本当はあなたに言いたかった

 会食の翌朝、結菜のスマホは静かに震え続けた。
 画面の上で明滅する名前は、見慣れすぎている。

《片岡拓真》

 結菜は画面を伏せ、机の引き出しにしまった。
 通知の振動が止まっても、胸の奥の痛みは止まらない。

 ——波風を立てるな。
 父の命令。
 鷹宮の“お願い”。
 どちらも同じ鎖で、結菜の喉を締める。

 (出たら、終わる)

 出たら、拓真は気づく。
 気づいたら、拓真は動く。
 動いたら、朝霧が揺れる。
 揺れたら、結菜のせいになる。

 結菜はパソコンを開き、会議資料を睨んだ。
 文字が頭に入らない。
 可愛らしい顔に似合わないほど、心の中が騒がしい。

「朝霧さん、次の打ち合わせ、時間変更になりました」

 同僚の声に、結菜は反射で頷いた。

「……分かった。ありがとう」

 笑っているつもりだった。
 でも口角が引きつっているのが、自分でも分かる。

 ふと、デスク上に影が落ちた。

「結菜」

 低い声。
 息を止める前に、身体が固まった。

 顔を上げると、拓真が立っていた。
 スーツの襟元が少し乱れている。
 乱れているのに、その乱れさえ様になるのが腹立つ。
 そして——目が、今日はいつもより暗い。

「……会社では苗字で呼んで」

「今さら何だよ」

 拓真は短く言い捨て、結菜のデスク脇の椅子を引いて座った。
 座るな、という言葉は喉で止まった。
 ここで言い返したら、また喧嘩になる。
 喧嘩になったら、言えないことが漏れる。

 結菜は息を吸い、声を整える。

「何の用?」

「お前、今週の夜、全部埋まってるだろ」

 結菜の指先が冷えた。

「……仕事が立て込んでる」

 即答。
 安全な嘘。
 “仕事”と言えば、拓真は簡単には否定できない。

 拓真は眉間を寄せた。

「仕事? お前が?」

「なによ、その言い方」

「悪い意味じゃねぇよ。……でも、急に不自然だ」

 不自然。
 結菜の胸がひくりと痛む。
 不自然なのは分かっている。
 でも自然にできない。

「不自然じゃない」

「嘘つけ」

 拓真は机の上のスケジュール表に視線を落とした。
 結菜が閉じたはずのメモの端が、ほんの少し覗いている。

「“会食”が多すぎる。しかも相手の名前が——」

「見ないで」

 結菜の声が、思ったより鋭く出た。
 拓真の目が一瞬止まる。
 その反応で、結菜は自分が“触れられたくない部分”を自分から曝け出したと気づき、後悔した。

 拓真が声を落とす。

「……何だよ。誰と会ってんだよ」

 誰と。
 鷹宮。
 父。
 “条件だけの結婚”を進める大人たち。

 結菜は笑った。
 笑わないと、泣きそうだった。

「仕事の相手」

「だから具体的に誰だよ」

 拓真の声が、苛立ちに寄る。
 苛立ちの裏にある不安を、結菜は見てしまう。

(そんな顔しないで)

 そんな顔をされたら、言ってしまいそうになる。

「片岡さん。関係ないでしょ」

 距離を取る言葉。
 拓真はその“片岡さん”に、顔を僅かに歪めた。

「……またそれか」

「それってなに」

「お前、最近……俺を切り離そうとしてる」

 切り離してる。
 そうじゃない。
 近づけないだけ。
 近づいたら壊れるから、離れるしかないだけ。

 結菜は唇を噛み、目を逸らした。
 栗色の巻き毛が、頬に落ちる。
 その一房を耳にかけるふりをして、涙を隠した。

「忙しいの。ほんとに」

 嘘を重ねる。
 重ねるほど、胸が痛い。

 拓真は、結菜の薬指にちらりと視線を落とした。
 あの計測痕はもう薄くなっているはずなのに、結菜は反射で手を引っ込めた。

 その反射が、拓真の目を鋭くする。

「……手、どうした」

「何でもない」

「何でもないなら、隠すなよ」

 拓真が手を伸ばしかけて、止めた。
 止めたのは、会社だからか、それとも結菜が怖い顔をしたからか。

 結菜は声を落とす。

「やめて。触らないで」

 その一言が、拓真を凍らせた。

「……触るな、って」

 拓真が小さく笑った。
 笑ったのに、目が笑っていない。

「お前、俺のこと……そんなに嫌かよ」

 結菜の胸が潰れそうになる。

(嫌じゃない)

 嫌じゃない。
 嫌じゃないから、言えない。
 言えないから、逃げる。
 なのに拓真は、逆に受け取る。

「嫌じゃない」

 結菜は反射で言った。
 でも言葉が足りない。
 足りない言葉は、誤解を生む。

 拓真は一歩も引かない。

「じゃあ何だよ。何で俺に言わねぇ。何で俺のことだけ——」

 言いかけて、拓真が止まった。
 喉の奥で言葉が詰まっている。
 “俺のことだけ外すな”とでも言いたいみたいに。

 結菜はその言葉を引き出したくて、引き出したら終わると思って、息が苦しくなる。

「……ごめん」

 結菜は、最小の言葉で逃げた。
 謝れば終わると思った。
 謝ったら許されると思った。

 拓真の目が、さらに暗くなる。

「謝るって、何だよ。お前、何に謝ってんだよ」

 結菜は答えられない。
 謝っているのは、嘘をついていること。
 謝っているのは、言えないこと。
 謝っているのは、好きなのに逃げること。

 ——全部。

 陽菜の声が、遠くから聞こえた。

「拓真くん? 会議、そろそろ——」

 陽菜が廊下から顔を覗かせ、二人の空気を見て一瞬止まる。
 そしてすぐに、柔らかい笑顔を作った。

「ごめんね、邪魔しちゃった?」

「邪魔」

 拓真が短く言い、結菜は息を飲んだ。
 陽菜は気まずそうに笑う。

「じゃあ……会議室、先行ってるね」

 陽菜が去る。
 空気が、また重くなる。

 拓真が立ち上がった。
 椅子が床を擦る音が、やけに大きい。

「……分かった」

 拓真は言った。
 分かった、という言葉が何を意味するのか分からなくて、結菜の心がざわつく。

「俺も、踏み込まねぇ」

 拓真が続ける。
 それは優しさじゃない。諦めの声だった。

 結菜の胸が、ちくりと痛んだ。

「それが……いいと思う」

 結菜は嘘の上に、さらに嘘を置いた。

 拓真は結菜を見た。
 見て、目を細めて。

「……お前、泣くなよ」

 結菜は笑った。

「泣かない」

 泣けない。
 泣いたら全部が漏れるから。

 拓真は何も言わず、背を向けて歩き出した。
 扉の前で一度だけ止まり、低く呟く。

「……守りたいのに、守れねぇ」

 その声が、結菜の胸を撃ち抜いた。

 結菜はデスクに手をついた。
 足が震える。
 喉が痛い。
 でも顔は笑っている。

 “仕事”という嘘で、自分の心を隠す。
 隠すほど、拓真との距離が開く。

 その距離が、もう戻れないほどにならないように——
 結菜は、今日も嘘をついた。