本当はあなたに言いたかった

 会食の席は、品の良さで息が詰まる場所だった。
 壁は落ち着いた濃紺、照明は柔らかい琥珀色。テーブルの上に余計な飾りはなく、あるのは整えられた器と、沈黙の“格”だけ。

 結菜はミルクティー色のワンピースを着ていた。
 あのドレスサロンで選ばされた“正解”。
 栗色の巻き毛はゆるくまとめ、可愛らしい顔に“良い娘”の微笑みを貼る。

 席には、父——朝霧社長。
 そして鷹宮恒一。
 鷹宮は紺のスーツを着こなし、丁寧な笑みを崩さない。
 その笑みは、優しさの形をしている。
 だから怖い。

「本日はありがとうございます。改めて、鷹宮恒一と申します」

 鷹宮が深く頭を下げる。
 その動き一つひとつが洗練されていて、結菜は“対等”になれないことを突きつけられる。

 父が頷く。
「こちらこそ。結菜も、改めて」

「朝霧結菜です。本日はよろしくお願いいたします」

 言葉は綺麗に出た。
 なのに胸の奥は、ずっと痛い。

 料理が運ばれてくる。
 会話は、仕事の話から始まった。資本政策、提携、金融再編。
 結菜は黙って相槌を打つ。
 この席で結菜に求められているのは、意見ではなく“安心感”だ。

 ——従順な令嬢。
 ——無用な波風を立てない駒。

 ワインが注がれた頃、父が静かに言った。

「結菜、鷹宮さんと少し話してこい」

 それは命令。
 結菜は頷き、席を立った。
 鷹宮も自然に立ち上がる。
 まるで台本通り。

 別室——小さな個室に通され、扉が閉まる。
 外の音がふっと途切れ、結菜の呼吸がやけに大きく聞こえた。

「……緊張されていますか」

 鷹宮はそう言い、結菜の向かいに腰を下ろした。
 距離は近すぎず遠すぎず。
 話しやすさを装った、完璧な距離。

「いえ」

 結菜は即答した。
 緊張ではない。諦めだ。

 鷹宮は微笑む。
 微笑みながら、結菜の手元——薬指の辺りに一瞬だけ視線を落とした。

 結菜は反射で手を膝の上に隠す。
 あの計測痕が、まだひりついている気がした。

「結菜さん。率直に申し上げます」

 鷹宮の声は穏やかで、だからこそ逃げられない。

「私は、恋は求めません」

 結菜の心臓が小さく跳ねた。
 跳ねたのが悔しい。
 恋なんて、最初から求める資格はないはずなのに。

「……はい」

 鷹宮は続ける。

「結婚は契約です。双方にとって利益があり、損が少ない形が良い。——だから、条件だけで結婚しませんか」

 条件だけ。
 その言葉が、結菜の肺をきゅっと縮めた。

 息が、詰まる。

 結菜は笑顔を作ろうとして、うまくいかなかった。
 可愛らしい顔のまま、口角だけが固くなる。

「条件、とは……」

 鷹宮は淡々と、けれど丁寧に言う。

「第一に、表向きは良好な夫婦であること。
 第二に、余計な噂を立てないこと。
 第三に、結婚後も朝霧家と鷹宮家の関係を安定させるため、必要な場には同席していただく」

 全部、正しい。
 正しいから、苦しい。

 結菜は喉の奥で息を飲み込み、微笑みを貼り直した。

「……私は、朝霧の娘です。必要なら、務めます」

 言った瞬間、胸の奥がひゅっと冷える。
 “娘”と言いながら、そこに自分はいない。

 鷹宮の目が少しだけ柔らかくなる。

「そう言っていただけると思いました。結菜さんは——賢い」

 また、その言葉。
 賢い。
 従順だと褒める、便利な言葉。

 結菜は視線を落とした。
 落とした先に、テーブルの上の紙ナプキンがある。
 白く、折り目が整っている。
 まるで、ここにいる全員の感情みたいに。

 鷹宮は、最後の一言を丁寧に添えるように言った。

「そして——結菜さんに、お願いがあります」

 結菜の胸がざわつく。
 お願い、という形の命令が来る。

「……何でしょう」

「“誰にも言わないでください”」

 結菜の指先が、微かに震えた。

「この話が外に漏れれば、朝霧家が揺れます。鷹宮家も同じです。余計な波風は、誰にとっても不利益ですから」

 波風。
 父の言葉と重なる。

 ——片岡に漏らすな。刺激するな。

 結菜の頭に、拓真の顔が浮かぶ。
 苛立ちの目。必死な声。
 「話せよ」と言った声。

 言えない。
 鷹宮の“お願い”が、さらに鎖を増やす。

「……承知しました」

 結菜が言うと、鷹宮はほっとしたように微笑む。

「ありがとうございます。結菜さんが無理をしないようにします」

 その“無理をしない”が、結菜を最も追い詰める。
 無理をしない=心を使わない。
 心を使わない結婚。

 結菜は息を吸おうとして、胸が苦しくて浅くなる。
 この場で泣いたら終わる。
 泣いたら“条件”すら守れない。

 鷹宮は、まるで結菜の呼吸の乱れを見ないふりをして、静かに言った。

「もちろん、結菜さんに不利な形にはしません。形式上の婚約期間も、短くできます。公表の時期も調整できます」

 調整。公表。形式。
 どの言葉にも、結菜の気持ちは入らない。

 結菜は微笑んだ。
 微笑むしかない。

「……ありがとうございます」

 鷹宮は、名刺入れから一枚のカードを取り出した。
 前に渡された名刺とは別に、個人の連絡先が記されている。

「何か困ったことがあれば、直接こちらへ。——結菜さんが不用意に“誰か”に連絡して、波風が立つのは避けたいので」

 不用意に“誰か”に。
 その“誰か”が誰なのか、結菜には分かる。
 片岡拓真。
 結菜の心を乱し、守りたい衝動で動き出す人。

 結菜はカードを受け取った。
 紙は軽いのに、重い。

 (私、どんどん閉じ込められていく)

 可愛らしい顔をしたまま、檻の中で頷く。
 それが求められている。

 扉の外で、父の気配がした。
 時間だ。戻る時間。

 鷹宮が立ち上がり、最後に穏やかに言った。

「結菜さん。私はあなたを苦しめるつもりはありません」

 結菜は笑った。
 笑いながら、心の中で呟く。

 ——苦しめているのは、あなたじゃない。
 この“正しさ”だ。

 結菜は席を立ち、扉へ向かった。
 呼吸はまだ浅い。
 薬指の計測痕が、ひりつく。

 扉が開き、外の世界の音が戻る。
 結菜は“令嬢の顔”に戻った。
 父の横に立ち、頷く準備をする。

 ——拓真にだけは、言えないまま。