拓真は、自分が“追っている”ことに気づいていた。
朝霧本社のフロアを歩く結菜の背中を、視線で追う。
予定表の空白を探るように、彼女の足取りを読む。
——気持ち悪い。
自分でそう思うのに、止められない。
結菜は最近、逃げ方が上手くなった。
言い返さない。笑う。距離を取る。
喧嘩が成立しない。
それが一番、拓真を苛立たせた。
(何だよ、それ)
喧嘩は、ただの喧嘩じゃない。
拓真にとって結菜は、唯一“本音をぶつけても壊れない”相手だった。
壊れないと思っていた。
なのに今は、壊れそうな顔をする。
黒崎が、廊下の角で拓真に近づいた。
「拓真様。西園寺様からご伝言です。——“あまり追い詰めないで”と」
「……余計なお世話だ」
そう言いながら、拓真はその言葉が胸に刺さるのを否定できなかった。
追い詰めているのは、拓真じゃない。
でも拓真は、結菜が追い詰められていることを見ていられない。
だから——自分が盾になる。
そういう衝動が、勝手に身体を動かす。
その日、結菜は外部との打ち合わせがあると言っていた。
玲子秘書とエントランスに現れた結菜は、淡い色のブラウスにタイトスカート。
可愛らしい顔に、完璧な笑顔。
でも、目が笑っていない。
拓真は、気づけば足を動かしていた。
エントランスの前で、結菜の進路に立つ。
「どこ行く」
結菜の笑顔が、一瞬だけ固まった。
「打ち合わせ」
「誰と」
「仕事の相手」
また、その嘘。
拓真の腹の底に苛立ちが溜まる。
「俺も行く」
結菜が目を見開いた。
「は?」
「同席する」
「しないで」
即答。
拒絶が、きっぱりすぎて痛い。
「……何でだよ」
「必要ないから」
「必要かどうかは俺が決める」
「決めないで」
結菜の声が鋭くなる。
周囲の受付が視線を逸らす。
社内の空気が“噂”に変わるのを、拓真は感じた。
結菜は玲子に小声で言う。
「先に車、回して」
「承知しました」
玲子が動く。
拓真は結菜の腕を掴みかけて、止めた。
触れたら、噂になる。
触れなくても、噂になる。
拓真は声を落とした。
「……お前、最近、俺のこと避けてる」
「避けてない」
「避けてる」
「片岡さん」
その呼び方。
拓真の胸が、鈍く痛む。
「……その呼び方やめろ」
「会社だから」
「会社でも、昔みたいに——」
「昔みたいにできないの」
結菜が、ぽつりと言った。
その言葉は、怒りじゃない。
諦めみたいな声だった。
拓真の苛立ちが、一気に恐怖へ変わる。
「……何があった」
「何もない」
「嘘」
「嘘じゃない」
結菜は笑う。
笑って、背筋を伸ばす。
可憐な令嬢の形に戻る。
「仕事に戻って。片岡さんも忙しいでしょ」
追い返す。
優しく追い返す。
優しさが、拓真を余計に苛立たせる。
「忙しいのはお前だろ。……誰と会ってんだ」
結菜の薬指が、反射で隠れる。
その反射を、拓真は見逃さない。
「……手、また隠した」
結菜は一瞬だけ顔を歪めて、すぐに笑った。
「気のせい」
「気のせいじゃねぇ」
拓真が一歩近づく。
結菜が一歩下がる。
その距離が、拓真を狂わせる。
「お前、俺に触られたくないのか」
言ってから、拓真は自分で自分を殴りたくなった。
そんなこと、聞きたくない。
答えも聞きたくない。
結菜の目が揺れた。
揺れたのに、結菜は言った。
「……今は、やめて」
今は。
今は、という逃げ道。
でも拓真にはそれが、“もう無理”に聞こえる。
その時、ロビーの向こうから声がした。
「拓真くん!」
陽菜だった。
銀行の書類袋を抱え、急いで近づいてくる。
息が切れている。珍しい。
陽菜は結菜を見て、すぐに状況を察した。
そして拓真の袖を軽く引く。
「……拓真くん、ここじゃない」
「陽菜、関係ない」
「関係あるよ。結菜ちゃん、今——」
陽菜が言いかけて止めた。
止めた瞬間、拓真の胸がざわつく。
陽菜は何かを知っている?
結菜の“忙しい”の正体を?
拓真が陽菜を睨む。
「……お前、何か知ってんのか」
陽菜は答えない。答えられない顔をした。
その顔が、拓真の中の苛立ちに火をつける。
「結菜。誰と会う。言え」
命令口調が出る。
出た瞬間、結菜の顔が白くなった。
結菜は、笑った。
笑ってしまう。
可愛らしい顔で、悲しい笑い。
「……あなた、私の上司じゃない」
その言葉が、拓真の胸を刺した。
結菜は一歩引いて、頭を下げた。
「失礼します」
そして、去ろうとした。
拓真は咄嗟に、その前に立った。
護衛みたいに。
通せない、と言うみたいに。
「行かせねぇ」
言ってしまった。
言った瞬間、空気が凍る。
結菜の目が大きく見開かれた。
栗色の巻き毛が揺れ、頬が僅かに赤くなる。
怒りと、恐怖と、哀しみが混ざった顔。
「……やめて」
結菜の声が震える。
震えた声が、拓真の理性を削る。
「やめない。お前が壊れそうなのに、放っておけるかよ」
拓真の声は低くて、必死だった。
周囲の人間の視線なんて、もうどうでもよかった。
結菜は、泣きそうな目で笑った。
「壊れるのは……あなたが、巻き込まれるからでしょ」
拓真の背筋が冷たくなる。
巻き込まれる。
結菜は、拓真を守ろうとしている。
だから言えない。
だから逃げる。
その事実が、拓真の胸を締めつけた。
結菜は拓真を見上げ、最後に小さく言った。
「……私のこと、守らないで」
守らないで。
その言葉が、拓真の心臓を殴る。
結菜は拓真の横をすり抜け、車へ向かった。
玲子がドアを開け、結菜を乗せる。
車が静かに走り出す。
拓真はその場に立ち尽くした。
拳が震える。
苛立ちが、恐怖に変わって、胸を焼く。
陽菜が隣で、声を落として言った。
「拓真くん……ごめん。私、見ちゃった」
拓真が陽菜を見る。
「……何を」
陽菜は唇を噛み、言葉を選ぶ。
「結菜ちゃんの……縁談の資料。鷹宮家の」
拓真の世界が、一瞬で冷えた。
——やっぱり。
——結菜は、見合いをしている。
拓真は呼吸を忘れ、低く呟いた。
「……だから、あいつ」
苛立ちの正体が、やっと形になった。
でも形になった瞬間、拓真は気づく。
守りたい。
守りたいのに、動けば壊す。
動かなければ、失う。
その間で、拓真の心が乱れる。
朝霧本社のフロアを歩く結菜の背中を、視線で追う。
予定表の空白を探るように、彼女の足取りを読む。
——気持ち悪い。
自分でそう思うのに、止められない。
結菜は最近、逃げ方が上手くなった。
言い返さない。笑う。距離を取る。
喧嘩が成立しない。
それが一番、拓真を苛立たせた。
(何だよ、それ)
喧嘩は、ただの喧嘩じゃない。
拓真にとって結菜は、唯一“本音をぶつけても壊れない”相手だった。
壊れないと思っていた。
なのに今は、壊れそうな顔をする。
黒崎が、廊下の角で拓真に近づいた。
「拓真様。西園寺様からご伝言です。——“あまり追い詰めないで”と」
「……余計なお世話だ」
そう言いながら、拓真はその言葉が胸に刺さるのを否定できなかった。
追い詰めているのは、拓真じゃない。
でも拓真は、結菜が追い詰められていることを見ていられない。
だから——自分が盾になる。
そういう衝動が、勝手に身体を動かす。
その日、結菜は外部との打ち合わせがあると言っていた。
玲子秘書とエントランスに現れた結菜は、淡い色のブラウスにタイトスカート。
可愛らしい顔に、完璧な笑顔。
でも、目が笑っていない。
拓真は、気づけば足を動かしていた。
エントランスの前で、結菜の進路に立つ。
「どこ行く」
結菜の笑顔が、一瞬だけ固まった。
「打ち合わせ」
「誰と」
「仕事の相手」
また、その嘘。
拓真の腹の底に苛立ちが溜まる。
「俺も行く」
結菜が目を見開いた。
「は?」
「同席する」
「しないで」
即答。
拒絶が、きっぱりすぎて痛い。
「……何でだよ」
「必要ないから」
「必要かどうかは俺が決める」
「決めないで」
結菜の声が鋭くなる。
周囲の受付が視線を逸らす。
社内の空気が“噂”に変わるのを、拓真は感じた。
結菜は玲子に小声で言う。
「先に車、回して」
「承知しました」
玲子が動く。
拓真は結菜の腕を掴みかけて、止めた。
触れたら、噂になる。
触れなくても、噂になる。
拓真は声を落とした。
「……お前、最近、俺のこと避けてる」
「避けてない」
「避けてる」
「片岡さん」
その呼び方。
拓真の胸が、鈍く痛む。
「……その呼び方やめろ」
「会社だから」
「会社でも、昔みたいに——」
「昔みたいにできないの」
結菜が、ぽつりと言った。
その言葉は、怒りじゃない。
諦めみたいな声だった。
拓真の苛立ちが、一気に恐怖へ変わる。
「……何があった」
「何もない」
「嘘」
「嘘じゃない」
結菜は笑う。
笑って、背筋を伸ばす。
可憐な令嬢の形に戻る。
「仕事に戻って。片岡さんも忙しいでしょ」
追い返す。
優しく追い返す。
優しさが、拓真を余計に苛立たせる。
「忙しいのはお前だろ。……誰と会ってんだ」
結菜の薬指が、反射で隠れる。
その反射を、拓真は見逃さない。
「……手、また隠した」
結菜は一瞬だけ顔を歪めて、すぐに笑った。
「気のせい」
「気のせいじゃねぇ」
拓真が一歩近づく。
結菜が一歩下がる。
その距離が、拓真を狂わせる。
「お前、俺に触られたくないのか」
言ってから、拓真は自分で自分を殴りたくなった。
そんなこと、聞きたくない。
答えも聞きたくない。
結菜の目が揺れた。
揺れたのに、結菜は言った。
「……今は、やめて」
今は。
今は、という逃げ道。
でも拓真にはそれが、“もう無理”に聞こえる。
その時、ロビーの向こうから声がした。
「拓真くん!」
陽菜だった。
銀行の書類袋を抱え、急いで近づいてくる。
息が切れている。珍しい。
陽菜は結菜を見て、すぐに状況を察した。
そして拓真の袖を軽く引く。
「……拓真くん、ここじゃない」
「陽菜、関係ない」
「関係あるよ。結菜ちゃん、今——」
陽菜が言いかけて止めた。
止めた瞬間、拓真の胸がざわつく。
陽菜は何かを知っている?
結菜の“忙しい”の正体を?
拓真が陽菜を睨む。
「……お前、何か知ってんのか」
陽菜は答えない。答えられない顔をした。
その顔が、拓真の中の苛立ちに火をつける。
「結菜。誰と会う。言え」
命令口調が出る。
出た瞬間、結菜の顔が白くなった。
結菜は、笑った。
笑ってしまう。
可愛らしい顔で、悲しい笑い。
「……あなた、私の上司じゃない」
その言葉が、拓真の胸を刺した。
結菜は一歩引いて、頭を下げた。
「失礼します」
そして、去ろうとした。
拓真は咄嗟に、その前に立った。
護衛みたいに。
通せない、と言うみたいに。
「行かせねぇ」
言ってしまった。
言った瞬間、空気が凍る。
結菜の目が大きく見開かれた。
栗色の巻き毛が揺れ、頬が僅かに赤くなる。
怒りと、恐怖と、哀しみが混ざった顔。
「……やめて」
結菜の声が震える。
震えた声が、拓真の理性を削る。
「やめない。お前が壊れそうなのに、放っておけるかよ」
拓真の声は低くて、必死だった。
周囲の人間の視線なんて、もうどうでもよかった。
結菜は、泣きそうな目で笑った。
「壊れるのは……あなたが、巻き込まれるからでしょ」
拓真の背筋が冷たくなる。
巻き込まれる。
結菜は、拓真を守ろうとしている。
だから言えない。
だから逃げる。
その事実が、拓真の胸を締めつけた。
結菜は拓真を見上げ、最後に小さく言った。
「……私のこと、守らないで」
守らないで。
その言葉が、拓真の心臓を殴る。
結菜は拓真の横をすり抜け、車へ向かった。
玲子がドアを開け、結菜を乗せる。
車が静かに走り出す。
拓真はその場に立ち尽くした。
拳が震える。
苛立ちが、恐怖に変わって、胸を焼く。
陽菜が隣で、声を落として言った。
「拓真くん……ごめん。私、見ちゃった」
拓真が陽菜を見る。
「……何を」
陽菜は唇を噛み、言葉を選ぶ。
「結菜ちゃんの……縁談の資料。鷹宮家の」
拓真の世界が、一瞬で冷えた。
——やっぱり。
——結菜は、見合いをしている。
拓真は呼吸を忘れ、低く呟いた。
「……だから、あいつ」
苛立ちの正体が、やっと形になった。
でも形になった瞬間、拓真は気づく。
守りたい。
守りたいのに、動けば壊す。
動かなければ、失う。
その間で、拓真の心が乱れる。

