翌朝の光は、ひどく残酷だった。
昨夜の雨が嘘みたいに白く、窓辺のレースを透かして部屋を明るくしている。けれど莉緒の胸の内側だけは、まだ夜のまま凍っていた。
ベッドを抜け出し、鏡の前に立つ。
映った自分は、いつも通りの顔をしている。髪を整えれば、令嬢として不足のない見た目になる。
――それが怖い。
“何もなかったように見える”ことが、昨夜の沈黙を肯定してしまう気がした。
(聞けなかった)
(でも、聞かなきゃ)
昨夜の食卓で、陸は「何か言いたいことがあるなら」と言いかけて、飲み込んだ。
その飲み込み方だけが、やけに鮮明に残っている。
言えないことがある。
私には言えないことがある。
――その結論に傾いてしまう自分を、今日は止めたい。
階下へ降りると、食堂は昨夜のような張り詰めた静けさではなかった。
けれど、整った空気の“綺麗さ”が余計に苦しい。整っているほど、割れたものが目立つ。
「おはよう、莉緒」
母が微笑む。
いつもより少しだけ、視線が長い。気づいている。だが踏み込まない。踏み込めない。
「……おはようございます」
莉緒は笑った。
笑える。
笑ってしまう。
そしてその瞬間、昨夜の自分が鍵をかけた“心の扉”が、今日もちゃんと閉まっていることに気づいてしまう。
テーブルに置かれた新聞の見出しが目に入った。
政治、経済、株価――その中に、社交欄の小さな記事。
『西条グループ関係者、名門ホテルに集う』
写真は遠い。顔ははっきりしない。けれど輪郭が、昨日の記憶を呼び起こすには十分だった。
莉緒は視線を外し、紅茶に手を伸ばした。
指先が少しだけ震える。熱で誤魔化すみたいに、カップをしっかり持つ。
「……今日は、予定は?」
母が平静を装って聞く。
莉緒は一拍おいて頷いた。
「慈善事業の打ち合わせに、顔を出します。佐倉さんも来るって」
母はそれ以上聞かない。
聞けば、莉緒が崩れると知っているように。
家を出る頃、空がまた曇り始めていた。
雲が重く垂れて、今にも泣き出しそうな色。
莉緒は運転手・黒川が差し出す傘を受け取りながら、心の中で小さく呟く。
(雨、また降ればいいのに)
(雨なら、泣いても隠せるのに)
会場のサロンでは、花の香りが濃かった。
甘い香りは、人を安心させるはずなのに、今日は息を詰まらせるだけだった。
佐倉美紗が莉緒に気づき、すぐに寄ってくる。
「莉緒、顔、白いよ。大丈夫?」
心配そうな声。
その優しさが、喉の奥を熱くした。
「……大丈夫。ちょっと寝不足なだけ」
嘘ではない。
眠れなかったのは確かだ。目を閉じれば、ホテルのロビーが出てくるから。
打ち合わせが始まる。
資料、寄付、出席者、次回の会場――現実の言葉にしがみついていると、少しだけ呼吸ができた。
だが休憩の時間、桐谷由香が楽しげに近寄ってくる。
「佐山さま、お久しぶり」
声が、軽い。
軽いからこそ怖い。
噂の針はいつも、軽い声で刺してくる。
「昨日の雨、すごかったわね。名門ホテルの車寄せ、混んでいたでしょう?」
美紗が一瞬、眉を動かした。
莉緒は笑顔を深くする。鎧を厚くする。
「ええ、少し」
「そうそう、九条さまもいらしてたでしょ? 西条さまとご一緒で……本当に絵になる二人よね」
――刺さった。
胸の真ん中ではなく、もっと奥。
そこに針が届くと、痛みは遅れてくる。
莉緒は頷く。
否定しない。否定できない。
だって昨日、見た。
「……そう、なんですね」
自分の声が、他人みたいだ。
美紗がさっと話題を変えようとする。
「桐谷さん、その話、今ここでするのは――」
「え? だって皆さん知ってるわよ? それに、佐山さまは婚約者なんだから、逆に堂々としていれば――」
堂々。
その言葉が、莉緒の胸を切る。
(堂々とできる人が、選ばれるんだ)
(私は……堂々とできない)
喉の奥が痛い。
泣きたくなる。
でも泣けない。泣いたら“負け”になる気がして。
その場を離れたのは、打ち合わせが終わってからだった。
外に出ると、雨が降り始めていた。
細くて冷たい雨。針みたいな雨。
黒川が傘を差し出す。
「お嬢さま、こちらへ」
「……ありがとう」
車に乗り込むと、密閉された空間が一気に静かになる。
静かになると、心の中の音だけが大きくなる。
(聞かなきゃ)
(“違う”って、言ってたのに)
(どうして、私は救われないの)
答えは一つしかない。
“違う”の後に、理由がないからだ。
理由がない否定は、壁になる。壁は疑いを増やす。
莉緒は、決めた。
今夜、陸に聞く。
遠回しではなく、逃げ道のない形で。
たとえ自分が壊れても、これ以上“針”を体に増やしたくなかった。
――夜。
陸が来たのは、昨夜より少し早い時間だった。
それが、余計に心臓を騒がせた。
早いだけで期待してしまう自分がいる。期待をしてはいけないのに。
食堂に入ってきた陸は、いつもと同じ顔をしていた。
淡々と、整っていて、隙がない。
その整い方が、今夜は怖い。
「……今日は、どうだった」
陸が問いかける。
気遣いの言葉。
けれど莉緒には、その気遣いが“義務”に見えた。
「……普通です」
それ以上を言わない。
言わないことで、自分の呼吸を守る。
沈黙が落ちる。
雨音が窓を叩く。
昨夜と同じ、針みたいな音。
莉緒は、スプーンに触れて、やめた。
逃げる前に。
逃げてしまう前に。
「陸さん」
呼び方を変えたまま、戻さない。
戻したら、また“幼馴染”にすがってしまうから。
陸の視線が上がる。
その目は、昨夜より少しだけ鋭い。
莉緒が何か言うと分かっている目。
息を吸う。
肺が痛い。
でも言う。言うと決めた。
「……九条麗奈さんと、どういう関係なんですか」
言ってしまった。
言葉が空気を切り裂く音がした気がした。
陸の瞳が、ほんの僅かに揺れた。
それだけで、莉緒の心は勝手に答えを作りかける。
――揺れた。
――つまり、触れられたくない場所。
陸は、すぐに言った。
「違う」
即答。
迷いのない否定。
その否定が、本来なら救いのはずなのに。
莉緒の胸は軽くならない。
軽くならないどころか、息が詰まる。
「……違う、って」
莉緒の声が少しだけ震えた。
震えた自分が悔しくて、笑いそうになる。
「違うなら……どうして、あんなふうに」
“寄り添っていた”
“傘を”
“髪を”
言い切ったら、涙が出そうで、言葉が切れた。
陸の眉が僅かに寄る。
怒りではない。焦りだ。
焦りがあるのに、言葉が出てこない。
「……事情がある」
やっと出た言葉は、それだった。
事情。
また、曖昧な言葉。
噂が針になるのと同じ種類の、輪郭のない言葉。
「その事情は……私に言えないんですか」
莉緒は静かに言った。
怒鳴らない。責めない。
ただ事実を確認するみたいに。
それが、いちばん残酷だと分かっていながら。
陸の視線が一瞬、逸れた。
その一瞬が、莉緒の心に決定打を打つ。
(言えない)
(私には、言えない)
(九条さんには、言えるのに)
陸は短く言った。
「今は、言えない」
“今は”。
昨夜も聞いた言葉。
その二文字が、莉緒の中の最後の糸を切った。
「……今は、なんですね」
声が丁寧すぎて、自分でも怖い。
丁寧な言葉は、刃になる。
自分の心も一緒に削っていく。
陸が、何か言いかけた。
「莉緒、俺は――」
その続きに、莉緒は一瞬だけ期待してしまった。
選ぶと言ってくれる?
好きだと言ってくれる?
私を守るためだと言ってくれる?
でも陸は、その言葉を飲み込んだ。
飲み込んだのが分かった。
飲み込む理由があるのも分かった。
莉緒の胸の中で、冷たい結論が完成する。
(陸は、私を守るために黙ってるんじゃない)
(九条さんを守るために黙ってる)
その瞬間、涙は出なかった。
代わりに、心の扉が音を立てて閉まった。
莉緒は立ち上がった。
椅子が床を擦る音が、妙に大きい。
「……すみません。少し疲れました」
陸が立ちかける。
「莉緒、待て」
引き止める声。
その声が、遅い。
遅い、と思ってしまう自分がいる。
莉緒は振り返らない。
振り返ったら、希望が戻る。
希望が戻れば、また針が刺さる。
「大丈夫です。おやすみなさい」
扉を出る。
廊下の冷たさが肌に張り付く。
背中に視線が刺さるのに、足は止まらない。
部屋に戻って鍵をかける。
鍵の音が、心の錠前みたいだった。
ベッドに腰を下ろし、ようやく息が漏れる。
(違うって言った)
(でも、理由は言わない)
(それなら――私の負けだ)
負け、なんて言葉は嫌いだった。
けれど今夜の莉緒には、それしか形がなかった。
雨が窓を叩く。
細い針みたいに、絶え間なく。
莉緒は左手の薬指を撫でた。
まだ指輪はない。
なのにそこだけが妙に重い。
(私が欲しかったのは、婚約じゃない)
(陸くんの言葉だった)
目を閉じる。
閉じた瞼の裏に、ホテルのロビーがまた浮かぶ。
寄り添う影。濡れた光。陸の沈黙。
莉緒は、決めた。
明日からは、もっと上手に笑おう。
もっと丁寧に距離を取ろう。
聞かない。期待しない。痛くならないように。
そうやって心を殺していけば、きっと楽になる。
そう思い込もうとした瞬間、扉の向こうでかすかに床が軋む音がした。
陸が立ったのか、ただ姿勢を変えただけなのか分からない。
莉緒は確認しない。
確認したら、希望が戻る。
希望が戻れば、また傷つく。
だから彼女は雨音に耳を塞がれるふりをして、ひとりで眠ろうとした。
――“違う”と言われた夜。
その否定が、二人を救う言葉ではなく、すれ違いを確定させる言葉になった夜。

