱が冷めなかった。
父に言えない。
母にも言えない。
結菜の名前を、片岡家の“道具”にしたくない。
だから拓真は、別の理由を作った。
“取引先への挨拶”
“ホテルでの偶然の顔合わせ”
そういう大人の言い訳を纏って、ここに来た。
(……結菜、どこだ)
いるかどうかも分からない。
分からないのに、足が勝手に動く。
自分が滑稽だと分かっているのに、止められない。
ふと、ラウンジの奥。
窓際の席に、二つの影が並ぶのが見えた。
——見覚えのある栗色。
拓真の心臓が、きゅっと縮んだ。
結菜がいた。
ミルクティー色のワンピース。
栗色の巻き毛は、今日はゆるく落ちていて、照明の下で柔らかく光る。
可愛らしい顔立ちに、作られた微笑み。
でも——目が笑っていない。
その隣に座る男が、ゆっくりとグラスを傾けた。
鷹宮恒一。
丁寧な所作。穏やかな笑み。
結菜の前でだけ、声を少し落としているのが分かる。
拓真は、足を止めた。
止めた瞬間、世界が冷えた。
(……何だよ、これ)
偶然。
偶然のラウンジ。
偶然の隣。
そう言い聞かせようとして、できない。
結菜が鷹宮に向かって微笑む。
その微笑みは、拓真に向ける棘だらけの笑いとは違う。
穏やかで、綺麗で、整っていて——
まるで、最初からそこに“収まるべき席”みたいだった。
拓真の喉が、焼ける。
呼吸が浅くなる。
胸の奥で、何かが音を立てて崩れる。
——結菜は、俺に言わなかった。
——言わなかったのに、鷹宮の隣には座っている。
脳が勝手に結論を作る。
(……選んだのか)
結菜が。
鷹宮を。
朝霧のために。
——俺じゃない方を。
理屈では分かっている。
結菜は、選べる立場じゃない。
でも拓真の心は、そんな理屈を拒んだ。
「言えない」の裏には、「言いたくない」がある。
拓真の中で、最悪の誤解が形を持つ。
拓真は気づけば、ラウンジの中央を歩き出していた。
足音が響かないように絨毯が敷かれているのに、拓真には自分の靴音がうるさく聞こえる。
誰かが気づく。
気づかれてもいい。
今は、結菜だけを見ている。
結菜はまだ拓真に気づかない。
鷹宮が何かを言い、結菜が頷く。
頷く。
頷く。
——乾杯の頷きと同じ。
その頷きが、拓真には“受け入れ”に見えてしまう。
そしてその瞬間、鷹宮が結菜の手元に視線を落とし、微かに笑った。
結菜が恥ずかしそうに手を引く。
それが“親しさ”に見えて、拓真の胸が裂けた。
(触るな)
言葉にならない怒りが、喉の奥で暴れる。
拓真が近づく気配に、まず鷹宮が顔を上げた。
次に結菜が、遅れて拓真を見る。
結菜の瞳が大きく見開かれる。
その驚きが、拓真の誤解をさらに膨らませた。
(驚く? 俺が来たら困るのか)
困るから、言わなかったのか。
困るから、隠したのか。
困るから——俺を外したのか。
拓真の口が勝手に動く。
「……何してんだよ」
声が低い。
抑えたつもりなのに、怒りと痛みが混ざって震えている。
結菜が立ち上がりかけて、止まった。
立ち上がらないのは、逃げられないからか、ここが社交の場だからか。
「拓真……」
名前を呼ぶ声が小さい。
言い訳みたいに聞こえて、拓真の胸がさらに痛む。
鷹宮が穏やかに立ち上がり、一礼した。
「片岡様。偶然お会いできて光栄です。鷹宮恒一です」
完璧な挨拶。
完璧な笑顔。
拓真の神経を逆撫でするには十分だった。
「知ってる」
拓真は短く言い捨てた。
鷹宮の眉が僅かに動く。
でも笑みは崩れない。
「結菜さんとは、少しお話を。お父上にご挨拶する前に——」
その言い方が、“結菜は自分の側の人間”と言っているみたいで、拓真の視界が一瞬白くなる。
「話?」
拓真が結菜を見る。
結菜は目を逸らした。
逸らした瞬間、拓真の誤解は確信に変わる。
(やっぱり、言えないんじゃない。言わないんだ)
拓真の胸の奥が、冷たく凍った。
「……朝霧」
苗字で呼ぶ声が、きつくなる。
「俺に言うこと、あるだろ」
結菜の喉が動く。
言葉が出ない。
出せない。
出せないことを、拓真は知らない。
鷹宮が、柔らかく口を挟む。
「ここは人目があります。よろしければ、別の場所で——」
「黙ってろ」
拓真の声が鋭くなる。
ラウンジの空気が一瞬止まり、遠くの会話が薄くなる。
結菜が小さく震えた。
震えたことが、拓真の怒りをさらに煽る。
(俺の前で、他の男に守られるな)
そんな幼稚な感情が、胸の底から湧く。
拓真は自分が最低だと分かっている。
分かっているのに、止められない。
結菜が必死に笑顔を作った。
その笑顔が、“令嬢の顔”だと拓真は気づかない。
気づけない。
「……ここで、そんな言い方しないで」
結菜の声は小さく、丁寧だ。
丁寧だから、拓真には遠い。
「言い方? じゃあどう言えばいい」
拓真の声が、少しだけ割れた。
「お前が、俺に隠してたことを、どう言えばいい」
結菜の目が揺れる。
揺れて、また逸れる。
その逸れた視線の先に——鷹宮がいることが、拓真には耐えられなかった。
拓真は一歩近づき、結菜の手首に触れそうになって、直前で止めた。
触れたら、ここで全部が噂になる。
噂になれば、結菜がもっと縛られる。
分かっているのに、止められない衝動だけが前に出る。
鷹宮が静かに言った。
「片岡様。結菜さんは——」
「お前に結菜の何が分かる」
拓真は吐き捨てた。
その言葉が、自分自身にも刺さる。
——俺だって分かっていない。
結菜が何を抱えているのか。
何を怖がっているのか。
分からないまま、怒っている。
結菜が、やっと言葉を絞り出す。
「……お願い。今は」
今は。
今は、という逃げ道。
それが拓真の心臓を殴る。
“今は”が終わったら、結菜は鷹宮のものになるのか。
そんな馬鹿な誤解が、拓真の中で黒く育つ。
「……分かった」
拓真は低く言った。
分かった、の意味は自分でも分からない。
ただ、胸が冷たくて、痛くて、呼吸が苦しい。
結菜の隣に、鷹宮が立っている。
その“絵”が、拓真の目に焼き付く。
偶然のはずなのに、
偶然ではない“未来”が、そこにある気がした。
拓真は、笑ってしまいそうになった。
笑ったら壊れるから、唇を噛む。
そして心の中で、最悪の結論が芽を出す。
(……俺は、もういらないのか)
その誤解が、次の章で“怒りの喧嘩”へ繋がっていく。

