本当はあなたに言いたかった


 店の入り口に吊られた小さなランプが、雨上がりの路地を柔らかく照らしていた。
 陽菜が選んだのは、派手なレストランではなく、落ち着いた和モダンの小料理屋だった。
 “ちょうどいい”が上手い。陽菜は昔からそういう子だ。

「ここ、予約取りづらいんだよ」

 陽菜が嬉しそうに言う。淡いコートの襟を整える仕草まで品がある。
 結菜は頷きながら、手元の紙袋——あのドレスサロンの紙袋を思い出し、胸の奥を押さえた。
 今日は持っていない。なのに感触だけが残っている。

「陽菜、帰国おめでとう。忙しかったでしょ」

「うん。でもね、やっと帰ってこれたって感じ。……二人に会いたかった」

 その“二人”が、結菜に刺さる。
 結菜は笑って受け流す。最近そればかりだ。

「——遅い」

 背後から聞こえた声に、結菜の肩がわずかに跳ねた。
 拓真が傘を畳みながら立っている。雨粒のついた前髪を指で払う仕草が、妙に様になっているのが腹立つ。

「遅れてない。あなたが早いだけ」

「お前が遅い」

「はいはい」

 言い返せる。いつも通り。
 ……のはずなのに、胸の奥は静かに痛む。
 昨日の通知を無視したままだからか、薬指の計測痕がまだひりつく気がするからか。

「二人とも、今日は“お祝い”なんだからね?」

 陽菜が笑って釘を刺す。
 その笑顔があると、喧嘩が“じゃれ合い”に見えてしまう。
 見えてしまうのが怖い。

 個室に通され、三人が座る。
 拓真が自然に陽菜の隣へ座った。
 結菜の向かい。距離が遠いわけじゃないのに、なぜか“遠い席”に感じる。

 メニューを開く前に、陽菜がグラスを持ち上げた。

「改めて——ただいま。帰国祝い、ありがとう」

「おかえり」

 結菜が言うと、拓真も短く続ける。

「おかえり」

 その声が優しい。
 結菜はそれに気づいて、目を逸らした。

 (……優しい声、出せるんだ)

 自分にはいつも棘ばかりなのに。
 そう思った瞬間、結菜は自分に腹が立つ。比較するな。そんな資格ない。

 乾杯の音が、小さく鳴った。

 料理が運ばれてくる。
 陽菜が「これ美味しいよ」と自然に取り分けて、拓真が「お前、魚好きだろ」と結菜の皿にも一切れ置く。
 その一連が、あまりに自然だった。

 “幼なじみ”の空気。
 なのに結菜だけが、どこか一歩外にいる。

「海外の生活、どうだった?」

 結菜が陽菜に聞くと、陽菜は嬉しそうに話し始める。
 現地の銀行、文化、言葉、仕事。
 陽菜は努力家だ。淡々と、でも楽しそうに語る。

「拓真くんもね、向こうの投資案件の話、すごく詳しくて。現地の人と普通にやりとりしてた」

「……当たり前だろ」

 拓真が照れ隠しみたいに言う。
 陽菜が笑う。

「当たり前じゃないよ。私、最初ほんと大変だったもん」

「お前は要領悪いだけ」

「ひどい!」

 陽菜が軽く拓真の腕を叩く。
 拓真が肩をすくめる。
 その距離の近さが、結菜の視界に刺さる。

 (……私だったら、叩けない)

 叩いた瞬間に、喧嘩になる。
 喧嘩になって、言い過ぎて、後悔して。
 いつもそうだ。

 陽菜がふと結菜を見る。

「結菜ちゃん、最近どう? 仕事、忙しい?」

 また、その言葉。
 優しい刃。
 結菜は笑って頷く。

「うん、ちょっと」

「顔、疲れてる。ちゃんと寝てる?」

「寝てるよ」

 嘘が滑らかに出る。
 拓真の視線が、結菜の顔に刺さった。

「寝てねぇだろ」

 結菜は即座に返した。

「あなたに分かるわけない」

 言ってしまった。
 言ってから、心臓が痛い。

 拓真の箸が止まった。
 陽菜が目で「ほら、喧嘩しない」と言う。
 結菜は目を伏せて、冷たいお茶を飲んだ。

 拓真が低く言った。

「分かるわけない、って言うなら……教えろよ」

 その言葉が、結菜の胸を叩く。
 教えられない。
 見合い。父の命令。薬指の計測。紙袋。
 どれも、拓真に知られたくない。

「……話すほどでもない」

 結菜がそう言うと、拓真の目が僅かに細くなる。
 苛立ちと、不安。
 最近ずっと、その混ざった目。

 陽菜が間に入るように笑った。

「ねえ、せっかくだから思い出話しようよ。小さい頃のさ」

「やめろ」

 拓真が即答する。
 陽菜が肩を揺らして笑う。

「絶対、結菜ちゃんが強かった話でしょ?」

「強かったというか、噛みつくのが早かった」

「あなたが煽るのが早かったの」

 結菜が返すと、陽菜が「ほら、息ぴったり」と笑う。
 それが、怖い。

 息がぴったり。
 ぴったりなのに、今は言えないことがある。
 言えないことが、どんどん増えていく。

 料理が進むほど、結菜は“外側”に浮いていく感覚が増した。
 陽菜と拓真は、話のテンポが合う。仕事の話も、冗談も、自然に繋がる。
 結菜が口を挟むと、ほんの一瞬だけ空気が揺れる。
 揺れて、また二人のリズムに戻っていく。

 (……私、邪魔みたい)

 そう思った瞬間、結菜は自分で自分を叱った。
 邪魔じゃない。
 三人は幼なじみだ。
 そう言い聞かせても、胸の痛みは消えない。

 ふと、陽菜が席を外した。
 店員に呼ばれたのか、電話か分からない。
 個室に残ったのは、結菜と拓真だけ。

 沈黙が重い。

 拓真が、箸を置いた。

「……お前さ」

 結菜の心臓が跳ねる。
 言われたくないのに、聞きたい。

「最近、俺避けてるだろ」

「避けてない」

「嘘」

 短い言葉が、壁みたいに立つ。

「……仕事が忙しいだけ」

 結菜は、“安全な嘘”を選ぶ。
 拓真はその嘘が嫌いだと顔に出す。

「じゃあ、今度いつ空いてる」

「……分からない」

「分からない、って何だよ」

 拓真の声が少し荒くなる。
 結菜は膝の上で指を握りしめた。薬指がひりつく気がする。

「予定が読めないの」

「誰と会ってんだよ」

 結菜の呼吸が止まる。
 鷹宮。見合い。会食。
 言えない。言ったら、全部壊れる。

「……あなたに関係ない」

 結菜が絞り出すと、拓真の目が冷える。

「関係ある。俺は——」

 拓真が言いかけて、止めた。
 言えない言葉が、喉で詰まっている。

 その瞬間、陽菜が戻ってきた。
 空気がふっと緩む。
 緩んでしまうことが、結菜にはまた苦しい。

「ごめんね、待たせた?」

「別に」

 拓真がそっけなく言い、結菜は笑った。

「大丈夫」

 “大丈夫”を言うのが、上手くなるほど、心が削れる。

 帰り際、陽菜が楽しそうに言った。

「また三人で集まろうね。今度はもっとゆっくり」

 拓真が頷く。

「……ああ」

 結菜も頷いた。
 頷くしかない。
 “今度”が来る保証なんて、どこにもないのに。

 店を出ると、夜風が冷たかった。
 陽菜がタクシーを拾いに先に歩く。
 拓真が結菜の横を歩く。
 少しだけ近い。

 拓真が低く言った。

「……お前、今日も笑ってた」

「何が言いたいの」

「笑ってるのに、目が笑ってない」

 結菜の胸が痛む。
 見抜かないで。
 見抜かれたら、守ってきた仮面が剥がれる。

「……気のせい」

「気のせいじゃねぇ」

 拓真の声が、苛立ちと不安で揺れる。
 結菜は一歩、距離を取った。

「拓真。陽菜、待ってる」

 逃げる。
 会話を終わらせる。
 逃げ癖が、体に染みついている。

 拓真は追わなかった。追えなかった。
 だからこそ、結菜の胸が痛い。

 “お似合いの絵”の隣に、結菜の居場所はない。
 そう思ってしまう自分が、何より苦しい。

 結菜は陽菜の隣に並び、いつもの顔で笑った。
 そして——ポケットの中の薬指が、まだひりついていた。