夕暮れの空は、綺麗すぎて残酷だった。
窓の外、街はいつも通りに光り始め、誰もが「今日」を終わらせようとしている。
結菜だけが、終わらせられないまま次の“正解”へ運ばれていく。
朝霧家の車が、静かに門を出た。
車内には、父の気配と、無言の圧だけがあった。
「……今日の席では、余計なことを言うな」
父が、前を向いたまま言う。
声は低く、感情がない。
結菜の人生を指示する声に、いつも温度はない。
「はい」
結菜は頷いた。
頷くことが、身体に染みついている。
ミルクティー色のワンピースは、きちんと“良い娘”を作ってくれる。
栗色の巻き毛は、柔らかくまとめられた。
可愛らしい顔立ちが、悲しさを隠すのにちょうどいい。
(こんな顔じゃなかったら、逃げられたのかな)
そんな考えが浮かんで、結菜は自分を叱った。
逃げない。
逃げない、じゃない。
逃げられない。
父が続ける。
「鷹宮家は今日で大枠を固めたい。……お前が余計な感情を見せれば、話が長引く」
「分かってます」
「分かっているなら、笑え」
笑え。
その一言が、結菜の喉を締めた。
結菜は、口角を上げる練習をした。
鏡がなくても分かる。
令嬢は、笑う角度まで教育される。
車がホテルの車寄せに止まり、ドアが開く。
結菜は外の空気に触れた瞬間、胸の奥が冷えるのを感じた。
名門ホテルのロビーは、光と香りで満ちている。
ここでは、誰もが“正しい”ふりをしている。
結菜も、その一人に過ぎない。
父の後ろを歩きながら、結菜は一瞬だけスマホに触れた。
通知は来ていない。
来ていたら怖いのに、来ていないのがさらに怖い。
——拓真は今、何をしているのだろう。
結菜がその名前を心の中で呼んだ瞬間、胸が痛んだ。
一方で、拓真は片岡グループの会議室にいた。
窓の外が暗くなるのを、苛立ちと一緒に眺めている。
陽菜の「縁談の資料、見ちゃった」という一言が、まだ耳に残る。
鷹宮家。朝霧家。結菜。
全部が繋がったのに、拓真は動けない。
黒崎が淡々と告げた。
「拓真様、本日の夜は片岡家側の会食が入っております。キャンセルは——」
「無理だろ」
「はい。総帥が出席されます」
父が出る。
この席を抜ければ、“当主候補”としての立場が揺らぐ。
揺らげば、結菜の話に口出しできる力すら失う。
(クソ……)
拓真は机の角を指で叩き、呼吸を整えた。
守りたい衝動が、身体の中で暴れている。
なのに、動けない。
陽菜が小さく言った。
「拓真くん……今、動いたら、結菜ちゃんが一番困る」
「分かってる」
分かっている。
分かっているから苦しい。
「でも、放っておいたら……」
陽菜は言葉を濁した。
放っておいたら、結菜が壊れる。
あるいは、結菜が誰かのものになる。
拓真は拳を握りしめた。
「……俺が、間に合わなかったらどうすんだよ」
その声が、初めて“弱音”に近かった。
陽菜は一瞬だけ目を伏せ、言った。
「間に合うよ。……間に合わせよう」
陽菜の言葉は優しい。
優しいのに、胸が痛い。
陽菜が味方でいるほど、陽菜は“お似合い”の席に固定される。
それが拓真には苦しい。
結菜は、ホテルの個室フロアへ案内されていた。
廊下の絨毯は音を吸い、すれ違う人々の香りだけが残る。
どこまでも静かで、どこまでも逃げ場がない。
扉の前で、父が言った。
「覚えているな。笑え。頷け。余計なことは言うな」
「はい」
結菜は、また頷いた。
頷きすぎて、自分が何に頷いているのか分からなくなる。
扉が開く。
中には鷹宮恒一と、鷹宮家の関係者。
笑顔。礼儀。乾杯。
完璧な“前向きな席”。
「結菜さん。お会いできて嬉しいです」
鷹宮が微笑む。
丁寧すぎる笑み。
“感情を使わない優しさ”。
「こちらこそ」
結菜も笑う。
笑い方を間違えないように。
席が進むにつれ、会話は自然に“未来”へ向かう。
結婚後の住まい、発表の時期、家の関係、会社の動き。
誰も「結菜はどうしたい?」とは聞かない。
聞かなくても結菜は頷く、と知っているから。
結菜の薬指が、無意識に隠れる。
あの計測痕が、皮膚の下でまだ残っている気がする。
(……終わっていく)
自分の意思とは関係なく、人生が整えられていく。
テーブルの向こうで鷹宮がグラスを持ち上げた。
「今夜を機に、良い関係を築いていければと思います。結菜さん、よろしくお願いいたします」
よろしく。
それは“これからよろしく”というより、
“これから決まっている”という宣言に聞こえた。
結菜は笑って、頷いた。
——頷くしかないから。
その瞬間、胸の奥で小さな声が泣いた。
(拓真、助けて)
でも声にはならない。
声にしたら、全部壊れるから。
結菜は微笑みのまま、グラスを持ち上げた。
「こちらこそ。よろしくお願いいたします」
乾杯の音が鳴る。
澄んだ音。綺麗な音。
その音が、結菜には鎖の音に聞こえた。
同じ頃、拓真は片岡家の会食の席で、ほとんど味のしない食事を口に運んでいた。
父が、淡々と語る。
「鷹宮と朝霧が組む。西園寺も動く。——お前はどこに立つ?」
拓真は答えない。
答えたら、結菜の名前が道具として使われる。
父が続ける。
「お前の隣は西園寺が最適だ。感情で選ぶな。片岡の名を使え」
拓真の喉が焼ける。
守りたい衝動が、胸の奥で暴れる。
でも、この席では動けない。
拓真はグラスを置き、低く言った。
「……俺は、使わない。俺の隣を、勝手に決めるな」
父が目を細める。
「なら、証明しろ。お前が何を守るのか」
拓真は答えられない。
守るものの名前を言えない。
言えば、壊れるから。
拓真は心の中でだけ、結菜の名前を呼んだ。
(結菜……)
間に合ってくれ。
壊れる前に。
誰かの“正解”になる前に。
——でもその夜、結菜は“令嬢の顔”で頷き続けた。
頷くほど、拓真との距離が遠くなるのを知りながら。
窓の外、街はいつも通りに光り始め、誰もが「今日」を終わらせようとしている。
結菜だけが、終わらせられないまま次の“正解”へ運ばれていく。
朝霧家の車が、静かに門を出た。
車内には、父の気配と、無言の圧だけがあった。
「……今日の席では、余計なことを言うな」
父が、前を向いたまま言う。
声は低く、感情がない。
結菜の人生を指示する声に、いつも温度はない。
「はい」
結菜は頷いた。
頷くことが、身体に染みついている。
ミルクティー色のワンピースは、きちんと“良い娘”を作ってくれる。
栗色の巻き毛は、柔らかくまとめられた。
可愛らしい顔立ちが、悲しさを隠すのにちょうどいい。
(こんな顔じゃなかったら、逃げられたのかな)
そんな考えが浮かんで、結菜は自分を叱った。
逃げない。
逃げない、じゃない。
逃げられない。
父が続ける。
「鷹宮家は今日で大枠を固めたい。……お前が余計な感情を見せれば、話が長引く」
「分かってます」
「分かっているなら、笑え」
笑え。
その一言が、結菜の喉を締めた。
結菜は、口角を上げる練習をした。
鏡がなくても分かる。
令嬢は、笑う角度まで教育される。
車がホテルの車寄せに止まり、ドアが開く。
結菜は外の空気に触れた瞬間、胸の奥が冷えるのを感じた。
名門ホテルのロビーは、光と香りで満ちている。
ここでは、誰もが“正しい”ふりをしている。
結菜も、その一人に過ぎない。
父の後ろを歩きながら、結菜は一瞬だけスマホに触れた。
通知は来ていない。
来ていたら怖いのに、来ていないのがさらに怖い。
——拓真は今、何をしているのだろう。
結菜がその名前を心の中で呼んだ瞬間、胸が痛んだ。
一方で、拓真は片岡グループの会議室にいた。
窓の外が暗くなるのを、苛立ちと一緒に眺めている。
陽菜の「縁談の資料、見ちゃった」という一言が、まだ耳に残る。
鷹宮家。朝霧家。結菜。
全部が繋がったのに、拓真は動けない。
黒崎が淡々と告げた。
「拓真様、本日の夜は片岡家側の会食が入っております。キャンセルは——」
「無理だろ」
「はい。総帥が出席されます」
父が出る。
この席を抜ければ、“当主候補”としての立場が揺らぐ。
揺らげば、結菜の話に口出しできる力すら失う。
(クソ……)
拓真は机の角を指で叩き、呼吸を整えた。
守りたい衝動が、身体の中で暴れている。
なのに、動けない。
陽菜が小さく言った。
「拓真くん……今、動いたら、結菜ちゃんが一番困る」
「分かってる」
分かっている。
分かっているから苦しい。
「でも、放っておいたら……」
陽菜は言葉を濁した。
放っておいたら、結菜が壊れる。
あるいは、結菜が誰かのものになる。
拓真は拳を握りしめた。
「……俺が、間に合わなかったらどうすんだよ」
その声が、初めて“弱音”に近かった。
陽菜は一瞬だけ目を伏せ、言った。
「間に合うよ。……間に合わせよう」
陽菜の言葉は優しい。
優しいのに、胸が痛い。
陽菜が味方でいるほど、陽菜は“お似合い”の席に固定される。
それが拓真には苦しい。
結菜は、ホテルの個室フロアへ案内されていた。
廊下の絨毯は音を吸い、すれ違う人々の香りだけが残る。
どこまでも静かで、どこまでも逃げ場がない。
扉の前で、父が言った。
「覚えているな。笑え。頷け。余計なことは言うな」
「はい」
結菜は、また頷いた。
頷きすぎて、自分が何に頷いているのか分からなくなる。
扉が開く。
中には鷹宮恒一と、鷹宮家の関係者。
笑顔。礼儀。乾杯。
完璧な“前向きな席”。
「結菜さん。お会いできて嬉しいです」
鷹宮が微笑む。
丁寧すぎる笑み。
“感情を使わない優しさ”。
「こちらこそ」
結菜も笑う。
笑い方を間違えないように。
席が進むにつれ、会話は自然に“未来”へ向かう。
結婚後の住まい、発表の時期、家の関係、会社の動き。
誰も「結菜はどうしたい?」とは聞かない。
聞かなくても結菜は頷く、と知っているから。
結菜の薬指が、無意識に隠れる。
あの計測痕が、皮膚の下でまだ残っている気がする。
(……終わっていく)
自分の意思とは関係なく、人生が整えられていく。
テーブルの向こうで鷹宮がグラスを持ち上げた。
「今夜を機に、良い関係を築いていければと思います。結菜さん、よろしくお願いいたします」
よろしく。
それは“これからよろしく”というより、
“これから決まっている”という宣言に聞こえた。
結菜は笑って、頷いた。
——頷くしかないから。
その瞬間、胸の奥で小さな声が泣いた。
(拓真、助けて)
でも声にはならない。
声にしたら、全部壊れるから。
結菜は微笑みのまま、グラスを持ち上げた。
「こちらこそ。よろしくお願いいたします」
乾杯の音が鳴る。
澄んだ音。綺麗な音。
その音が、結菜には鎖の音に聞こえた。
同じ頃、拓真は片岡家の会食の席で、ほとんど味のしない食事を口に運んでいた。
父が、淡々と語る。
「鷹宮と朝霧が組む。西園寺も動く。——お前はどこに立つ?」
拓真は答えない。
答えたら、結菜の名前が道具として使われる。
父が続ける。
「お前の隣は西園寺が最適だ。感情で選ぶな。片岡の名を使え」
拓真の喉が焼ける。
守りたい衝動が、胸の奥で暴れる。
でも、この席では動けない。
拓真はグラスを置き、低く言った。
「……俺は、使わない。俺の隣を、勝手に決めるな」
父が目を細める。
「なら、証明しろ。お前が何を守るのか」
拓真は答えられない。
守るものの名前を言えない。
言えば、壊れるから。
拓真は心の中でだけ、結菜の名前を呼んだ。
(結菜……)
間に合ってくれ。
壊れる前に。
誰かの“正解”になる前に。
——でもその夜、結菜は“令嬢の顔”で頷き続けた。
頷くほど、拓真との距離が遠くなるのを知りながら。

