雨は降っていなかった。
それなのに、空はずっと重い。雲の色が、いつ泣き出してもおかしくない灰色を抱えたまま、東京の空に張りついている。
佐山家の応接間は、普段よりもきちんと整えられていた。
テーブルの花は白い。グラスは光を反射し、紅茶は香りだけが先に立つ。
“整っている”ほど、空気の緊張は濃くなる。
莉緒は背筋を伸ばして座っていた。
椅子の背の感触がやけに硬い。
自分の心まで、同じ硬さになっていく気がした。
向かいに座るのは父・佐山恒一。
いつもより笑顔が浅い。口角は上がっているのに、目が笑っていない。
隣には母。静かに、けれど確かに、莉緒の手の近くへ自分の手を置いている。触れない距離で――守るために。
扉が開き、黒いスーツの男が入ってくる。
西条グループ広報責任者、神原。
背筋の角度が正確で、挨拶の声にも無駄がない。
“火消し”を仕事にしている人の匂いがした。
その後ろに、陸が続いた。
黒いスーツ。整った横顔。
いつも通りのはずなのに、莉緒の胸は小さく跳ねた。
跳ねた自分を、莉緒はすぐ叩き伏せる。
(期待しない)
(期待したら、また痛い)
陸がこちらを見る。
視線が触れて、離れる。
その一瞬だけで、莉緒は言葉のない会話を探してしまう。
――探してはいけないのに。
そして最後に、空気が変わる足音が入ってきた。
西条雅臣。
西条グループ会長。陸の父。
年齢の割に背筋が伸び、歩幅に迷いがない。
挨拶は丁寧で、笑みも柔らかい。
だが、その柔らかさの奥にあるのは、“決定”だ。
「本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
会長が軽く頭を下げた。
父も母も同じように頭を下げる。
莉緒も、遅れない角度で頭を下げた。
婚約者として。
“役割”として。
席が整い、神原が資料を差し出す。
分厚い紙束。日程案、会場候補、招待客リスト。
文字が整然と並んでいるほど、逃げ道がなくなる。
会長が切り出した。
「早速ですが――婚約発表の時期を、前倒ししたい」
その言葉は、紅茶の香りすら切り裂いた。
父の指が、僅かにカップの取っ手を強く握る。
母のまつ毛が一度だけ揺れる。
莉緒の胸の奥で、何かが「すとん」と落ちた。
(前倒し……)
つまり、早める。
つまり、今の状態でも、外へ出す。
つまり――莉緒が逃げられないようにする。
「事情を伺っても?」
父は声を崩さない。
崩さないほど、追い詰められている。
会長は穏やかに答えた。
「世間の関心が高まっている今のうちに、正式な形を示した方がよい。不要な憶測を断ちたい」
不要な憶測。
――ホテル。
――寄り添い写真。
――九条麗奈。
言葉には出ないのに、意味だけがはっきりと刺さる。
神原が淡々と補足する。
「発表の準備はすでに整えてあります。会場、導線、取材対応も含めて。最短で進められます」
最短。
その単語が、莉緒の喉を締めた。
陸は黙っている。
黙っているのに、目だけが落ち着かない。
――言いたいことがあるのに言えない目。
莉緒はそこに希望を読み取りそうになって、慌てて視線を落とした。
(希望を読むな)
(希望は毒になる)
父が、少しだけ間を置いて言った。
「……我が社としても、西条家との縁は重要です。前向きに検討いたします」
検討。
その言葉が、実質的な“了承”だと莉緒にも分かった。
断れない。断ったら何が起きるか、父の顔が知っている。
会長が満足げに頷く。
「ありがとうございます。佐山家にとっても、悪い話ではないはずだ」
悪い話ではない。
その言い方が、莉緒にはひどく冷たく響いた。
(私の気持ちは、話に含まれていない)
胸の奥がきゅっと痛む。
痛いのに、表情は動かない。
動かさないことに、慣れてきてしまった。
会長の視線が、莉緒に向く。
「莉緒さん」
呼ばれただけで、背筋がさらに伸びた。
「あなたも準備があるだろうが、心配はいらない。西条の家が責任を持って支える」
責任。
支える。
優しい言葉のようでいて、“決定”を押しつける言葉。
「……ありがとうございます」
莉緒は微笑んで答えた。
完璧に。
それ以外の返事は許されないと知っているから。
その瞬間、隣に座る母がほんの少しだけ莉緒の手に触れた。
指先が一瞬重なる。
触れたのは一秒にも満たない。
でもその一秒が、涙を呼びそうで危なかった。
神原が資料のページをめくり、淡々と段取りを説明する。
「発表当日は、会長のご挨拶、続いて陸様、そして莉緒様のお言葉。質疑応答は制限します。写真撮影は指定位置で――」
莉緒のお言葉。
そんなもの、準備できるだろうか。
「幸せです」と言えばいいのだろうか。
胸が死んでいるのに。
陸が、初めて口を開いた。
「……父上」
声が低い。
抑えている。抑えすぎている。
会長が視線だけで促す。
「何だ」
陸は一瞬、莉緒を見た。
――助けて、みたいな目。
――ごめん、みたいな目。
その目に、莉緒は胸の奥が揺れた。
揺れた瞬間、すぐに殺す。
揺れたら期待が生まれる。期待は痛みになる。
「……莉緒の負担が大きい。急ぎすぎるのは――」
陸の言葉が、途中で止まった。
会長の視線が動かないからだ。
神原が一瞬だけ咳払いをして、会話を綺麗に切る。
「ご負担の軽減策も含めて、段取りを組んでおります。衣装、移動、控室、全てこちらで」
負担の軽減。
つまり、本人の意思は関係なく進めるということ。
会長が穏やかに、しかし決定を上書きするように言った。
「発表は必要だ。決めた」
その一言で、場は終わった。
父は笑顔のまま頷き、母も静かに頷く。
莉緒は微笑む。
微笑みは、鎧だ。
鎧の下で、心が小さく鳴る。
(逃げ場が……消えた)
婚約者として外へ出される。
噂を断つために、という名目で。
――噂の材料が、莉緒の心を壊しているのに。
打ち合わせが終わり、会長と神原が先に席を立った。
父と母が見送るために立つ。
一瞬だけ、応接間に陸と莉緒が残された。
扉が閉まる音が、やけに大きい。
陸が莉緒を見た。
言いたいことがある目。
言えない事情がある目。
「……莉緒」
呼ばれて、胸が跳ねる。
跳ねた瞬間、自分で踏みつける。
期待を殺す、と決めたのだから。
「はい、陸さん」
呼び方が丁寧すぎて、陸の瞳が僅かに揺れた。
その揺れが、痛い。
「無理をさせるつもりは――」
陸が言いかけた。
けれど続かない。
続ければ、何かを言わなければならなくなるから。
昨日の“違う”の続きを。
莉緒は微笑んだ。
完璧に。
「大丈夫です」
大丈夫じゃないのに。
でも大丈夫と言うしかない。
「発表の件、私……準備しますね」
それは婚約者として正しい言葉だった。
同時に、陸から心を遠ざける言葉でもあった。
陸の眉が僅かに寄る。
苛立ちではない。焦り。
掴めないものを掴もうとする焦り。
「莉緒、待て――」
陸が一歩踏み出しかけた。
けれど、その瞬間、扉が開き、父が戻ってくる。
「陸くん、会長が車を待たせている。すまないが――」
言葉が切れる。
陸の表情が一瞬だけ固くなる。
莉緒はそれを見て、胸の奥で冷たい結論を作ってしまう。
(結局、私はいつも後回し)
(優先されるのは、家と、仕事と……それから、あの人)
名前を出さない。
出したら、自分が壊れる。
陸が小さく息を吐き、父に頷いた。
「……分かった」
最後にもう一度だけ、莉緒を見る。
何か言いたい目。
謝りたい目。
莉緒は微笑み返した。
その微笑みが、刃になると知りながら。
「お疲れさまでした。陸さん」
陸は何も言わずに出ていく。
扉が閉まる。
残った莉緒は、背筋を伸ばしたまま呼吸をした。
深く吸って、深く吐けるはずなのに、胸が浅い。
母がそっと近づき、声を落として言った。
「莉緒、大丈夫?」
莉緒は微笑んだ。
「大丈夫よ」
――嘘。
でも嘘を言うことに、少しずつ慣れてしまっている。
窓の外で、また雨が落ち始めた。
細い針みたいな雨。
莉緒は思う。
婚約発表が前倒しされるということは、逃げ道が消えるということだ。
自分の心がどこへ逃げても、世間が追いかけてくる。
だから、閉ざすしかない。
閉ざして、笑って、役割をこなすしかない。
その日、莉緒の中で「婚約」は、恋の形ではなく、檻の形になった。
それなのに、空はずっと重い。雲の色が、いつ泣き出してもおかしくない灰色を抱えたまま、東京の空に張りついている。
佐山家の応接間は、普段よりもきちんと整えられていた。
テーブルの花は白い。グラスは光を反射し、紅茶は香りだけが先に立つ。
“整っている”ほど、空気の緊張は濃くなる。
莉緒は背筋を伸ばして座っていた。
椅子の背の感触がやけに硬い。
自分の心まで、同じ硬さになっていく気がした。
向かいに座るのは父・佐山恒一。
いつもより笑顔が浅い。口角は上がっているのに、目が笑っていない。
隣には母。静かに、けれど確かに、莉緒の手の近くへ自分の手を置いている。触れない距離で――守るために。
扉が開き、黒いスーツの男が入ってくる。
西条グループ広報責任者、神原。
背筋の角度が正確で、挨拶の声にも無駄がない。
“火消し”を仕事にしている人の匂いがした。
その後ろに、陸が続いた。
黒いスーツ。整った横顔。
いつも通りのはずなのに、莉緒の胸は小さく跳ねた。
跳ねた自分を、莉緒はすぐ叩き伏せる。
(期待しない)
(期待したら、また痛い)
陸がこちらを見る。
視線が触れて、離れる。
その一瞬だけで、莉緒は言葉のない会話を探してしまう。
――探してはいけないのに。
そして最後に、空気が変わる足音が入ってきた。
西条雅臣。
西条グループ会長。陸の父。
年齢の割に背筋が伸び、歩幅に迷いがない。
挨拶は丁寧で、笑みも柔らかい。
だが、その柔らかさの奥にあるのは、“決定”だ。
「本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
会長が軽く頭を下げた。
父も母も同じように頭を下げる。
莉緒も、遅れない角度で頭を下げた。
婚約者として。
“役割”として。
席が整い、神原が資料を差し出す。
分厚い紙束。日程案、会場候補、招待客リスト。
文字が整然と並んでいるほど、逃げ道がなくなる。
会長が切り出した。
「早速ですが――婚約発表の時期を、前倒ししたい」
その言葉は、紅茶の香りすら切り裂いた。
父の指が、僅かにカップの取っ手を強く握る。
母のまつ毛が一度だけ揺れる。
莉緒の胸の奥で、何かが「すとん」と落ちた。
(前倒し……)
つまり、早める。
つまり、今の状態でも、外へ出す。
つまり――莉緒が逃げられないようにする。
「事情を伺っても?」
父は声を崩さない。
崩さないほど、追い詰められている。
会長は穏やかに答えた。
「世間の関心が高まっている今のうちに、正式な形を示した方がよい。不要な憶測を断ちたい」
不要な憶測。
――ホテル。
――寄り添い写真。
――九条麗奈。
言葉には出ないのに、意味だけがはっきりと刺さる。
神原が淡々と補足する。
「発表の準備はすでに整えてあります。会場、導線、取材対応も含めて。最短で進められます」
最短。
その単語が、莉緒の喉を締めた。
陸は黙っている。
黙っているのに、目だけが落ち着かない。
――言いたいことがあるのに言えない目。
莉緒はそこに希望を読み取りそうになって、慌てて視線を落とした。
(希望を読むな)
(希望は毒になる)
父が、少しだけ間を置いて言った。
「……我が社としても、西条家との縁は重要です。前向きに検討いたします」
検討。
その言葉が、実質的な“了承”だと莉緒にも分かった。
断れない。断ったら何が起きるか、父の顔が知っている。
会長が満足げに頷く。
「ありがとうございます。佐山家にとっても、悪い話ではないはずだ」
悪い話ではない。
その言い方が、莉緒にはひどく冷たく響いた。
(私の気持ちは、話に含まれていない)
胸の奥がきゅっと痛む。
痛いのに、表情は動かない。
動かさないことに、慣れてきてしまった。
会長の視線が、莉緒に向く。
「莉緒さん」
呼ばれただけで、背筋がさらに伸びた。
「あなたも準備があるだろうが、心配はいらない。西条の家が責任を持って支える」
責任。
支える。
優しい言葉のようでいて、“決定”を押しつける言葉。
「……ありがとうございます」
莉緒は微笑んで答えた。
完璧に。
それ以外の返事は許されないと知っているから。
その瞬間、隣に座る母がほんの少しだけ莉緒の手に触れた。
指先が一瞬重なる。
触れたのは一秒にも満たない。
でもその一秒が、涙を呼びそうで危なかった。
神原が資料のページをめくり、淡々と段取りを説明する。
「発表当日は、会長のご挨拶、続いて陸様、そして莉緒様のお言葉。質疑応答は制限します。写真撮影は指定位置で――」
莉緒のお言葉。
そんなもの、準備できるだろうか。
「幸せです」と言えばいいのだろうか。
胸が死んでいるのに。
陸が、初めて口を開いた。
「……父上」
声が低い。
抑えている。抑えすぎている。
会長が視線だけで促す。
「何だ」
陸は一瞬、莉緒を見た。
――助けて、みたいな目。
――ごめん、みたいな目。
その目に、莉緒は胸の奥が揺れた。
揺れた瞬間、すぐに殺す。
揺れたら期待が生まれる。期待は痛みになる。
「……莉緒の負担が大きい。急ぎすぎるのは――」
陸の言葉が、途中で止まった。
会長の視線が動かないからだ。
神原が一瞬だけ咳払いをして、会話を綺麗に切る。
「ご負担の軽減策も含めて、段取りを組んでおります。衣装、移動、控室、全てこちらで」
負担の軽減。
つまり、本人の意思は関係なく進めるということ。
会長が穏やかに、しかし決定を上書きするように言った。
「発表は必要だ。決めた」
その一言で、場は終わった。
父は笑顔のまま頷き、母も静かに頷く。
莉緒は微笑む。
微笑みは、鎧だ。
鎧の下で、心が小さく鳴る。
(逃げ場が……消えた)
婚約者として外へ出される。
噂を断つために、という名目で。
――噂の材料が、莉緒の心を壊しているのに。
打ち合わせが終わり、会長と神原が先に席を立った。
父と母が見送るために立つ。
一瞬だけ、応接間に陸と莉緒が残された。
扉が閉まる音が、やけに大きい。
陸が莉緒を見た。
言いたいことがある目。
言えない事情がある目。
「……莉緒」
呼ばれて、胸が跳ねる。
跳ねた瞬間、自分で踏みつける。
期待を殺す、と決めたのだから。
「はい、陸さん」
呼び方が丁寧すぎて、陸の瞳が僅かに揺れた。
その揺れが、痛い。
「無理をさせるつもりは――」
陸が言いかけた。
けれど続かない。
続ければ、何かを言わなければならなくなるから。
昨日の“違う”の続きを。
莉緒は微笑んだ。
完璧に。
「大丈夫です」
大丈夫じゃないのに。
でも大丈夫と言うしかない。
「発表の件、私……準備しますね」
それは婚約者として正しい言葉だった。
同時に、陸から心を遠ざける言葉でもあった。
陸の眉が僅かに寄る。
苛立ちではない。焦り。
掴めないものを掴もうとする焦り。
「莉緒、待て――」
陸が一歩踏み出しかけた。
けれど、その瞬間、扉が開き、父が戻ってくる。
「陸くん、会長が車を待たせている。すまないが――」
言葉が切れる。
陸の表情が一瞬だけ固くなる。
莉緒はそれを見て、胸の奥で冷たい結論を作ってしまう。
(結局、私はいつも後回し)
(優先されるのは、家と、仕事と……それから、あの人)
名前を出さない。
出したら、自分が壊れる。
陸が小さく息を吐き、父に頷いた。
「……分かった」
最後にもう一度だけ、莉緒を見る。
何か言いたい目。
謝りたい目。
莉緒は微笑み返した。
その微笑みが、刃になると知りながら。
「お疲れさまでした。陸さん」
陸は何も言わずに出ていく。
扉が閉まる。
残った莉緒は、背筋を伸ばしたまま呼吸をした。
深く吸って、深く吐けるはずなのに、胸が浅い。
母がそっと近づき、声を落として言った。
「莉緒、大丈夫?」
莉緒は微笑んだ。
「大丈夫よ」
――嘘。
でも嘘を言うことに、少しずつ慣れてしまっている。
窓の外で、また雨が落ち始めた。
細い針みたいな雨。
莉緒は思う。
婚約発表が前倒しされるということは、逃げ道が消えるということだ。
自分の心がどこへ逃げても、世間が追いかけてくる。
だから、閉ざすしかない。
閉ざして、笑って、役割をこなすしかない。
その日、莉緒の中で「婚約」は、恋の形ではなく、檻の形になった。

