翌朝、雨は一旦止んでいた。
空は薄い灰色のまま、泣くのを我慢している顔をしている。
莉緒は窓辺でカーテンを少しだけ開け、その色を確かめた。
(雨じゃないんだ)
それだけで、胸がざわついた。
雨なら、泣いても隠せる。
晴れ間のある日ほど、心の傷が目立つ気がする。
鏡の前で髪を整える。
リップを薄くのせ、口角の角度を調整する。
笑顔は、作れる。
作れてしまう。
――昨日、麗奈は完璧に微笑み、「陸さまに助けていただいて」と事実だけを置いて去っていった。
嘘がないのに、胸の中がぐちゃぐちゃになった。
怒れない。反論できない。
だから莉緒は、自分の中の“反応する部分”を殺すしかない、と悟った。
(期待をしなければ、傷つかない)
(期待を殺せば、針は刺さらない)
その結論が、静かに、冷たく、正しい形をしていた。
正しい形をしているものは、一度握ると手放せない。
玄関ホールへ降りると、黒川がすでに待っていた。
「お嬢さま、本日は西条家へ」
「……はい」
西条家での昼食会。
婚約者としての立ち位置を固めるための“顔合わせ”の延長。
この時期に呼ばれる意味は分かっている。
――確認だ。
佐山莉緒が、まだ“西条の婚約者”として機能するかどうかの。
車に乗り込む。
窓の外の景色は滑るように流れていくのに、莉緒の心だけが置き去りになる。
西条家の邸は、静かに威圧してくる美しさだった。
門から玄関までの距離が、訪れる者に姿勢を正させる。
庭の手入れは完璧で、砂利の音さえ計算されているように思える。
迎えに出たのは西条香織――陸の母だった。
淡い色の和装。所作は柔らかいのに、目が鋭い。
「いらっしゃい、莉緒さん」
名前を呼ぶ声は優しい。
優しいからこそ、逃げられない。
「本日はお招きいただき、ありがとうございます」
莉緒は深く頭を下げた。
笑顔は上手に作れた。
胸の奥が痛んでも、頬は上がる。
応接間には、季節の花が飾られていた。
甘い香りが漂う。
昨日の会場と同じ種類の匂いがして、莉緒は一瞬だけ息が詰まった。
(花の匂いって、こんなに苦しかったっけ)
香織が紅茶を勧め、世間話を始める。
丁寧な言葉。丁寧な微笑み。
その丁寧さが、莉緒の心を少しずつ削っていく。
「この前の慈善の会、九条さんもいらしていたそうね」
不意に、名前が出た。
香織の声は穏やかだ。
確認でも、噂でもなく、“ただの話題”のように。
けれど莉緒の内側では、針が一本、刺さった。
「……はい。お見かけしました」
声は平静。
平静にできる。
できてしまう。
香織は微笑んだまま、続ける。
「陸は……困った子でしょう?」
困った子。
まるで恋人の浮気を嗜めるような言い方。
莉緒は喉の奥がきゅっと痛む。
「いえ……陸さんは、とてもお忙しいだけです」
答えが、整いすぎていた。
“良い婚約者”の模範解答。
香織の視線が、ほんの一瞬だけ莉緒の目元に留まった。
泣いていないかを確かめるように。
そして、泣いていないことに満足したように、視線を戻す。
「そう。なら安心ね」
安心。
誰が、何に安心したのか。
莉緒は考えるのをやめた。考えるほど痛いから。
そこへ、足音がした。
扉が開き、陸が入ってくる。
黒いスーツ。冷静な横顔。
いつも通り、整っている。
――その整いが、今日も怖い。
「母上」
陸が香織に軽く会釈し、それから莉緒を見る。
「……莉緒」
呼ばれただけで胸が跳ねる。
跳ねた心臓を、莉緒は叩き伏せる。
(期待しない)
(期待しない)
莉緒は立ち上がり、完璧な微笑みを差し出した。
「本日はお時間をいただき、ありがとうございます。陸さん」
言葉が丁寧すぎて、自分でも驚いた。
“陸くん”はもう出てこない。
出したら、自分が壊れる。
陸の眉が、僅かに動く。
違和感に気づいたように。
けれど、何が違うのか掴めない目。
「……こちらこそ」
陸は短く答えた。
その短さが、以前なら“照れ”に見えたかもしれない。
けれど今は、ただの距離にしか見えない。
昼食が運ばれる。
銀のカトラリー、白い皿。
会話は天気と、事業と、次の会合。
すべてが“正しい話”で埋め尽くされていく。
莉緒は笑う。
頷く。
相槌を打つ。
――“良い婚約者”として。
けれど、陸は何度も莉緒を見ていた。
会話の隙間で。
皿に手を伸ばす瞬間。
笑う角度。
声の高さ。
探しているのだ。
いつもの莉緒を。
自分にだけ向けられていた、柔らかい表情を。
莉緒はそれを出さない。
出したら期待が戻る。
期待が戻れば、また刺さる。
香織が席を外した。
二人きりになる瞬間が生まれる。
空気が変わる。
花の香りが、より濃く感じる。
「……莉緒」
陸が低く呼んだ。
何か言いたそうな声。
昨夜の食卓の続きみたいな声。
莉緒は微笑んだまま、視線を上げる。
「はい。何か?」
“何か?”
その言葉は、扉を閉める合図だった。
陸の瞳が、僅かに揺れる。
戸惑い。焦り。
それでも、彼は踏み込めない。
「……いや」
陸はそれだけ言った。
言葉を探し、諦めたみたいに。
莉緒は頷いた。
頷きが上手すぎて、自分でも怖い。
「そうですか」
会話が終わる。
終わらせたのは、莉緒だ。
それなのに、胸が痛い。
痛いのに、楽でもある。
期待を殺すというのは、こういう感覚なのだと、莉緒は知ってしまった。
帰り際。
玄関まで送る陸の足音が、少しだけ焦っている。
「莉緒」
呼ばれた。
それでも莉緒は振り向く速度を遅くした。
“急がない”ことが、今の自分の盾になる。
「はい、陸さん」
陸は一歩近づきかけて、止まった。
伸ばしかけた手を、握り込むように下ろす。
「……何か、あったのか」
問いは、まっすぐだった。
でも莉緒の心は、まっすぐには返せない。
莉緒は微笑んだ。
完璧に。
「何もありません。私、少し……忙しくて」
忙しい。
便利な言葉。
忙しいと言えば、感情を隠せる。
陸の目が、ほんの少しだけ細くなる。
苛立ちではない。痛みだ。
それが分かってしまうから、莉緒は視線を逸らした。
「……送ろう」
「大丈夫です。黒川が待っていますから」
丁寧に断る。
丁寧な断りは、拒絶より残酷だ。
陸が何か言いかけた。
でも言えない。
言えない理由がある。
――莉緒の中で、また同じ結論が強くなる。
(言えないのは、私が“本当”じゃないから)
(私が婚約者でも、選ばれるのは別の人だから)
車に乗り込む直前、莉緒は軽く頭を下げた。
「本日はありがとうございました」
婚約者として、完璧な礼。
黒川がドアを閉める。
外の空気が切り離され、車内が静かになる。
窓の外に立つ陸の姿が、少しずつ遠ざかる。
彼が追ってくる気配はない。
追ってこられない事情がある。
――そう思ってしまう自分がいる。
莉緒は膝の上で指先を握りしめた。
爪が掌に食い込む痛みが、安心に近かった。
(こうやって、距離を取ればいい)
(丁寧に、笑って、離れればいい)
期待を殺す。
恋を殺すのではなく、恋を信じる力を殺す。
それができれば、きっと、これ以上は痛くならない。
窓の外で、細い雨がまた降り始めた。
針みたいな雨が、ガラスを叩く。
莉緒は笑っていない。
泣いてもいない。
ただ、静かに“上手になっていく”自分を感じていた。
――大切な人から離れることに。
空は薄い灰色のまま、泣くのを我慢している顔をしている。
莉緒は窓辺でカーテンを少しだけ開け、その色を確かめた。
(雨じゃないんだ)
それだけで、胸がざわついた。
雨なら、泣いても隠せる。
晴れ間のある日ほど、心の傷が目立つ気がする。
鏡の前で髪を整える。
リップを薄くのせ、口角の角度を調整する。
笑顔は、作れる。
作れてしまう。
――昨日、麗奈は完璧に微笑み、「陸さまに助けていただいて」と事実だけを置いて去っていった。
嘘がないのに、胸の中がぐちゃぐちゃになった。
怒れない。反論できない。
だから莉緒は、自分の中の“反応する部分”を殺すしかない、と悟った。
(期待をしなければ、傷つかない)
(期待を殺せば、針は刺さらない)
その結論が、静かに、冷たく、正しい形をしていた。
正しい形をしているものは、一度握ると手放せない。
玄関ホールへ降りると、黒川がすでに待っていた。
「お嬢さま、本日は西条家へ」
「……はい」
西条家での昼食会。
婚約者としての立ち位置を固めるための“顔合わせ”の延長。
この時期に呼ばれる意味は分かっている。
――確認だ。
佐山莉緒が、まだ“西条の婚約者”として機能するかどうかの。
車に乗り込む。
窓の外の景色は滑るように流れていくのに、莉緒の心だけが置き去りになる。
西条家の邸は、静かに威圧してくる美しさだった。
門から玄関までの距離が、訪れる者に姿勢を正させる。
庭の手入れは完璧で、砂利の音さえ計算されているように思える。
迎えに出たのは西条香織――陸の母だった。
淡い色の和装。所作は柔らかいのに、目が鋭い。
「いらっしゃい、莉緒さん」
名前を呼ぶ声は優しい。
優しいからこそ、逃げられない。
「本日はお招きいただき、ありがとうございます」
莉緒は深く頭を下げた。
笑顔は上手に作れた。
胸の奥が痛んでも、頬は上がる。
応接間には、季節の花が飾られていた。
甘い香りが漂う。
昨日の会場と同じ種類の匂いがして、莉緒は一瞬だけ息が詰まった。
(花の匂いって、こんなに苦しかったっけ)
香織が紅茶を勧め、世間話を始める。
丁寧な言葉。丁寧な微笑み。
その丁寧さが、莉緒の心を少しずつ削っていく。
「この前の慈善の会、九条さんもいらしていたそうね」
不意に、名前が出た。
香織の声は穏やかだ。
確認でも、噂でもなく、“ただの話題”のように。
けれど莉緒の内側では、針が一本、刺さった。
「……はい。お見かけしました」
声は平静。
平静にできる。
できてしまう。
香織は微笑んだまま、続ける。
「陸は……困った子でしょう?」
困った子。
まるで恋人の浮気を嗜めるような言い方。
莉緒は喉の奥がきゅっと痛む。
「いえ……陸さんは、とてもお忙しいだけです」
答えが、整いすぎていた。
“良い婚約者”の模範解答。
香織の視線が、ほんの一瞬だけ莉緒の目元に留まった。
泣いていないかを確かめるように。
そして、泣いていないことに満足したように、視線を戻す。
「そう。なら安心ね」
安心。
誰が、何に安心したのか。
莉緒は考えるのをやめた。考えるほど痛いから。
そこへ、足音がした。
扉が開き、陸が入ってくる。
黒いスーツ。冷静な横顔。
いつも通り、整っている。
――その整いが、今日も怖い。
「母上」
陸が香織に軽く会釈し、それから莉緒を見る。
「……莉緒」
呼ばれただけで胸が跳ねる。
跳ねた心臓を、莉緒は叩き伏せる。
(期待しない)
(期待しない)
莉緒は立ち上がり、完璧な微笑みを差し出した。
「本日はお時間をいただき、ありがとうございます。陸さん」
言葉が丁寧すぎて、自分でも驚いた。
“陸くん”はもう出てこない。
出したら、自分が壊れる。
陸の眉が、僅かに動く。
違和感に気づいたように。
けれど、何が違うのか掴めない目。
「……こちらこそ」
陸は短く答えた。
その短さが、以前なら“照れ”に見えたかもしれない。
けれど今は、ただの距離にしか見えない。
昼食が運ばれる。
銀のカトラリー、白い皿。
会話は天気と、事業と、次の会合。
すべてが“正しい話”で埋め尽くされていく。
莉緒は笑う。
頷く。
相槌を打つ。
――“良い婚約者”として。
けれど、陸は何度も莉緒を見ていた。
会話の隙間で。
皿に手を伸ばす瞬間。
笑う角度。
声の高さ。
探しているのだ。
いつもの莉緒を。
自分にだけ向けられていた、柔らかい表情を。
莉緒はそれを出さない。
出したら期待が戻る。
期待が戻れば、また刺さる。
香織が席を外した。
二人きりになる瞬間が生まれる。
空気が変わる。
花の香りが、より濃く感じる。
「……莉緒」
陸が低く呼んだ。
何か言いたそうな声。
昨夜の食卓の続きみたいな声。
莉緒は微笑んだまま、視線を上げる。
「はい。何か?」
“何か?”
その言葉は、扉を閉める合図だった。
陸の瞳が、僅かに揺れる。
戸惑い。焦り。
それでも、彼は踏み込めない。
「……いや」
陸はそれだけ言った。
言葉を探し、諦めたみたいに。
莉緒は頷いた。
頷きが上手すぎて、自分でも怖い。
「そうですか」
会話が終わる。
終わらせたのは、莉緒だ。
それなのに、胸が痛い。
痛いのに、楽でもある。
期待を殺すというのは、こういう感覚なのだと、莉緒は知ってしまった。
帰り際。
玄関まで送る陸の足音が、少しだけ焦っている。
「莉緒」
呼ばれた。
それでも莉緒は振り向く速度を遅くした。
“急がない”ことが、今の自分の盾になる。
「はい、陸さん」
陸は一歩近づきかけて、止まった。
伸ばしかけた手を、握り込むように下ろす。
「……何か、あったのか」
問いは、まっすぐだった。
でも莉緒の心は、まっすぐには返せない。
莉緒は微笑んだ。
完璧に。
「何もありません。私、少し……忙しくて」
忙しい。
便利な言葉。
忙しいと言えば、感情を隠せる。
陸の目が、ほんの少しだけ細くなる。
苛立ちではない。痛みだ。
それが分かってしまうから、莉緒は視線を逸らした。
「……送ろう」
「大丈夫です。黒川が待っていますから」
丁寧に断る。
丁寧な断りは、拒絶より残酷だ。
陸が何か言いかけた。
でも言えない。
言えない理由がある。
――莉緒の中で、また同じ結論が強くなる。
(言えないのは、私が“本当”じゃないから)
(私が婚約者でも、選ばれるのは別の人だから)
車に乗り込む直前、莉緒は軽く頭を下げた。
「本日はありがとうございました」
婚約者として、完璧な礼。
黒川がドアを閉める。
外の空気が切り離され、車内が静かになる。
窓の外に立つ陸の姿が、少しずつ遠ざかる。
彼が追ってくる気配はない。
追ってこられない事情がある。
――そう思ってしまう自分がいる。
莉緒は膝の上で指先を握りしめた。
爪が掌に食い込む痛みが、安心に近かった。
(こうやって、距離を取ればいい)
(丁寧に、笑って、離れればいい)
期待を殺す。
恋を殺すのではなく、恋を信じる力を殺す。
それができれば、きっと、これ以上は痛くならない。
窓の外で、細い雨がまた降り始めた。
針みたいな雨が、ガラスを叩く。
莉緒は笑っていない。
泣いてもいない。
ただ、静かに“上手になっていく”自分を感じていた。
――大切な人から離れることに。

