朝霧結菜は、エレベーターの鏡に映る自分の髪を、無意識に指先で整えた。
栗色の巻き毛が、朝の光を受けると少しだけ赤みを帯びる。可愛らしい顔立ちだと言われるたび、結菜は曖昧に笑ってきた。可愛いだけでは守れないものがある、と知っているから。
最上階のフロアに出ると、空気が一段と硬い。重い絨毯の上を、ヒールの音が吸い込まれていく。
朝霧ホールディングスの本社——誰もが背筋を伸ばして歩く場所。社長令嬢である結菜の肩書きは、この空気において“守られている”という意味と同時に、“逃げられない”という意味も持っていた。
「朝霧さん、おはようございます」
秘書室の篠宮玲子が、いつも通り完璧な角度で一礼した。柔らかい笑顔の下で、目だけは鋭い。結菜が寝不足なのも、昨日の会食をひとつ忘れたことも、たぶん全部見抜いている。
「おはよう。今日の予定、変更ない?」
「九時、片岡グループの担当者と定例。十時半、役員会の事前資料確認。午後は——」
「待って。九時って……“片岡”?」
結菜の喉が、ほんの少し乾いた。
玲子は言葉の端を落ち着かせるように、淡々と続ける。
「片岡財閥、次期当主補佐……片岡拓真様が同席されるそうです」
「……は?」
結菜は思わず声が上ずった。
同席、という単語が、まるで嫌がらせのように胸に刺さる。
——片岡拓真。
財閥御曹司。仕事ができて、顔が良くて、腹が立つほど余裕があって、そして。
幼なじみ。
そんな彼と、結菜は会うたびに喧嘩になる。子どものころからずっと。
仲が悪い、というより——結菜にとって拓真は、負けたくない相手だった。
廊下の奥、会議室前のガラス越しに人影が見える。黒いスーツの背中。歩き方の癖。
見慣れすぎている。
結菜は息を整え、扉に手を伸ばした。
——ここは仕事の場。
幼なじみの喧嘩など、持ち込むべきではない。
そう思いながら、指先に力が入る。
扉を開けた瞬間、空気が変わる。
「遅い」
低く落ち着いた声が、真っ直ぐ刺さった。
片岡拓真は、椅子に深く腰掛け、片脚を組んでいた。
視線だけがこちらを見ている。
その目が、昔から結菜を苛立たせる——見透かしたように冷静で、なのに時々、何かを隠している目。
「おはようございます、片岡さん。遅れてません。時間ぴったりです」
「ぴったりって言うのは、五分前に入るやつが言う」
「あなた基準で会社を回してるわけじゃないので」
言い返した瞬間、自分でも分かる。
——ほら、こうなる。開口一番。
会議室の端で資料を並べていた若手社員が、肩を小さく震わせた。怯えているのか、笑いをこらえているのか分からない。
拓真の隣、すっと立ち上がった女性が、穏やかな声を差し挟む。
「二人とも、おはよう。朝から元気ね」
西園寺陽菜だった。
銀行令嬢。結菜と拓真の、もう一人の幼なじみ。
陽菜はいつもこうだ。場の温度を一瞬で下げずに、上品に整える。笑い方ひとつとっても、育ちの良さが滲む。
「陽菜、おはよう」
結菜が言うと、陽菜はふわりと微笑んだ。
「結菜ちゃん、髪が可愛い。栗色、今日特に綺麗」
「……ありがとう」
褒め言葉を素直に受け取れない自分が、少し嫌になる。
陽菜が言うと、本当に褒めているのが分かるから。
一方で、拓真は陽菜にはそういう角がない。
結菜の横目に、拓真が陽菜にだけ向ける“柔らかい”表情が映る。
「陽菜こそ、相変わらず完璧だな」
「やめて。照れる」
軽く笑い合う二人。
その空気は自然で、隙がなくて——
結菜は、胸の奥が小さく疼くのを感じた。
(……何よ、それ)
笑っているだけ。仕事の前の雑談。
そう分かっているのに、結菜は自分がその輪の外にいるみたいで、つい言葉に棘が混じる。
「今日は銀行さんも同席なのね。片岡さん、随分と手厚いこと」
「手厚いのはお前が——」
拓真が言いかけて止めた。
止めたことが、かえって苛立つ。言いかけた言葉が気になって、結菜の心がざわつく。
「私が何?」
「……いや。始めるぞ」
拓真が資料に視線を落とし、会議の顔になる。
結菜もそれに合わせて、背筋を伸ばす。
仕事。ここは仕事。
——そうやって切り替えられたら、楽なのに。
会議が進むにつれ、結菜は改めて腹が立った。
拓真は、やっぱり仕事ができる。判断が早い。数字の読み方が正確で、交渉の落としどころを見誤らない。
どこまでも余裕があって、隙がない。
(腹立つ。ほんとに)
結菜が資料の一箇所を指摘すると、拓真はすぐに反論し、さらに合理的な案を出してくる。
結菜は引かない。引けない。
この男にだけは負けたくない。
「朝霧さん、その案だと現場が回りません」
「現場が回らないのは、現場の設計が甘いからです。改善すべきはそこ」
「言い方が強いんだよ」
「強い? 正しいことを言うのに弱く言えって?」
拓真が小さく息を吐いた。
それが“呆れ”に見えて、結菜の胸が熱くなる。
その瞬間、陽菜の声がまた柔らかく入ってきた。
「結菜ちゃん、言いたいことは分かるけど……現場の人の顔も立ててあげて。ね?」
優しいのに、正論。
陽菜はいつも、敵を作らない。
結菜は一瞬、言葉に詰まった。
——それができない自分が、情けない。
「……分かってる。今の言い方は、よくなかった」
結菜がそう言うと、会議室の空気がふっと緩む。
陽菜が微笑み、若手社員がほっとしたように頷く。
そして、拓真だけが——結菜の横顔をじっと見ていた。
まるで、何かを探るみたいに。
結菜は視線を合わせない。
合わせたら、負ける気がした。
会議が終わり、社員たちが出ていく中、結菜は資料をまとめながら、拓真の声を聞いた。
「……お前、最近」
言いかけて止まる声。
「何?」
「いや。……別に」
それだけ言って、拓真は立ち上がった。
(なによ、それ)
結菜は心の中で毒づく。
聞きたいなら、最後まで言えばいい。
なのに拓真はいつも、肝心なところを言わない。
陽菜が結菜の肩にそっと触れる。
「二人とも、本当に仲いいよね」
「どこが」
「喧嘩できるのって、距離が近い証拠だよ」
陽菜は笑う。
結菜も笑い返そうとして、うまく笑えなかった。
距離が近い。
そんなふうに言われてしまうと、胸の痛みが増す。
(近いのに、届かない)
結菜は、まだ知らない。
この“喧嘩の距離”が、もうすぐ静かに壊れていくことを。
そして自分が、
拓真に言えないまま、ひとつの選択をさせられていくことを——。
栗色の巻き毛が、朝の光を受けると少しだけ赤みを帯びる。可愛らしい顔立ちだと言われるたび、結菜は曖昧に笑ってきた。可愛いだけでは守れないものがある、と知っているから。
最上階のフロアに出ると、空気が一段と硬い。重い絨毯の上を、ヒールの音が吸い込まれていく。
朝霧ホールディングスの本社——誰もが背筋を伸ばして歩く場所。社長令嬢である結菜の肩書きは、この空気において“守られている”という意味と同時に、“逃げられない”という意味も持っていた。
「朝霧さん、おはようございます」
秘書室の篠宮玲子が、いつも通り完璧な角度で一礼した。柔らかい笑顔の下で、目だけは鋭い。結菜が寝不足なのも、昨日の会食をひとつ忘れたことも、たぶん全部見抜いている。
「おはよう。今日の予定、変更ない?」
「九時、片岡グループの担当者と定例。十時半、役員会の事前資料確認。午後は——」
「待って。九時って……“片岡”?」
結菜の喉が、ほんの少し乾いた。
玲子は言葉の端を落ち着かせるように、淡々と続ける。
「片岡財閥、次期当主補佐……片岡拓真様が同席されるそうです」
「……は?」
結菜は思わず声が上ずった。
同席、という単語が、まるで嫌がらせのように胸に刺さる。
——片岡拓真。
財閥御曹司。仕事ができて、顔が良くて、腹が立つほど余裕があって、そして。
幼なじみ。
そんな彼と、結菜は会うたびに喧嘩になる。子どものころからずっと。
仲が悪い、というより——結菜にとって拓真は、負けたくない相手だった。
廊下の奥、会議室前のガラス越しに人影が見える。黒いスーツの背中。歩き方の癖。
見慣れすぎている。
結菜は息を整え、扉に手を伸ばした。
——ここは仕事の場。
幼なじみの喧嘩など、持ち込むべきではない。
そう思いながら、指先に力が入る。
扉を開けた瞬間、空気が変わる。
「遅い」
低く落ち着いた声が、真っ直ぐ刺さった。
片岡拓真は、椅子に深く腰掛け、片脚を組んでいた。
視線だけがこちらを見ている。
その目が、昔から結菜を苛立たせる——見透かしたように冷静で、なのに時々、何かを隠している目。
「おはようございます、片岡さん。遅れてません。時間ぴったりです」
「ぴったりって言うのは、五分前に入るやつが言う」
「あなた基準で会社を回してるわけじゃないので」
言い返した瞬間、自分でも分かる。
——ほら、こうなる。開口一番。
会議室の端で資料を並べていた若手社員が、肩を小さく震わせた。怯えているのか、笑いをこらえているのか分からない。
拓真の隣、すっと立ち上がった女性が、穏やかな声を差し挟む。
「二人とも、おはよう。朝から元気ね」
西園寺陽菜だった。
銀行令嬢。結菜と拓真の、もう一人の幼なじみ。
陽菜はいつもこうだ。場の温度を一瞬で下げずに、上品に整える。笑い方ひとつとっても、育ちの良さが滲む。
「陽菜、おはよう」
結菜が言うと、陽菜はふわりと微笑んだ。
「結菜ちゃん、髪が可愛い。栗色、今日特に綺麗」
「……ありがとう」
褒め言葉を素直に受け取れない自分が、少し嫌になる。
陽菜が言うと、本当に褒めているのが分かるから。
一方で、拓真は陽菜にはそういう角がない。
結菜の横目に、拓真が陽菜にだけ向ける“柔らかい”表情が映る。
「陽菜こそ、相変わらず完璧だな」
「やめて。照れる」
軽く笑い合う二人。
その空気は自然で、隙がなくて——
結菜は、胸の奥が小さく疼くのを感じた。
(……何よ、それ)
笑っているだけ。仕事の前の雑談。
そう分かっているのに、結菜は自分がその輪の外にいるみたいで、つい言葉に棘が混じる。
「今日は銀行さんも同席なのね。片岡さん、随分と手厚いこと」
「手厚いのはお前が——」
拓真が言いかけて止めた。
止めたことが、かえって苛立つ。言いかけた言葉が気になって、結菜の心がざわつく。
「私が何?」
「……いや。始めるぞ」
拓真が資料に視線を落とし、会議の顔になる。
結菜もそれに合わせて、背筋を伸ばす。
仕事。ここは仕事。
——そうやって切り替えられたら、楽なのに。
会議が進むにつれ、結菜は改めて腹が立った。
拓真は、やっぱり仕事ができる。判断が早い。数字の読み方が正確で、交渉の落としどころを見誤らない。
どこまでも余裕があって、隙がない。
(腹立つ。ほんとに)
結菜が資料の一箇所を指摘すると、拓真はすぐに反論し、さらに合理的な案を出してくる。
結菜は引かない。引けない。
この男にだけは負けたくない。
「朝霧さん、その案だと現場が回りません」
「現場が回らないのは、現場の設計が甘いからです。改善すべきはそこ」
「言い方が強いんだよ」
「強い? 正しいことを言うのに弱く言えって?」
拓真が小さく息を吐いた。
それが“呆れ”に見えて、結菜の胸が熱くなる。
その瞬間、陽菜の声がまた柔らかく入ってきた。
「結菜ちゃん、言いたいことは分かるけど……現場の人の顔も立ててあげて。ね?」
優しいのに、正論。
陽菜はいつも、敵を作らない。
結菜は一瞬、言葉に詰まった。
——それができない自分が、情けない。
「……分かってる。今の言い方は、よくなかった」
結菜がそう言うと、会議室の空気がふっと緩む。
陽菜が微笑み、若手社員がほっとしたように頷く。
そして、拓真だけが——結菜の横顔をじっと見ていた。
まるで、何かを探るみたいに。
結菜は視線を合わせない。
合わせたら、負ける気がした。
会議が終わり、社員たちが出ていく中、結菜は資料をまとめながら、拓真の声を聞いた。
「……お前、最近」
言いかけて止まる声。
「何?」
「いや。……別に」
それだけ言って、拓真は立ち上がった。
(なによ、それ)
結菜は心の中で毒づく。
聞きたいなら、最後まで言えばいい。
なのに拓真はいつも、肝心なところを言わない。
陽菜が結菜の肩にそっと触れる。
「二人とも、本当に仲いいよね」
「どこが」
「喧嘩できるのって、距離が近い証拠だよ」
陽菜は笑う。
結菜も笑い返そうとして、うまく笑えなかった。
距離が近い。
そんなふうに言われてしまうと、胸の痛みが増す。
(近いのに、届かない)
結菜は、まだ知らない。
この“喧嘩の距離”が、もうすぐ静かに壊れていくことを。
そして自分が、
拓真に言えないまま、ひとつの選択をさせられていくことを——。

