幼馴染の婚約者は、別の女に寄り添う


 雨は止んだり降ったりを繰り返していた。
 止んだ瞬間に安心した心へ、思い出したようにまた細い針を落としてくる。まるで、莉緒の胸の内を知っているみたいに。

 佐山家の車が会場前に止まる。
 慈善事業のレセプション――寄付者の顔合わせと、次期プロジェクトの説明会。
 断れない。欠席すれば“何かあった”と噂が増える。
 何もなかった顔で、何もなかったふりをして、立っていなければならない場所だ。

 黒川がドアを開け、傘を差し出す。

「お嬢さま、足元を」

「……ありがとう」

 雨は弱い。だが、空気は湿っている。
 湿った匂いは、あのホテルの回廊を思い出させる。
 莉緒は胸の奥に小さく息を押し込めた。

 会場のサロンは、白と金で統一されていた。
 天井のシャンデリアは過剰なほど煌めき、薄い花の香りが空気に溶ける。
 足を踏み入れた瞬間、莉緒は“ここでは泣けない”と身体が理解する。

 背筋を伸ばす。
 口角を上げる。
 まぶたの力を抜く。
 ――完璧な令嬢の顔を作る。

「莉緒、こっち!」

 佐倉美紗が手を振った。
 普段より少し高い声。莉緒の様子を探っている声。

「……美紗」

 微笑みを返すと、美紗がほっとしたように見えた。
 ほっとされたことが、逆に苦しい。
 “平気な顔”ができてしまう自分が怖い。

「体調、もう大丈夫? 昨日……っていうか最近、無理してるでしょ」

「大丈夫だよ。ちょっと寝不足なだけ」

 嘘ではない。
 眠れない夜が続いた。目を閉じると、あの傘の角度が浮かぶから。

 受付で挨拶を済ませ、資料を受け取る。
 テーブルには寄付金額の一覧、プロジェクト概要、協賛企業のロゴ。
 ここにいる人たちにとって、慈善は“善意”と“顔”の両方だ。
 善意を装った刃を、莉緒は何度も見てきた。
 だからこそ、今日の自分が一番恐れているのは――善意そのものだった。

 説明会が始まる。
 壇上の司会が柔らかい声で進め、拍手が起こる。
 莉緒は資料に視線を落としながら、頭の片隅で周囲の気配を測っていた。

(“九条麗奈”の名前が、ここで出たら……)

 そんな心配は、願うほど叶うものだ。

 休憩の時間。
 人が立ち上がり、グラスが触れ合い、笑い声がふわりと広がる。
 そして――その中心を割るように、空気が変わった。

 香水の匂いが、風みたいに滑り込んでくる。
 甘いのに冷たい。上品なのに、逃げ道を塞ぐ匂い。

 莉緒は、見なくても分かった。
 振り向く前から、身体が硬くなる。

「佐山さま」

 声は鈴のように澄んでいた。
 綺麗すぎて、拒絶する理由が見つからない。

 莉緒が顔を上げると、そこに九条麗奈が立っていた。

 艶やかな黒髪。白い肌。柔らかい微笑み。
 視線は優雅で、礼儀も完璧。
 ――完璧だからこそ、怖い。

「お久しぶりです。お元気そうで安心しました」

 麗奈は微笑みを崩さないまま、軽く頭を下げた。
 その所作は、誰が見ても“良い人”のそれだった。

「……九条さま。お久しぶりです」

 莉緒も頭を下げる。
 指先が冷えるのを隠すように、資料を持つ手に力を込める。

 美紗がさりげなく莉緒の横に立つ。
 “盾”のつもりなのだろう。
 その優しさが嬉しいのに、胸の奥がさらに痛む。

 麗奈の瞳が、莉緒だけを丁寧に見つめた。
 そこに敵意はない。
 ないからこそ、逃げられない。

「先日は……突然で、驚かせてしまいましたよね」

 先日。
 ホテルのロビー。
 雨。
 傘。
 寄り添う影。

 莉緒の喉が、ひくりと鳴った。
 “突然”という言葉が、まるで偶然の事故みたいにすり替える。
 ――偶然なら、誰も責められない。
 責められないものは、一番拗れる。

「……いえ」

 莉緒は笑った。
 上手に。
 心の奥を見せない笑い方で。

 麗奈は、さらに一歩だけ近づいた。
 距離は詰めるのに、圧は感じさせない。
 それが彼女の恐ろしさだった。

「陸さまに助けていただいて……本当に感謝しているんです」

 ――助けて。

 その言葉が、莉緒の胸の奥へ落ちた。
 音を立てずに。
 けれど確実に、沈んでいく。

 助けていただいて。
 それは事実なのだろう。
 嘘ではないのだろう。
 嘘じゃないからこそ、莉緒は怒れない。

(何を助けたの)
(どんなふうに)
(どこまで)

 質問が喉まで来て、全部飲み込む。
 聞いたら、惨めになる。
 聞いたら、自分が“疑う女”になる。

 麗奈は微笑んだまま続ける。

「雨が苦手で……少し気分が悪くなってしまって。陸さまが、すぐに車まで送ってくださいました」

 筋が通っている。
 礼儀正しい。
 美しい。
 ――完璧な説明だ。

 けれど莉緒の脳裏には、説明に含まれない映像がある。
 髪を払った指先。
 袖に触れた手。
 傘の角度。
 恋人みたいな距離。

 説明が完璧であればあるほど、莉緒は自分の記憶が“悪い解釈”をしたみたいに思えてしまう。

(私が、勝手に……)
(私が、卑しい想像を……)

 自分を責める方向へ、心が滑っていく。
 それが、麗奈の“善意”の毒だった。

 美紗が耐えきれずに口を挟む。

「九条さま、それは……よかったですね。でも、陸さんもお忙しいでしょうに」

 麗奈は微笑みを崩さず、軽く首を傾げた。

「もちろん。陸さまはいつもお忙しいです。でも……本当にお優しい方ですよね」

 ――お優しい方。

 その言葉が、莉緒を切る。
 陸の優しさは、莉緒にとって特別だったはずだ。
 でも“優しい方”と言われた瞬間、陸の優しさは“誰にでも”に変わってしまう。

 莉緒は笑った。
 喉の奥が痛い。

「……そうですね」

 自分の声が、ひどく遠い。

 そこへ、桐谷由香がふわりと近づいてきた。
 彼女の登場はいつも軽い。軽いからこそ場が崩れる。
 崩れた場の中で、針は刺さりやすい。

「まあまあ! 九条さま、佐山さま! お二人でお話ししてたのね」

 由香は弾む声で言い、周囲の視線を集める。
 集められた視線が、莉緒の肌を刺す。

「九条さまって、本当に素敵。西条さまと並ぶと映画みたいって、皆さん言ってるのよ」

 言ってる。皆さん。
 主語が大きい噂は、逃げ道を潰す。
 個人の悪意じゃない顔をして、正義みたいに刺してくる。

 美紗が一瞬、由香を睨んだ。
 でも由香は気づかないふりをして、さらに笑う。

「佐山さまは婚約者なんだから、堂々としていればいいのに。ね?」

 堂々。
 その単語が、莉緒の胸を切った。

(堂々とできる人が、選ばれる)
(私は……堂々とできない)

 莉緒は息を吸って、笑顔の形を整えた。
 壊れないために。
 壊れてはいけないから。

「ありがとうございます。……私、大丈夫です」

 大丈夫じゃないのに。
 大丈夫と言うほど、心が遠くなる。

 麗奈が、ほんの少しだけ視線を柔らかくした。
 同情のようにも見える。
 けれど、その柔らかさが一番怖い。

「佐山さまは、とてもお優しいんですね」

 優しい。
 ――それはつまり、怒らない。
 つまり、奪われても笑う。

 莉緒は頷くしかない。
 頷いた瞬間、胸の奥で何かが音を立てて閉まった。

(怒れない)
(怒ったら、私が悪者になる)
(だから……閉じる)

 麗奈は最後まで丁寧だった。
 最後まで、完璧な礼儀だった。

「今日はお話できて嬉しかったです。お忙しいでしょうから、失礼しますね」

 そう言って、彼女は去っていく。
 背中まで美しい。
 背中まで“善意の人”だ。

 残されたのは、刺された針だけだった。

 莉緒は手元の資料を見つめた。
 文字が滲む。
 泣きそうなのに、泣けない。
 泣いたら、ここで終わってしまう。

「莉緒……大丈夫?」

 美紗が小さく囁く。
 莉緒は頷いた。頷けてしまう自分が、また怖い。

「……うん。大丈夫」

 どこが大丈夫なんだろう。
 大丈夫と言うほど、私の中の“陸くん”が遠ざかる。

 会場を出ると、雨が少し強くなっていた。
 黒川が傘を差し、車へ誘導する。

「お嬢さま、こちらへ」

 莉緒は傘の内側で、雨音を聞いた。
 針みたいな雨。
 でも今日は、刺される痛みの方がまだマシに思えた。
 刺される痛みより、怒れない痛みの方が深いから。

 車に乗り込み、ドアが閉まる。
 外の世界が遠ざかると同時に、胸の中の音だけが大きくなる。

(陸くんは、優しい)
(優しいから、あの人にも寄り添う)
(優しいから……私にも、きっと“義務”で)

 優しさが、希望じゃなくなる。
 優しさが、証拠じゃなくなる。
 優しさが、残酷になる。

 莉緒は窓ガラスに映る自分の顔を見た。
 笑っていない。
 泣いてもいない。
 ただ静かだった。

(期待を殺そう)
(期待があるから、苦しい)

 そう思った瞬間、心の奥で小さな火が消える音がした。
 消えたのは、恋ではない。
 恋を信じる力だ。

 雨が窓を叩く。
 針みたいに細く、絶え間なく。

 莉緒は目を閉じた。
 次に陸に会っても、笑おう。
 丁寧に、距離を取ろう。
 ――それが、私の生き方になる。

 そう決めた夜、莉緒の“期待”は静かに殺されていった。