泣き疲れた後の部屋は、静かだった。
さっきまで確かに荒れていた空気が、嘘みたいに澄んでいる。
窓の外は雨上がりで、街の灯りが濡れた道路に反射していた。
莉緒はソファの端に座り、両手を膝の上に重ねていた。
指先がまだ少し震えている。
泣いたせいで目の奥が熱い。
でも胸の内側は、少しだけ軽い。
言えたからだ。
怒って、泣いて、ぶつけたからだ。
言わずに死ぬより、言って痛む方がまだ生きている。
陸は、少し離れた場所に立っていた。
近づかない。
でも逃げない。
その距離の取り方が、今までと違う。
沈黙が続く。
陸が先に口を開いた。
「……莉緒」
呼び方が、今までより柔らかい。
柔らかいのに、逃げない声。
莉緒は顔を上げた。
目が合う。
陸の瞳は、今夜初めて“隠さない色”をしていた。
怖さも、後悔も、好きも。
陸はゆっくり言った。
「さっき言ったこと、全部……忘れなくていい」
忘れなくていい。
その言葉が、胸に落ちる。
忘れろと言われるより、ずっと救いになる。
「俺が傷つけたことも、俺が黙ったことも——
都合よく無かったことにしない」
陸は一歩だけ近づき、そこで止まった。
触れない距離。
でも、逃げない距離。
「その上で、約束する」
約束。
その単語が、莉緒の胸を小さく震わせる。
約束は、過去に一度裏切られた形だったから。
莉緒は声を絞った。
「……約束って、簡単に言わないで」
自分でも驚くほど強い声が出た。
強いのは、まだ怖いからだ。
陸は頷いた。
否定しない。
言い返さない。
「分かってる。
だから——言葉だけじゃなく、行動で証明する」
陸はポケットから、折りたたんだ小さな布を取り出した。
黒い布。
広げると、それは小さな傘だった。
莉緒の胸が、きゅっと痛む。
傘。
傘は、二人の始まりだった。
幼い頃、泣いていた莉緒に陸が差し出した傘。
麗奈に差し出された角度と同じ傘。
傘は、傷の形にもなった。
だからこそ、ここで傘を出すのは残酷で、そして誠実だった。
陸は言った。
「……昔、お前に傘を差した日があった」
莉緒は黙って頷く。
覚えている。
忘れたくても、忘れられない。
陸は続ける。
「俺はあの日からずっと、
お前の泣き顔を見たくないと思ってた」
その言葉が、胸に刺さる。
刺さるのに、温かい。
温かいのに、遅い。
陸は傘を、莉緒に向けて差し出した。
押しつけるようにではなく、選ばせるように。
「……これを、お前に渡す」
莉緒の指先が震える。
受け取りたい。
でも怖い。
受け取ったら、また期待してしまう。
陸は、莉緒の迷いを見て、さらに言った。
「今まで、俺は“守る”を言い訳に黙った。
でも、黙るのは守ることじゃない。
お前を孤独にするだけだって……今日、やっと分かった」
今日。
今日までの長さが痛い。
痛いのに、今ここで言うことが大事だと、莉緒も分かってしまう。
陸は、息を吸って吐いて、言った。
「これからは隣にいる」
短い言葉。
でも今までで一番、重い言葉だった。
「隣にいるってのは、同じ部屋にいるって意味じゃない。
お前が怖いとき、疑うとき、怒るとき——
その全部の隣にいる」
莉緒の目が熱くなる。
でも今夜の涙は、さっきとは違う。
痛みだけじゃない。
悔しさと、救いが混ざった涙だ。
莉緒は震える声で言った。
「……言葉は、今まで足りなかった」
陸は頷いた。
「足りなかった。
足りないまま、お前を傷つけた」
莉緒は小さく息を吐いた。
胸がまだ痛い。
でも、逃げる痛みじゃない。
「私……信じたかった」
陸が低く言う。
「信じさせる」
強い言い方。
でも今度は、押しつけじゃない。
責任の言葉だ。
陸はさらに言った。
「政略で始まったことも、否定しない。
佐山のために動いたことも、否定しない。
でも——それだけなら、俺はお前を手放してた」
莉緒の胸が跳ねる。
また期待が生まれそうになる。
でも今夜は、期待を殺さない。
期待は悪じゃない。
期待に見合う言葉があるなら。
陸は言った。
「俺はお前が好きだ。
……幼馴染としてじゃない。
婚約者としての役割でもない。
一人の男として」
莉緒の喉が鳴る。
泣きそうになる。
でも、逃げない。
莉緒はゆっくりと傘に手を伸ばした。
受け取るまでが怖い。
受け取った後も、きっと怖い。
それでも、受け取る。
指先が傘の柄に触れた瞬間、温度が伝わる。
陸の手の温度。
あの日の温度に、少しだけ似ている。
莉緒は言った。
「……じゃあ、約束して」
陸が頷く。
「する」
莉緒は、ちゃんと条件を付けた。
もう、曖昧な約束では壊れるから。
「黙らないで。
守るなら、言って。
私の目を見て、言って」
陸は一拍も置かずに言った。
「……言う」
その即答が、莉緒の胸を少しだけほどく。
窓の外で、雲の切れ間から街の光が広がる。
雨上がりの匂いが、少し甘い。
莉緒は傘を握りしめたまま、最後に言った。
「私、簡単には戻らないよ」
陸は、初めて“急がない”顔で笑った。
勝った笑顔ではない。
待つ覚悟の笑顔。
「いい。
戻らなくていい。
——俺が、迎えに行く」
迎えに行く。
その言葉は、莉緒がずっと欲しかった言葉だった。
「連れ出して」ではなく、
「迎えに行く」——莉緒を主体にした言葉。
莉緒は小さく頷いた。
頷いた瞬間、胸の奥で、長い雨季が終わりかけているのを感じた。
まだ晴れない。
でも、雨上がりの匂いはする。
傘は、もう“傷の象徴”ではない。
これからは、“二人で雨を越える”ための道具になる。
——こうして、二人は政略ではなく、恋として結び直した。
終わりではなく、やり直しの始まりとして。
さっきまで確かに荒れていた空気が、嘘みたいに澄んでいる。
窓の外は雨上がりで、街の灯りが濡れた道路に反射していた。
莉緒はソファの端に座り、両手を膝の上に重ねていた。
指先がまだ少し震えている。
泣いたせいで目の奥が熱い。
でも胸の内側は、少しだけ軽い。
言えたからだ。
怒って、泣いて、ぶつけたからだ。
言わずに死ぬより、言って痛む方がまだ生きている。
陸は、少し離れた場所に立っていた。
近づかない。
でも逃げない。
その距離の取り方が、今までと違う。
沈黙が続く。
陸が先に口を開いた。
「……莉緒」
呼び方が、今までより柔らかい。
柔らかいのに、逃げない声。
莉緒は顔を上げた。
目が合う。
陸の瞳は、今夜初めて“隠さない色”をしていた。
怖さも、後悔も、好きも。
陸はゆっくり言った。
「さっき言ったこと、全部……忘れなくていい」
忘れなくていい。
その言葉が、胸に落ちる。
忘れろと言われるより、ずっと救いになる。
「俺が傷つけたことも、俺が黙ったことも——
都合よく無かったことにしない」
陸は一歩だけ近づき、そこで止まった。
触れない距離。
でも、逃げない距離。
「その上で、約束する」
約束。
その単語が、莉緒の胸を小さく震わせる。
約束は、過去に一度裏切られた形だったから。
莉緒は声を絞った。
「……約束って、簡単に言わないで」
自分でも驚くほど強い声が出た。
強いのは、まだ怖いからだ。
陸は頷いた。
否定しない。
言い返さない。
「分かってる。
だから——言葉だけじゃなく、行動で証明する」
陸はポケットから、折りたたんだ小さな布を取り出した。
黒い布。
広げると、それは小さな傘だった。
莉緒の胸が、きゅっと痛む。
傘。
傘は、二人の始まりだった。
幼い頃、泣いていた莉緒に陸が差し出した傘。
麗奈に差し出された角度と同じ傘。
傘は、傷の形にもなった。
だからこそ、ここで傘を出すのは残酷で、そして誠実だった。
陸は言った。
「……昔、お前に傘を差した日があった」
莉緒は黙って頷く。
覚えている。
忘れたくても、忘れられない。
陸は続ける。
「俺はあの日からずっと、
お前の泣き顔を見たくないと思ってた」
その言葉が、胸に刺さる。
刺さるのに、温かい。
温かいのに、遅い。
陸は傘を、莉緒に向けて差し出した。
押しつけるようにではなく、選ばせるように。
「……これを、お前に渡す」
莉緒の指先が震える。
受け取りたい。
でも怖い。
受け取ったら、また期待してしまう。
陸は、莉緒の迷いを見て、さらに言った。
「今まで、俺は“守る”を言い訳に黙った。
でも、黙るのは守ることじゃない。
お前を孤独にするだけだって……今日、やっと分かった」
今日。
今日までの長さが痛い。
痛いのに、今ここで言うことが大事だと、莉緒も分かってしまう。
陸は、息を吸って吐いて、言った。
「これからは隣にいる」
短い言葉。
でも今までで一番、重い言葉だった。
「隣にいるってのは、同じ部屋にいるって意味じゃない。
お前が怖いとき、疑うとき、怒るとき——
その全部の隣にいる」
莉緒の目が熱くなる。
でも今夜の涙は、さっきとは違う。
痛みだけじゃない。
悔しさと、救いが混ざった涙だ。
莉緒は震える声で言った。
「……言葉は、今まで足りなかった」
陸は頷いた。
「足りなかった。
足りないまま、お前を傷つけた」
莉緒は小さく息を吐いた。
胸がまだ痛い。
でも、逃げる痛みじゃない。
「私……信じたかった」
陸が低く言う。
「信じさせる」
強い言い方。
でも今度は、押しつけじゃない。
責任の言葉だ。
陸はさらに言った。
「政略で始まったことも、否定しない。
佐山のために動いたことも、否定しない。
でも——それだけなら、俺はお前を手放してた」
莉緒の胸が跳ねる。
また期待が生まれそうになる。
でも今夜は、期待を殺さない。
期待は悪じゃない。
期待に見合う言葉があるなら。
陸は言った。
「俺はお前が好きだ。
……幼馴染としてじゃない。
婚約者としての役割でもない。
一人の男として」
莉緒の喉が鳴る。
泣きそうになる。
でも、逃げない。
莉緒はゆっくりと傘に手を伸ばした。
受け取るまでが怖い。
受け取った後も、きっと怖い。
それでも、受け取る。
指先が傘の柄に触れた瞬間、温度が伝わる。
陸の手の温度。
あの日の温度に、少しだけ似ている。
莉緒は言った。
「……じゃあ、約束して」
陸が頷く。
「する」
莉緒は、ちゃんと条件を付けた。
もう、曖昧な約束では壊れるから。
「黙らないで。
守るなら、言って。
私の目を見て、言って」
陸は一拍も置かずに言った。
「……言う」
その即答が、莉緒の胸を少しだけほどく。
窓の外で、雲の切れ間から街の光が広がる。
雨上がりの匂いが、少し甘い。
莉緒は傘を握りしめたまま、最後に言った。
「私、簡単には戻らないよ」
陸は、初めて“急がない”顔で笑った。
勝った笑顔ではない。
待つ覚悟の笑顔。
「いい。
戻らなくていい。
——俺が、迎えに行く」
迎えに行く。
その言葉は、莉緒がずっと欲しかった言葉だった。
「連れ出して」ではなく、
「迎えに行く」——莉緒を主体にした言葉。
莉緒は小さく頷いた。
頷いた瞬間、胸の奥で、長い雨季が終わりかけているのを感じた。
まだ晴れない。
でも、雨上がりの匂いはする。
傘は、もう“傷の象徴”ではない。
これからは、“二人で雨を越える”ための道具になる。
——こうして、二人は政略ではなく、恋として結び直した。
終わりではなく、やり直しの始まりとして。

