西園寺銀行の本店フロアは、静かで整っていた。
磨かれた床、背筋の伸びた行員たち、一定の温度に保たれた空気。
“信用”という名の緊張が、隅々まで行き届いている。
陽菜は応接室へ向かう廊下を歩きながら、腕の中の書類ファイルを抱え直した。
帰国したばかりの自分に、これほどの案件を任せるなんて——期待なのか、試されているのか。
(どっちでもいい。結果を出すだけ)
そう思える強さが、陽菜にはある。
だからこそ周りは、陽菜を“安心”として扱う。
応接室の前で、父——西園寺清隆(頭取)の秘書が足を止めた。
「西園寺様、本日はこちらの資料をお渡ししておきます。午後の打ち合わせで必要になりますので」
差し出されたのは、厚い封筒だった。
白い封筒。
角が硬い。
陽菜はそれを受け取り、軽く頷いた。
「ありがとうございます。確認しておきます」
秘書は会釈して去っていく。
陽菜は応接室へ入る前に、封筒の中身をざっと確認する癖があった。
書類は、見落とし一つで信用を失う。
封筒を開ける。
紙の擦れる音。
クリップで留められた資料が現れ、その表紙の文字が目に入った瞬間——
陽菜の呼吸が、止まった。
《資本提携に関する基本合意案》
《対象:朝霧ホールディングス/鷹宮商事》
《付帯条件:縁組(婚姻)を前提とした関係強化》
縁組。婚姻。
——結菜ちゃん。
陽菜の指先が冷たくなる。
まさか、と言いかけて、まさかじゃないと分かってしまう。
あの最近の結菜の顔。
笑うのに、目が笑っていない顔。
「忙しい」としか言わない声。
逃げる背中。
(……これ、結菜ちゃんの“忙しい”だ)
陽菜は喉の奥が熱くなった。
怒りではない。
悲しみでもない。
——恐怖に近い何か。
資料をめくる。
日付。会食予定。出席者名。
そして、確かに書かれていた。
《朝霧結菜》
《鷹宮恒一》
陽菜の胸が、きゅっと潰れる。
(見合い……?)
封筒の中には、さらに別の紙が挟まっていた。
社交界向けの“想定Q&A”。
発表時のコメント案。
噂対策の文言。
——準備が、進んでいる。
しかも、銀行の案件として回っている。
つまり、もう“家同士の話”になっている。
陽菜は資料を胸に抱え、しばらく動けなかった。
応接室の時計の針だけが、淡々と進む。
(結菜ちゃん、私に言わなかった)
言えなかったのか。
言いたくなかったのか。
どちらでも、陽菜は胸が痛い。
そして——拓真くん。
陽菜の脳裏に、片岡拓真の顔が浮かぶ。
不器用で、刺さる言い方ばかりするくせに、結菜のことになると目が揺れる。
「話せよ」と言っていた声。
あの声は、怒っていたんじゃない。怖がっていた。
(拓真くん、知ってるのかな)
知っていたら、あんな顔はしない。
知らない。
だから噂の“お似合い”だけが一人歩きして、結菜を追い詰めている。
陽菜は、唇を噛んだ。
痛い。
誰も悪くないのに、誰も正しくない。
——でも。
陽菜は、自分が資料を見てしまったことを悟った。
これは本来、陽菜が読むべきものじゃない。
父の秘書が渡したということは、父は陽菜に見せるつもりだったのかもしれない。
銀行として動くなら、西園寺家として“縁談の輪郭”を把握しておけ、と。
(……私が、道具みたい)
そんな気持ちが一瞬湧き、陽菜はすぐに飲み込んだ。
道具扱いされるのは慣れている。
令嬢として生まれた時点で、ある程度は。
でも——結菜が道具にされるのは、嫌だ。
陽菜は深呼吸をし、資料を元に戻した。
封筒を丁寧に閉じ、何も見なかったふりをすることだってできる。
そうすれば、波風は立たない。
けれど。
(見なかったことにしたら、結菜ちゃんが壊れる)
陽菜は、自分のスマホを握りしめた。
結菜に連絡するべきか。
でも連絡したら、結菜は怯える。
“知られた”だけで、結菜はさらに閉じる。
拓真に言うべきか。
言ったら、拓真は動く。
動いたら、家同士がぶつかる。
結菜が望むのは、たぶんそれじゃない。
陽菜は、応接室の扉の前で立ち尽くしたまま、心の中で何度も結菜の名前を呼んだ。
(結菜ちゃん……)
あの子は強いふりをする。
可愛い顔で笑うほど、痛みを隠す。
栗色の巻き毛が揺れるたび、周りは“可憐な令嬢”だと勝手に安心する。
でも本当は、喧嘩できる相手にしか本音を出せない子だ。
——なのに、その喧嘩相手にすら言えない状況に追い込まれている。
陽菜は、ようやく扉に手をかけた。
扉の向こうに待つ仕事の顔。令嬢の顔。銀行の顔。
それを纏いながら、心の中だけで決める。
(私、結菜ちゃんの味方でいたい)
でも、味方でいる方法が分からない。
味方でいるほど、誰かを傷つけてしまう気もする。
陽菜は応接室に入った。
笑顔を作る。
完璧な笑顔を。
その裏側で、胸がざわつき続ける。
——この資料が示す未来が、誰にとっての“正解”なのか。
陽菜にはまだ、分からなかった。
磨かれた床、背筋の伸びた行員たち、一定の温度に保たれた空気。
“信用”という名の緊張が、隅々まで行き届いている。
陽菜は応接室へ向かう廊下を歩きながら、腕の中の書類ファイルを抱え直した。
帰国したばかりの自分に、これほどの案件を任せるなんて——期待なのか、試されているのか。
(どっちでもいい。結果を出すだけ)
そう思える強さが、陽菜にはある。
だからこそ周りは、陽菜を“安心”として扱う。
応接室の前で、父——西園寺清隆(頭取)の秘書が足を止めた。
「西園寺様、本日はこちらの資料をお渡ししておきます。午後の打ち合わせで必要になりますので」
差し出されたのは、厚い封筒だった。
白い封筒。
角が硬い。
陽菜はそれを受け取り、軽く頷いた。
「ありがとうございます。確認しておきます」
秘書は会釈して去っていく。
陽菜は応接室へ入る前に、封筒の中身をざっと確認する癖があった。
書類は、見落とし一つで信用を失う。
封筒を開ける。
紙の擦れる音。
クリップで留められた資料が現れ、その表紙の文字が目に入った瞬間——
陽菜の呼吸が、止まった。
《資本提携に関する基本合意案》
《対象:朝霧ホールディングス/鷹宮商事》
《付帯条件:縁組(婚姻)を前提とした関係強化》
縁組。婚姻。
——結菜ちゃん。
陽菜の指先が冷たくなる。
まさか、と言いかけて、まさかじゃないと分かってしまう。
あの最近の結菜の顔。
笑うのに、目が笑っていない顔。
「忙しい」としか言わない声。
逃げる背中。
(……これ、結菜ちゃんの“忙しい”だ)
陽菜は喉の奥が熱くなった。
怒りではない。
悲しみでもない。
——恐怖に近い何か。
資料をめくる。
日付。会食予定。出席者名。
そして、確かに書かれていた。
《朝霧結菜》
《鷹宮恒一》
陽菜の胸が、きゅっと潰れる。
(見合い……?)
封筒の中には、さらに別の紙が挟まっていた。
社交界向けの“想定Q&A”。
発表時のコメント案。
噂対策の文言。
——準備が、進んでいる。
しかも、銀行の案件として回っている。
つまり、もう“家同士の話”になっている。
陽菜は資料を胸に抱え、しばらく動けなかった。
応接室の時計の針だけが、淡々と進む。
(結菜ちゃん、私に言わなかった)
言えなかったのか。
言いたくなかったのか。
どちらでも、陽菜は胸が痛い。
そして——拓真くん。
陽菜の脳裏に、片岡拓真の顔が浮かぶ。
不器用で、刺さる言い方ばかりするくせに、結菜のことになると目が揺れる。
「話せよ」と言っていた声。
あの声は、怒っていたんじゃない。怖がっていた。
(拓真くん、知ってるのかな)
知っていたら、あんな顔はしない。
知らない。
だから噂の“お似合い”だけが一人歩きして、結菜を追い詰めている。
陽菜は、唇を噛んだ。
痛い。
誰も悪くないのに、誰も正しくない。
——でも。
陽菜は、自分が資料を見てしまったことを悟った。
これは本来、陽菜が読むべきものじゃない。
父の秘書が渡したということは、父は陽菜に見せるつもりだったのかもしれない。
銀行として動くなら、西園寺家として“縁談の輪郭”を把握しておけ、と。
(……私が、道具みたい)
そんな気持ちが一瞬湧き、陽菜はすぐに飲み込んだ。
道具扱いされるのは慣れている。
令嬢として生まれた時点で、ある程度は。
でも——結菜が道具にされるのは、嫌だ。
陽菜は深呼吸をし、資料を元に戻した。
封筒を丁寧に閉じ、何も見なかったふりをすることだってできる。
そうすれば、波風は立たない。
けれど。
(見なかったことにしたら、結菜ちゃんが壊れる)
陽菜は、自分のスマホを握りしめた。
結菜に連絡するべきか。
でも連絡したら、結菜は怯える。
“知られた”だけで、結菜はさらに閉じる。
拓真に言うべきか。
言ったら、拓真は動く。
動いたら、家同士がぶつかる。
結菜が望むのは、たぶんそれじゃない。
陽菜は、応接室の扉の前で立ち尽くしたまま、心の中で何度も結菜の名前を呼んだ。
(結菜ちゃん……)
あの子は強いふりをする。
可愛い顔で笑うほど、痛みを隠す。
栗色の巻き毛が揺れるたび、周りは“可憐な令嬢”だと勝手に安心する。
でも本当は、喧嘩できる相手にしか本音を出せない子だ。
——なのに、その喧嘩相手にすら言えない状況に追い込まれている。
陽菜は、ようやく扉に手をかけた。
扉の向こうに待つ仕事の顔。令嬢の顔。銀行の顔。
それを纏いながら、心の中だけで決める。
(私、結菜ちゃんの味方でいたい)
でも、味方でいる方法が分からない。
味方でいるほど、誰かを傷つけてしまう気もする。
陽菜は応接室に入った。
笑顔を作る。
完璧な笑顔を。
その裏側で、胸がざわつき続ける。
——この資料が示す未来が、誰にとっての“正解”なのか。
陽菜にはまだ、分からなかった。

