雨は、夕方になるほど細く冷たくなった。
まるで針の先だけが空から落ちてくるみたいに、音も痛みも小さいのに、体温を奪っていく。
慈善会場を出たとき、莉緒は自分の足がどこに着地しているのか分からなくなっていた。
笑った。頷いた。丁寧に受け答えをして、最後まで“何もなかった顔”を貫いた。
その代償が、今、遅れて押し寄せている。
(嘘じゃない善意ほど、残酷なものはない)
九条麗奈の微笑みを思い出す。
完璧な礼。優しい声。感謝の言葉。
「陸さまに助けていただいて」と、事実だけを置いていくあの言い方。
――助けた。
――送った。
――雨が苦手。
全部、正しい。
正しいから怒れない。
怒れないから、莉緒は自分を責めるしかなくなる。
(私が勝手に疑ってるだけ?)
(私が卑しい想像をしてるだけ?)
自分の心の汚れを、麗奈の白い微笑みで照らされる。
その感覚が、息を苦しくさせた。
黒川が傘を差し出す。
「お嬢さま、こちらへ」
「……ありがとう」
声は平静に出せた。
平静に出せるほど、壊れているとも言えた。
車の中は静かだった。
外の雨音は遠く、代わりに心の中の音だけが大きい。
鼓動が、胸の内側を叩く。
運転席越しに、黒川の背中が見える。
黒川は余計なことを言わない。
でも、時々バックミラー越しに視線が触れる。
――見ている。
守ろうとしている。
その優しさが、今の莉緒には痛かった。
佐山家へ戻ると、玄関の灯りが柔らかい。
いつもなら安心するはずの明るさが、今日はひどく眩しい。
「お嬢さま、お荷物を」
「自分で持てるから、大丈夫」
言い方が少し硬くなった。
黒川が一瞬だけ目を伏せ、何も言わずに頷く。
廊下を歩きながら、莉緒は呼吸を整えようとした。
整わない。
花の香りが鼻を掠めるだけで、会場の記憶が戻ってくる。
――麗奈の香り。
甘いのに冷たい。
優雅なのに、逃げ道を塞ぐ匂い。
その匂いは、陸の近くにある気がした。
陸のコートの湿り気に、ほんのり残っていたような気がした。
(気がした、でしかない)
それなのに胸が痛い。
部屋の前に立ち、取っ手に触れる。
扉の向こうは静かだ。
静かなはずなのに、怖い。
(もう、期待はしない)
(期待を殺すって決めたのに)
決めたはずなのに、心は勝手に陸を探す。
“違う”の続きを、まだどこかで待ってしまう。
その瞬間、スマートフォンが震えた。
短い着信表示。
――一条隼人。
莉緒の指が止まる。
隼人に出れば、少し息ができることを知っている。
知っているからこそ、怖い。
息ができたら、また泣いてしまうかもしれない。
それでも、指先が勝手に画面を滑らせた。
「……もしもし」
『莉緒? 今、帰った?』
隼人の声は、温度が一定だった。
心配しているのに、押しつけてこない声。
優しさを“圧”にしない声。
「うん……今、ちょうど」
『声、硬い。外に出てる? 家?』
たったそれだけで、喉の奥が熱くなった。
気づかれたくないのに、気づかれてしまう。
気づいてくれることが、悔しいほど嬉しい。
「家だよ。大丈夫」
『“大丈夫”は、今の莉緒が一番言う言葉だろ』
笑っているような声。
でも茶化していない。
――見透かして、受け止める声。
莉緒は答えられなかった。
言葉が出ない。
代わりに息だけが漏れた。
『…今から、少しだけ外に出られる? 近くまで行く』
「隼人、迷惑じゃ……」
『迷惑なら行かない。迷惑じゃないなら、出てこい』
短いのに、逃げ道を塞がない。
“選べる形”で差し出してくる。
莉緒の胸の奥で、固まっていたものがひび割れた。
ひび割れた隙間から、痛みが出る前に――空気が入ってくる。
「……うん。少しだけ」
『傘持って。雨、細いけど冷たい』
「……分かった」
電話を切った瞬間、莉緒は自分の頬に触れた。
濡れていない。
泣いていない。
泣く前に、逃げ場を作ってもらえた。
玄関を抜けると、空はもう暗かった。
街灯の光が雨を照らし、雨粒が白い糸みたいに見える。
傘を差しても、靴先が少しずつ濡れる。
門の外、道路脇に一台の車が停まっていた。
ハザードの点滅が、静かな呼吸みたいに淡く光る。
運転席のドアが開き、隼人が降りてくる。
黒いコート。手には傘。
それだけなのに、“味方が来た”と体が理解する。
「……遅かった?」
隼人が言う。
叱るでもなく、責めるでもなく。
「ううん」
莉緒は小さく首を振った。
声が、やっと自分のものに戻る。
隼人は距離を詰めすぎない。
でも、風が当たらない位置に立つ。
自然に莉緒の影になる。
その立ち方が、陸の傘の角度を思い出させて、胸がきゅっと痛んだ。
――違う。
陸は麗奈にそうした。
隼人は、私にそうしている。
比べたくないのに、比べてしまう。
比べるたび、莉緒は自分を責めた。
「少し、歩く?」
隼人が言った。
目的を作ってくれる。
“話せ”とは言わない。
歩くだけでいい、と言ってくれる。
「……うん」
二人で歩く。
雨音が傘に当たり、柔らかく響く。
大通りから少し入った静かな道。
コンビニの灯りが遠くに見えて、やけに温かい。
莉緒は息を吸って、吐いた。
驚くほど、息が深く入った。
(息ができる)
それだけで、胸が震えた。
隼人は、横目で莉緒を見た。
じっと見つめない。
見つめると圧になると知っているみたいに。
「今日、何かあった?」
優しい問い方。
でも、急かさない。
莉緒は笑おうとして、やめた。
笑顔を作るのに疲れていた。
「……何も、ないよ」
言った瞬間、喉が痛んだ。
嘘だ。
何もないはずがない。
隼人は頷く。
「そっか」
否定しない。
追い詰めない。
それが、どれほど救いか。
雨粒が頬の近くに落ち、冷たい。
冷たさが、逆に頭をすっきりさせた。
「……隼人」
莉緒が呼ぶと、隼人は「ん?」と短く返す。
それだけで、また呼吸ができる。
「私、変かな」
言葉が小さすぎて、自分でも驚いた。
自分がこんな問いを口にするなんて。
隼人は足を止めた。
でも、莉緒を見下ろさないように、少しだけ姿勢を低くする。
同じ目線になるように。
「変じゃない」
即答だった。
陸の「違う」とは違う即答。
切り捨てる否定じゃない。
抱きしめるような肯定。
莉緒の胸が、ひどく痛んだ。
痛いのに、少しだけ温かい。
「……でも」
続けたいのに、言葉が出ない。
“九条麗奈”の名前を口にしたら、全てが決定してしまう気がした。
隼人は言った。
「言わなくていい。今、無理に言わなくていい」
それは、逃がしてくれる言葉じゃない。
守ってくれる言葉だった。
莉緒は、やっと気づいた。
自分はここで、“何も言わなくてもいい場所”を求めていたのだと。
涙が、やっと出そうになる。
出そうになって、慌てて瞬きをする。
隼人はハンカチを取り出して、黙って差し出した。
優しくないふりをして。
でも、手は優しい。
「……ありがとう」
「礼はいらない」
ぶっきらぼうに言う。
照れ隠し。
その照れ隠しが、莉緒の心を少しだけ緩めた。
歩き出す。
コンビニの灯りの下で、隼人が温かい飲み物を買ってくれる。
甘すぎないココア。
莉緒の好みを、隼人は覚えている。
カップを両手で包むと、熱が指先から胸に上がってきた。
その熱が、ようやく“生きている”感覚を戻してくれる。
「……隼人」
「ん」
「私、どうしたらいいか分からない」
初めて、少しだけ本音が出た。
本音の欠片。
その欠片だけで、涙が喉元まで迫る。
隼人は、答えを急がない。
「分からないなら、分からないままでいい。今は」
“今は”。
陸も使った言葉。
でも、隼人の“今は”は違った。
未来へ引き延ばす言葉じゃなく、今を守る言葉だった。
莉緒は、カップの縁を見つめた。
湯気が立ち上り、視界が少し曇る。
曇りの中なら、泣いても隠せる気がした。
「……ごめんね。こんな時間に」
「謝るな」
短い。
でも、はっきりしている。
黒川が車で迎えに来る時間が近づき、隼人が立ち上がった。
「送らない。送ったら、お前がまた“気を使う”」
その線引きが、隼人らしい。
踏み込みすぎないことで、莉緒の逃げ場を守る。
「……うん」
莉緒が頷くと、隼人は一瞬だけ言いかけた。
「……陸のこと」
その名前が出た瞬間、莉緒の肩が僅かに跳ねる。
隼人はそれを見て、言葉を飲み込んだ。
「……いや。今日は、それでいい」
言わない。
でも、気づいている。
気づいているのに責めない。
それが、どれほど救いか。
隼人が背を向け、車へ戻ろうとする。
莉緒は、思わず呼び止めた。
「隼人」
隼人が振り返る。
「ありがとう。……息ができた」
隼人は少しだけ目を細めた。
笑ったのか、雨に目をやられただけなのか分からない程度に。
「なら、よかった」
それだけ言って、隼人は行った。
残された莉緒は、雨の下で深く息を吸った。
胸がまだ痛い。
でも、完全に潰れてはいない。
――この夜、莉緒は初めて“避難所”を知った。
そしてそれは、陸にとって最も怖い兆しになる。
黒川の車が近づき、ライトが雨を照らす。
ドアが開き、黒川が低く言った。
「……お嬢さま、寒くありませんか」
その声に、莉緒は小さく首を振った。
「大丈夫。……もう、大丈夫」
大丈夫じゃない。
でも、さっきよりは呼吸ができる。
それが、今の莉緒の全てだった。
車が動き出す。
窓ガラスを伝う雨粒が、細い線になる。
その線を見ながら莉緒は思う。
期待は殺したはずなのに、心はまだ陸を見てしまう。
――殺したのは恋じゃない。
恋を信じる力。
そして今、その力を取り戻せる場所を、隼人が作ってしまった。
それが、これからの拗れの始まりだった
まるで針の先だけが空から落ちてくるみたいに、音も痛みも小さいのに、体温を奪っていく。
慈善会場を出たとき、莉緒は自分の足がどこに着地しているのか分からなくなっていた。
笑った。頷いた。丁寧に受け答えをして、最後まで“何もなかった顔”を貫いた。
その代償が、今、遅れて押し寄せている。
(嘘じゃない善意ほど、残酷なものはない)
九条麗奈の微笑みを思い出す。
完璧な礼。優しい声。感謝の言葉。
「陸さまに助けていただいて」と、事実だけを置いていくあの言い方。
――助けた。
――送った。
――雨が苦手。
全部、正しい。
正しいから怒れない。
怒れないから、莉緒は自分を責めるしかなくなる。
(私が勝手に疑ってるだけ?)
(私が卑しい想像をしてるだけ?)
自分の心の汚れを、麗奈の白い微笑みで照らされる。
その感覚が、息を苦しくさせた。
黒川が傘を差し出す。
「お嬢さま、こちらへ」
「……ありがとう」
声は平静に出せた。
平静に出せるほど、壊れているとも言えた。
車の中は静かだった。
外の雨音は遠く、代わりに心の中の音だけが大きい。
鼓動が、胸の内側を叩く。
運転席越しに、黒川の背中が見える。
黒川は余計なことを言わない。
でも、時々バックミラー越しに視線が触れる。
――見ている。
守ろうとしている。
その優しさが、今の莉緒には痛かった。
佐山家へ戻ると、玄関の灯りが柔らかい。
いつもなら安心するはずの明るさが、今日はひどく眩しい。
「お嬢さま、お荷物を」
「自分で持てるから、大丈夫」
言い方が少し硬くなった。
黒川が一瞬だけ目を伏せ、何も言わずに頷く。
廊下を歩きながら、莉緒は呼吸を整えようとした。
整わない。
花の香りが鼻を掠めるだけで、会場の記憶が戻ってくる。
――麗奈の香り。
甘いのに冷たい。
優雅なのに、逃げ道を塞ぐ匂い。
その匂いは、陸の近くにある気がした。
陸のコートの湿り気に、ほんのり残っていたような気がした。
(気がした、でしかない)
それなのに胸が痛い。
部屋の前に立ち、取っ手に触れる。
扉の向こうは静かだ。
静かなはずなのに、怖い。
(もう、期待はしない)
(期待を殺すって決めたのに)
決めたはずなのに、心は勝手に陸を探す。
“違う”の続きを、まだどこかで待ってしまう。
その瞬間、スマートフォンが震えた。
短い着信表示。
――一条隼人。
莉緒の指が止まる。
隼人に出れば、少し息ができることを知っている。
知っているからこそ、怖い。
息ができたら、また泣いてしまうかもしれない。
それでも、指先が勝手に画面を滑らせた。
「……もしもし」
『莉緒? 今、帰った?』
隼人の声は、温度が一定だった。
心配しているのに、押しつけてこない声。
優しさを“圧”にしない声。
「うん……今、ちょうど」
『声、硬い。外に出てる? 家?』
たったそれだけで、喉の奥が熱くなった。
気づかれたくないのに、気づかれてしまう。
気づいてくれることが、悔しいほど嬉しい。
「家だよ。大丈夫」
『“大丈夫”は、今の莉緒が一番言う言葉だろ』
笑っているような声。
でも茶化していない。
――見透かして、受け止める声。
莉緒は答えられなかった。
言葉が出ない。
代わりに息だけが漏れた。
『…今から、少しだけ外に出られる? 近くまで行く』
「隼人、迷惑じゃ……」
『迷惑なら行かない。迷惑じゃないなら、出てこい』
短いのに、逃げ道を塞がない。
“選べる形”で差し出してくる。
莉緒の胸の奥で、固まっていたものがひび割れた。
ひび割れた隙間から、痛みが出る前に――空気が入ってくる。
「……うん。少しだけ」
『傘持って。雨、細いけど冷たい』
「……分かった」
電話を切った瞬間、莉緒は自分の頬に触れた。
濡れていない。
泣いていない。
泣く前に、逃げ場を作ってもらえた。
玄関を抜けると、空はもう暗かった。
街灯の光が雨を照らし、雨粒が白い糸みたいに見える。
傘を差しても、靴先が少しずつ濡れる。
門の外、道路脇に一台の車が停まっていた。
ハザードの点滅が、静かな呼吸みたいに淡く光る。
運転席のドアが開き、隼人が降りてくる。
黒いコート。手には傘。
それだけなのに、“味方が来た”と体が理解する。
「……遅かった?」
隼人が言う。
叱るでもなく、責めるでもなく。
「ううん」
莉緒は小さく首を振った。
声が、やっと自分のものに戻る。
隼人は距離を詰めすぎない。
でも、風が当たらない位置に立つ。
自然に莉緒の影になる。
その立ち方が、陸の傘の角度を思い出させて、胸がきゅっと痛んだ。
――違う。
陸は麗奈にそうした。
隼人は、私にそうしている。
比べたくないのに、比べてしまう。
比べるたび、莉緒は自分を責めた。
「少し、歩く?」
隼人が言った。
目的を作ってくれる。
“話せ”とは言わない。
歩くだけでいい、と言ってくれる。
「……うん」
二人で歩く。
雨音が傘に当たり、柔らかく響く。
大通りから少し入った静かな道。
コンビニの灯りが遠くに見えて、やけに温かい。
莉緒は息を吸って、吐いた。
驚くほど、息が深く入った。
(息ができる)
それだけで、胸が震えた。
隼人は、横目で莉緒を見た。
じっと見つめない。
見つめると圧になると知っているみたいに。
「今日、何かあった?」
優しい問い方。
でも、急かさない。
莉緒は笑おうとして、やめた。
笑顔を作るのに疲れていた。
「……何も、ないよ」
言った瞬間、喉が痛んだ。
嘘だ。
何もないはずがない。
隼人は頷く。
「そっか」
否定しない。
追い詰めない。
それが、どれほど救いか。
雨粒が頬の近くに落ち、冷たい。
冷たさが、逆に頭をすっきりさせた。
「……隼人」
莉緒が呼ぶと、隼人は「ん?」と短く返す。
それだけで、また呼吸ができる。
「私、変かな」
言葉が小さすぎて、自分でも驚いた。
自分がこんな問いを口にするなんて。
隼人は足を止めた。
でも、莉緒を見下ろさないように、少しだけ姿勢を低くする。
同じ目線になるように。
「変じゃない」
即答だった。
陸の「違う」とは違う即答。
切り捨てる否定じゃない。
抱きしめるような肯定。
莉緒の胸が、ひどく痛んだ。
痛いのに、少しだけ温かい。
「……でも」
続けたいのに、言葉が出ない。
“九条麗奈”の名前を口にしたら、全てが決定してしまう気がした。
隼人は言った。
「言わなくていい。今、無理に言わなくていい」
それは、逃がしてくれる言葉じゃない。
守ってくれる言葉だった。
莉緒は、やっと気づいた。
自分はここで、“何も言わなくてもいい場所”を求めていたのだと。
涙が、やっと出そうになる。
出そうになって、慌てて瞬きをする。
隼人はハンカチを取り出して、黙って差し出した。
優しくないふりをして。
でも、手は優しい。
「……ありがとう」
「礼はいらない」
ぶっきらぼうに言う。
照れ隠し。
その照れ隠しが、莉緒の心を少しだけ緩めた。
歩き出す。
コンビニの灯りの下で、隼人が温かい飲み物を買ってくれる。
甘すぎないココア。
莉緒の好みを、隼人は覚えている。
カップを両手で包むと、熱が指先から胸に上がってきた。
その熱が、ようやく“生きている”感覚を戻してくれる。
「……隼人」
「ん」
「私、どうしたらいいか分からない」
初めて、少しだけ本音が出た。
本音の欠片。
その欠片だけで、涙が喉元まで迫る。
隼人は、答えを急がない。
「分からないなら、分からないままでいい。今は」
“今は”。
陸も使った言葉。
でも、隼人の“今は”は違った。
未来へ引き延ばす言葉じゃなく、今を守る言葉だった。
莉緒は、カップの縁を見つめた。
湯気が立ち上り、視界が少し曇る。
曇りの中なら、泣いても隠せる気がした。
「……ごめんね。こんな時間に」
「謝るな」
短い。
でも、はっきりしている。
黒川が車で迎えに来る時間が近づき、隼人が立ち上がった。
「送らない。送ったら、お前がまた“気を使う”」
その線引きが、隼人らしい。
踏み込みすぎないことで、莉緒の逃げ場を守る。
「……うん」
莉緒が頷くと、隼人は一瞬だけ言いかけた。
「……陸のこと」
その名前が出た瞬間、莉緒の肩が僅かに跳ねる。
隼人はそれを見て、言葉を飲み込んだ。
「……いや。今日は、それでいい」
言わない。
でも、気づいている。
気づいているのに責めない。
それが、どれほど救いか。
隼人が背を向け、車へ戻ろうとする。
莉緒は、思わず呼び止めた。
「隼人」
隼人が振り返る。
「ありがとう。……息ができた」
隼人は少しだけ目を細めた。
笑ったのか、雨に目をやられただけなのか分からない程度に。
「なら、よかった」
それだけ言って、隼人は行った。
残された莉緒は、雨の下で深く息を吸った。
胸がまだ痛い。
でも、完全に潰れてはいない。
――この夜、莉緒は初めて“避難所”を知った。
そしてそれは、陸にとって最も怖い兆しになる。
黒川の車が近づき、ライトが雨を照らす。
ドアが開き、黒川が低く言った。
「……お嬢さま、寒くありませんか」
その声に、莉緒は小さく首を振った。
「大丈夫。……もう、大丈夫」
大丈夫じゃない。
でも、さっきよりは呼吸ができる。
それが、今の莉緒の全てだった。
車が動き出す。
窓ガラスを伝う雨粒が、細い線になる。
その線を見ながら莉緒は思う。
期待は殺したはずなのに、心はまだ陸を見てしまう。
――殺したのは恋じゃない。
恋を信じる力。
そして今、その力を取り戻せる場所を、隼人が作ってしまった。
それが、これからの拗れの始まりだった

