片岡家の本邸は、静けさそのものだった。
門をくぐった瞬間から、空気が一段と重くなる。庭の手入れの行き届き方も、石畳の一枚一枚も、すべてが「余計な感情は不要だ」と言っているみたいだ。
拓真は車を降り、屋敷の玄関へ向かった。
黒崎秘書が半歩後ろを歩く。
「ご予定通り、西園寺様もお見えになります」
「……聞いてねぇ」
拓真の声が低くなる。
黒崎は淡々と答えた。
「奥様のご意向です」
——母の。
その言葉だけで、拓真の腹の底が重くなる。
玄関の扉が開き、執事が頭を下げた。
「お帰りなさいませ、拓真様。奥様がお待ちでございます」
案内された応接間は、華やかすぎないのに高級だった。
花瓶に生けられた白い花。磨かれたテーブル。薄い紅茶の香り。
そこに座る母——片岡美佐子は、微笑んだまま拓真を迎えた。
「拓真、お帰り。忙しいのに、よく来てくれたわね」
「呼んだのはそっちだろ」
「言い方。……あなた、相変わらず不器用ね」
母は責めるように見せず、ただ事実を言う。
それが一番刺さる。
拓真が席につこうとした瞬間、応接間の扉がもう一度開いた。
「失礼いたします」
柔らかな声。
淡い水色のワンピース。上品な香り。
「ご無沙汰しております、片岡様。西園寺陽菜です」
陽菜が深く一礼する。
完璧な角度。完璧な笑顔。
母がぱっと表情を明るくした。
「あら、陽菜さん。待っていたのよ」
拓真は内心で舌打ちした。
こういう形で“既成事実”が作られるのは、片岡家のやり方だ。
「拓真くん、お邪魔します」
陽菜が拓真を見る。
同情でも、挑発でもない、ただの穏やかな目。
「……別に。好きにしろ」
拓真はそっけなく返した。
陽菜は気を悪くした素振りもなく、静かに席につく。
母は紅茶を勧めながら、陽菜を褒め始めた。
「陽菜さん、海外研修も素晴らしかったと聞いたわ。あなたのようにしっかりしたお嬢さんが、今の金融界には必要ね」
「恐れ入ります。学ぶことばかりでした」
「謙虚なのもいいわ。ねえ拓真、こういう方が隣にいると安心でしょう?」
“隣にいると安心”
その言葉が、拓真の胸をざらりと擦った。
「……何の話だよ」
「何の話って。将来の話よ」
母は笑う。
笑って、当たり前のことのように言う。
この家で“将来”とは、結婚のことだ。
「片岡家の次期当主には、支える方が必要なの。あなたは仕事はできるけれど、感情の扱いが下手。——だから、陽菜さんみたいな方が隣にいると、周りが安心するのよ」
母の言葉は、拓真の欠点を挙げながら、陽菜を持ち上げる。
相手を傷つけない“正しい圧”だ。
陽菜が小さく微笑む。
「私、支えるなんて大それたことは……」
「いいえ、あなたならできるわ。西園寺家は信用もある。金融再編のこの時期に、これ以上の“相性”はないもの」
相性。
相性という言葉は、便利だ。
人の気持ちを無視して、正しさだけを押し付けられる。
拓真は拳を握りしめた。
「……俺は結婚相手を“相性”で決めるつもりはない」
母は驚いた顔をしない。
息子の反発など、織り込み済みだとでも言うように、紅茶を一口含む。
「あなた、好き嫌いで生きられる立場だと思っているの?」
静かな声。
だからこそ、逃げ場がない。
拓真の喉が詰まる。
“当主”とはそういうものだ、と分かっている。分かっているから苦しい。
陽菜がそっと口を挟む。
「片岡様、私は——」
「陽菜さん、あなたは遠慮しなくていいのよ」
母は陽菜の言葉を柔らかく遮った。
遮るのに、丁寧だ。
丁寧だから、陽菜もそれ以上言えない。
拓真は苛立ちを飲み込む。
この場で怒鳴れば、陽菜が傷つく。
陽菜を傷つけたら、“片岡家の評判”が傷つく。
そして何より——
結菜が、この場にいたらどう思うか。
思い浮かべた瞬間、胸が痛んだ。
(……結菜)
栗色の巻き毛。
可愛らしい顔で、強がって笑う。
喧嘩の時だけ、素直な感情が出る。
母が続ける。
「結菜さんも悪い子じゃないけれど……朝霧家は今、少し不安定でしょう? 噂も立っているし。ああいう方はね、守られてしまうと余計に拗れるのよ」
拓真の視線が鋭くなる。
「……朝霧の噂?」
母はさらりと言った。
「知らないの? 鷹宮家との縁談の話。社交界ではもう——」
拓真の胸の奥が、冷たく凍った。
鷹宮。
縁談。
結菜。
脳内で点と点が繋がる。
結菜の薬指の違和感。
最近の逃げ方。
喧嘩が成立しない不自然さ。
(……だから、あいつ)
拓真は立ち上がりかけて、ぐっと堪えた。
ここで立ち上がれば、母の思う壺だ。
感情で動く息子は扱いやすい。
「拓真?」
陽菜が拓真の変化に気づき、声を落とす。
母は微笑んだまま、追い打ちをかけるように言う。
「あなたの隣は、陽菜さんが安心よ。世間も、家も、会社も。——みんなが望む形」
みんな。
その言葉が、拓真の喉に刺さった。
みんなが望む形。
だから結菜は、黙って見合いを受けるのか。
だから“言えない”のか。
拓真は、歯を食いしばる。
今ここで反発しても、母は笑って流す。
片岡家の会話は、勝敗が最初から決まっている。
「……陽菜」
拓真は視線を落としたまま言った。
「今日の話、悪い」
「え?」
陽菜が目を瞬く。
拓真は続ける。
「お前は悪くない。……でも、俺は今、ここにいるべきじゃない」
母が静かに笑った。
「どこへ行くの。まさか……朝霧さんのところ?」
拓真は答えなかった。
答えられない。
答えたら、結菜の名前が“家”の会話の中で切り刻まれる。
拓真は椅子に座り直し、拳をほどいた。
息を整える。
ここで崩れたら終わる。
結菜を守る前に、結菜を危険に晒す。
——守りたい衝動が、喉の奥で暴れる。
でも、今は動けない。
母が紅茶を注ぎ足しながら、穏やかに言った。
「拓真。あなたは“選ぶ側”ではなく、“選ばれる側”なの。片岡の名は、そのためにあるのよ」
拓真は笑った。
笑ったのに、喉が痛い。
「……じゃあ、俺はいつ、自分の意思で生きられるんだよ」
母は答えない。
答えないまま、陽菜に微笑む。
「陽菜さん。今度、正式にお食事の席を設けましょう。片岡家として——」
「片岡様」
陽菜が静かに遮った。
声は柔らかいのに、初めて少しだけ強かった。
「私、今日は帰ります。拓真くんの顔色が……良くない」
母が一瞬だけ表情を動かす。
でもすぐに笑顔に戻る。
「あら、気が利くのね。さすがだわ」
陽菜は拓真にだけ小さく言った。
「……結菜ちゃんのこと、でしょ?」
拓真は答えられなかった。
答えられない代わりに、目だけが“正解”を示してしまう。
陽菜はそれを見て、ほんの少しだけ眉を寄せた。
でも笑った。
「大丈夫。……私、味方だよ」
その言葉が、拓真の胸に重く落ちた。
味方。
味方なのに、陽菜は“お似合い”の席に座らされている。
拓真は、心の中で結菜の名前を呼ぶ。
呼びたくないのに、呼ぶ。
(結菜……)
動けない自分が、嫌になる。
反発できない自分が、腹立たしい。
そして——母の“正解”が、結菜を追い詰めていることが、何より許せなかった。
門をくぐった瞬間から、空気が一段と重くなる。庭の手入れの行き届き方も、石畳の一枚一枚も、すべてが「余計な感情は不要だ」と言っているみたいだ。
拓真は車を降り、屋敷の玄関へ向かった。
黒崎秘書が半歩後ろを歩く。
「ご予定通り、西園寺様もお見えになります」
「……聞いてねぇ」
拓真の声が低くなる。
黒崎は淡々と答えた。
「奥様のご意向です」
——母の。
その言葉だけで、拓真の腹の底が重くなる。
玄関の扉が開き、執事が頭を下げた。
「お帰りなさいませ、拓真様。奥様がお待ちでございます」
案内された応接間は、華やかすぎないのに高級だった。
花瓶に生けられた白い花。磨かれたテーブル。薄い紅茶の香り。
そこに座る母——片岡美佐子は、微笑んだまま拓真を迎えた。
「拓真、お帰り。忙しいのに、よく来てくれたわね」
「呼んだのはそっちだろ」
「言い方。……あなた、相変わらず不器用ね」
母は責めるように見せず、ただ事実を言う。
それが一番刺さる。
拓真が席につこうとした瞬間、応接間の扉がもう一度開いた。
「失礼いたします」
柔らかな声。
淡い水色のワンピース。上品な香り。
「ご無沙汰しております、片岡様。西園寺陽菜です」
陽菜が深く一礼する。
完璧な角度。完璧な笑顔。
母がぱっと表情を明るくした。
「あら、陽菜さん。待っていたのよ」
拓真は内心で舌打ちした。
こういう形で“既成事実”が作られるのは、片岡家のやり方だ。
「拓真くん、お邪魔します」
陽菜が拓真を見る。
同情でも、挑発でもない、ただの穏やかな目。
「……別に。好きにしろ」
拓真はそっけなく返した。
陽菜は気を悪くした素振りもなく、静かに席につく。
母は紅茶を勧めながら、陽菜を褒め始めた。
「陽菜さん、海外研修も素晴らしかったと聞いたわ。あなたのようにしっかりしたお嬢さんが、今の金融界には必要ね」
「恐れ入ります。学ぶことばかりでした」
「謙虚なのもいいわ。ねえ拓真、こういう方が隣にいると安心でしょう?」
“隣にいると安心”
その言葉が、拓真の胸をざらりと擦った。
「……何の話だよ」
「何の話って。将来の話よ」
母は笑う。
笑って、当たり前のことのように言う。
この家で“将来”とは、結婚のことだ。
「片岡家の次期当主には、支える方が必要なの。あなたは仕事はできるけれど、感情の扱いが下手。——だから、陽菜さんみたいな方が隣にいると、周りが安心するのよ」
母の言葉は、拓真の欠点を挙げながら、陽菜を持ち上げる。
相手を傷つけない“正しい圧”だ。
陽菜が小さく微笑む。
「私、支えるなんて大それたことは……」
「いいえ、あなたならできるわ。西園寺家は信用もある。金融再編のこの時期に、これ以上の“相性”はないもの」
相性。
相性という言葉は、便利だ。
人の気持ちを無視して、正しさだけを押し付けられる。
拓真は拳を握りしめた。
「……俺は結婚相手を“相性”で決めるつもりはない」
母は驚いた顔をしない。
息子の反発など、織り込み済みだとでも言うように、紅茶を一口含む。
「あなた、好き嫌いで生きられる立場だと思っているの?」
静かな声。
だからこそ、逃げ場がない。
拓真の喉が詰まる。
“当主”とはそういうものだ、と分かっている。分かっているから苦しい。
陽菜がそっと口を挟む。
「片岡様、私は——」
「陽菜さん、あなたは遠慮しなくていいのよ」
母は陽菜の言葉を柔らかく遮った。
遮るのに、丁寧だ。
丁寧だから、陽菜もそれ以上言えない。
拓真は苛立ちを飲み込む。
この場で怒鳴れば、陽菜が傷つく。
陽菜を傷つけたら、“片岡家の評判”が傷つく。
そして何より——
結菜が、この場にいたらどう思うか。
思い浮かべた瞬間、胸が痛んだ。
(……結菜)
栗色の巻き毛。
可愛らしい顔で、強がって笑う。
喧嘩の時だけ、素直な感情が出る。
母が続ける。
「結菜さんも悪い子じゃないけれど……朝霧家は今、少し不安定でしょう? 噂も立っているし。ああいう方はね、守られてしまうと余計に拗れるのよ」
拓真の視線が鋭くなる。
「……朝霧の噂?」
母はさらりと言った。
「知らないの? 鷹宮家との縁談の話。社交界ではもう——」
拓真の胸の奥が、冷たく凍った。
鷹宮。
縁談。
結菜。
脳内で点と点が繋がる。
結菜の薬指の違和感。
最近の逃げ方。
喧嘩が成立しない不自然さ。
(……だから、あいつ)
拓真は立ち上がりかけて、ぐっと堪えた。
ここで立ち上がれば、母の思う壺だ。
感情で動く息子は扱いやすい。
「拓真?」
陽菜が拓真の変化に気づき、声を落とす。
母は微笑んだまま、追い打ちをかけるように言う。
「あなたの隣は、陽菜さんが安心よ。世間も、家も、会社も。——みんなが望む形」
みんな。
その言葉が、拓真の喉に刺さった。
みんなが望む形。
だから結菜は、黙って見合いを受けるのか。
だから“言えない”のか。
拓真は、歯を食いしばる。
今ここで反発しても、母は笑って流す。
片岡家の会話は、勝敗が最初から決まっている。
「……陽菜」
拓真は視線を落としたまま言った。
「今日の話、悪い」
「え?」
陽菜が目を瞬く。
拓真は続ける。
「お前は悪くない。……でも、俺は今、ここにいるべきじゃない」
母が静かに笑った。
「どこへ行くの。まさか……朝霧さんのところ?」
拓真は答えなかった。
答えられない。
答えたら、結菜の名前が“家”の会話の中で切り刻まれる。
拓真は椅子に座り直し、拳をほどいた。
息を整える。
ここで崩れたら終わる。
結菜を守る前に、結菜を危険に晒す。
——守りたい衝動が、喉の奥で暴れる。
でも、今は動けない。
母が紅茶を注ぎ足しながら、穏やかに言った。
「拓真。あなたは“選ぶ側”ではなく、“選ばれる側”なの。片岡の名は、そのためにあるのよ」
拓真は笑った。
笑ったのに、喉が痛い。
「……じゃあ、俺はいつ、自分の意思で生きられるんだよ」
母は答えない。
答えないまま、陽菜に微笑む。
「陽菜さん。今度、正式にお食事の席を設けましょう。片岡家として——」
「片岡様」
陽菜が静かに遮った。
声は柔らかいのに、初めて少しだけ強かった。
「私、今日は帰ります。拓真くんの顔色が……良くない」
母が一瞬だけ表情を動かす。
でもすぐに笑顔に戻る。
「あら、気が利くのね。さすがだわ」
陽菜は拓真にだけ小さく言った。
「……結菜ちゃんのこと、でしょ?」
拓真は答えられなかった。
答えられない代わりに、目だけが“正解”を示してしまう。
陽菜はそれを見て、ほんの少しだけ眉を寄せた。
でも笑った。
「大丈夫。……私、味方だよ」
その言葉が、拓真の胸に重く落ちた。
味方。
味方なのに、陽菜は“お似合い”の席に座らされている。
拓真は、心の中で結菜の名前を呼ぶ。
呼びたくないのに、呼ぶ。
(結菜……)
動けない自分が、嫌になる。
反発できない自分が、腹立たしい。
そして——母の“正解”が、結菜を追い詰めていることが、何より許せなかった。

