家の中は、雨音だけが生きていた。
佐山家の邸は広い。
広いぶん、静けさが薄まるはずなのに、今夜の静けさは逆だった。廊下も、吹き抜けも、客間も――どこにいても、沈黙がついてくる。
莉緒は食堂の長いテーブルの端に座っていた。
白いクロスの上に並ぶ皿は、ひとつだけ。
対面の席は空いているのに、テーブルの上だけが「二人分」を主張して、妙に眩しい。
時計の針が、規則正しく進む音がする。
“待つ”という行為に、音があることを、今夜初めて知った気がした。
スープはとうに冷めた。
冷めたことを確認するために、莉緒はスプーンを持ち上げたわけじゃない。ただ、手を動かしていないと、心が崩れそうだった。
(陸くんは、いつ帰ってくるんだろう)
――もう、陸くんと呼ぶのも違うのかもしれない。
そう思うたび、胸の奥がきゅっと痛む。
今日も社交界の噂が耳に残っている。
針のように細い言葉が、皮膚の下に残って、抜けない。
『政略婚約って、大変よね』
『九条さま、最近ご一緒らしいわよ』
“らしい”という曖昧さが、一番残酷だ。
否定もできない。肯定もできない。
ただ、想像だけが増殖していく。
雨のホテルロビーで見た光景。
傘の角度。麗奈の袖に触れる指先。
あれが、頭の中で何度も再生される。
(聞けばいい)
(「あの人は誰?」って)
簡単なはずなのに、舌が動かない。
聞いたら、何かが終わる気がした。
――終わるのが怖いのではない。
終わっていないと信じていた自分が、惨めになるのが怖い。
食堂の扉が開いたのは、九時を回った頃だった。
足音。
濡れた外套の匂い。
空気が一瞬で変わる。
「……遅くなった」
陸の声だった。
莉緒は立ち上がりかけて、途中でやめた。
やめた自分に気づいて、心が少しだけ揺れた。
以前なら、無意識に立って「おかえり」と笑ったはずなのに。
陸が食堂に入ってくる。
黒いスーツは雨を含んで少し色が濃く見えた。髪は完璧に整っているのに、わずかに湿った気配が残っている。
その“湿り気”が、ホテルの雨を連れてきた気がして、莉緒は喉の奥が苦しくなった。
「……お帰りなさい」
言葉は礼儀正しい。
声も、震えていない。
――震えないように、喉を固めたからだ。
陸は椅子を引き、対面に座った。
テーブルの上の「二人分」が、ようやく意味を持つ。
なのに、距離は昨日までより遠い。
「待っていたのか」
陸が言った。
責めるようでもなく、甘えるようでもない。事実確認みたいな声。
莉緒は笑った。
社交界で作った“鎧の笑顔”が、ここでも役に立つ。
「ええ。……約束していたので」
“約束”。
その単語を出した瞬間、陸のまつ毛がわずかに揺れた。
莉緒は気づかないふりをした。
気づいたら、心が勝手に期待してしまう。
給仕が料理を温め直すか尋ね、莉緒は丁寧に断った。
冷めたままでいい。
今夜の食卓には、温かさが似合わない。
「……仕事が立て込んでいた」
陸が淡々と言う。
言い訳ではなく、報告。
その“報告”の外側に、何かがある気がして、莉緒の指先が皿の縁をなぞった。
「そうなんですね」
たったそれだけ。
本当なら、続きがあるはずの会話が、そこで切れる。
陸が莉緒を見た。
真正面から。逃げ道を許さないほど静かに。
「……どうした」
短い問い。
“何かあったのか”という意味も、
“俺に何か言いたいのか”という意味も含んでいる。
莉緒の胸の奥が、きゅっと縮む。
(言える)
(今なら、言える)
雨の日のロビーで見たこと。
今日刺された噂の針。
苦しかったこと。
全部。
言えば、陸が否定してくれるかもしれない。
たとえ政略でも、気持ちはあると言ってくれるかもしれない。
――そう期待した瞬間、莉緒は自分で自分を殴りたくなった。
(期待したら、負け)
(期待したら、また傷つく)
莉緒は微笑んだ。
微笑むことで、言葉を殺す。
「……何でもないです」
陸の眉が僅かに寄った。
怒っているわけではない。
戸惑っているように見えた。
「何でもない顔じゃない」
陸が低く言う。
いつもより少しだけ、温度がある。
その温度が、莉緒には怖かった。
優しさは、希望になる。
希望は、裏切られたとき一番痛い。
莉緒はスプーンを置いた。
音が、やけに大きく響く。
「陸さん」
呼び方を変えた。
“くん”を捨てた。
それだけで、距離が決定した気がした。
「お忙しいなら、無理に……私に時間を作らなくても大丈夫です」
陸の目が、僅かに揺れた。
揺れて、すぐに凪ぐ。
「無理をしているつもりはない」
「……そうですか」
会話が、また途切れる。
雨の音だけが、その隙間を埋める。
莉緒は唇を噛んだ。
噛んだことが陸に悟られないように、笑った。
聞きたい。
でも、聞けない。
聞けば「違う」と言われるかもしれない。
同時に、「違わない」と言われるかもしれない。
どちらでも、胸が壊れる。
「……莉緒」
陸が名を呼ぶ。
その声は、少しだけ近い。
莉緒は、目を上げた。
陸の瞳が、自分を捉えている。
その瞳の奥に、焦りみたいなものが見える気がした。
「何か、俺に言いたいことがあるなら――」
そこまで言って、陸は口を閉じた。
言葉を飲み込んだのが分かった。
なぜ飲み込んだのかは、分からない。
その“分からない”が、莉緒の中で最悪の形に変換される。
(言えないことがある)
(私には、言えないことが)
莉緒の胸の奥で、冷たい答えが完成する。
――陸には好きな人がいる。
――私とは仕方なく婚約している。
――だから、説明できない。
その答えは、噂の針で縫い留められて、外れなくなる。
莉緒は立ち上がった。
立ち上がる動作だけが、妙に機械的だった。
「……すみません。少し疲れてしまって」
陸が椅子から立ちかける気配がした。
「莉緒、待て」
その声に、胸が跳ねた。
――追ってきてくれる?
――抱きしめてくれる?
――違うと言ってくれる?
期待が喉元までせり上がり、莉緒は必死に飲み込んだ。
期待してはいけない。
期待したら、次はもっと痛い。
莉緒は振り返らずに、微笑みだけを置いていく。
「大丈夫です。……おやすみなさい」
扉の向こうへ出る。
廊下は冷たく、足音がやけに響く。
背中に、陸の視線が刺さる。
追いかけてくる気配は――ない。
それが、答えのように思えた。
部屋に戻り、鍵をかける。
ベッドに腰を下ろした瞬間、ようやく息が漏れた。
泣けない。
泣いたら、まだ期待していることがバレる。
莉緒は指先で、左手の薬指をそっと撫でた。
まだ指輪はない。
なのに、そこだけが妙に重い。
(私が欲しかったのは、婚約じゃない)
(陸くんの――心だった)
雨音は止まない。
針のように細く、冷たく、絶え間なく。
莉緒は目を閉じた。
心を閉ざす練習をするみたいに。
明日からは、もっと上手に笑おう。
もっと丁寧に距離を取ろう。
そうすれば、針は刺さらない。
そう思い込むように、莉緒は静かに布団を引き寄せた。
扉の向こうで、かすかに、椅子が軋む音がした。
陸が立ち上がったのか、ただ姿勢を変えただけなのか。
莉緒は確認しない。
確認したら、希望が戻ってしまうから。
だから彼女は、雨音に耳を塞がれるふりをして、ひとりで眠ろうとした。
佐山家の邸は広い。
広いぶん、静けさが薄まるはずなのに、今夜の静けさは逆だった。廊下も、吹き抜けも、客間も――どこにいても、沈黙がついてくる。
莉緒は食堂の長いテーブルの端に座っていた。
白いクロスの上に並ぶ皿は、ひとつだけ。
対面の席は空いているのに、テーブルの上だけが「二人分」を主張して、妙に眩しい。
時計の針が、規則正しく進む音がする。
“待つ”という行為に、音があることを、今夜初めて知った気がした。
スープはとうに冷めた。
冷めたことを確認するために、莉緒はスプーンを持ち上げたわけじゃない。ただ、手を動かしていないと、心が崩れそうだった。
(陸くんは、いつ帰ってくるんだろう)
――もう、陸くんと呼ぶのも違うのかもしれない。
そう思うたび、胸の奥がきゅっと痛む。
今日も社交界の噂が耳に残っている。
針のように細い言葉が、皮膚の下に残って、抜けない。
『政略婚約って、大変よね』
『九条さま、最近ご一緒らしいわよ』
“らしい”という曖昧さが、一番残酷だ。
否定もできない。肯定もできない。
ただ、想像だけが増殖していく。
雨のホテルロビーで見た光景。
傘の角度。麗奈の袖に触れる指先。
あれが、頭の中で何度も再生される。
(聞けばいい)
(「あの人は誰?」って)
簡単なはずなのに、舌が動かない。
聞いたら、何かが終わる気がした。
――終わるのが怖いのではない。
終わっていないと信じていた自分が、惨めになるのが怖い。
食堂の扉が開いたのは、九時を回った頃だった。
足音。
濡れた外套の匂い。
空気が一瞬で変わる。
「……遅くなった」
陸の声だった。
莉緒は立ち上がりかけて、途中でやめた。
やめた自分に気づいて、心が少しだけ揺れた。
以前なら、無意識に立って「おかえり」と笑ったはずなのに。
陸が食堂に入ってくる。
黒いスーツは雨を含んで少し色が濃く見えた。髪は完璧に整っているのに、わずかに湿った気配が残っている。
その“湿り気”が、ホテルの雨を連れてきた気がして、莉緒は喉の奥が苦しくなった。
「……お帰りなさい」
言葉は礼儀正しい。
声も、震えていない。
――震えないように、喉を固めたからだ。
陸は椅子を引き、対面に座った。
テーブルの上の「二人分」が、ようやく意味を持つ。
なのに、距離は昨日までより遠い。
「待っていたのか」
陸が言った。
責めるようでもなく、甘えるようでもない。事実確認みたいな声。
莉緒は笑った。
社交界で作った“鎧の笑顔”が、ここでも役に立つ。
「ええ。……約束していたので」
“約束”。
その単語を出した瞬間、陸のまつ毛がわずかに揺れた。
莉緒は気づかないふりをした。
気づいたら、心が勝手に期待してしまう。
給仕が料理を温め直すか尋ね、莉緒は丁寧に断った。
冷めたままでいい。
今夜の食卓には、温かさが似合わない。
「……仕事が立て込んでいた」
陸が淡々と言う。
言い訳ではなく、報告。
その“報告”の外側に、何かがある気がして、莉緒の指先が皿の縁をなぞった。
「そうなんですね」
たったそれだけ。
本当なら、続きがあるはずの会話が、そこで切れる。
陸が莉緒を見た。
真正面から。逃げ道を許さないほど静かに。
「……どうした」
短い問い。
“何かあったのか”という意味も、
“俺に何か言いたいのか”という意味も含んでいる。
莉緒の胸の奥が、きゅっと縮む。
(言える)
(今なら、言える)
雨の日のロビーで見たこと。
今日刺された噂の針。
苦しかったこと。
全部。
言えば、陸が否定してくれるかもしれない。
たとえ政略でも、気持ちはあると言ってくれるかもしれない。
――そう期待した瞬間、莉緒は自分で自分を殴りたくなった。
(期待したら、負け)
(期待したら、また傷つく)
莉緒は微笑んだ。
微笑むことで、言葉を殺す。
「……何でもないです」
陸の眉が僅かに寄った。
怒っているわけではない。
戸惑っているように見えた。
「何でもない顔じゃない」
陸が低く言う。
いつもより少しだけ、温度がある。
その温度が、莉緒には怖かった。
優しさは、希望になる。
希望は、裏切られたとき一番痛い。
莉緒はスプーンを置いた。
音が、やけに大きく響く。
「陸さん」
呼び方を変えた。
“くん”を捨てた。
それだけで、距離が決定した気がした。
「お忙しいなら、無理に……私に時間を作らなくても大丈夫です」
陸の目が、僅かに揺れた。
揺れて、すぐに凪ぐ。
「無理をしているつもりはない」
「……そうですか」
会話が、また途切れる。
雨の音だけが、その隙間を埋める。
莉緒は唇を噛んだ。
噛んだことが陸に悟られないように、笑った。
聞きたい。
でも、聞けない。
聞けば「違う」と言われるかもしれない。
同時に、「違わない」と言われるかもしれない。
どちらでも、胸が壊れる。
「……莉緒」
陸が名を呼ぶ。
その声は、少しだけ近い。
莉緒は、目を上げた。
陸の瞳が、自分を捉えている。
その瞳の奥に、焦りみたいなものが見える気がした。
「何か、俺に言いたいことがあるなら――」
そこまで言って、陸は口を閉じた。
言葉を飲み込んだのが分かった。
なぜ飲み込んだのかは、分からない。
その“分からない”が、莉緒の中で最悪の形に変換される。
(言えないことがある)
(私には、言えないことが)
莉緒の胸の奥で、冷たい答えが完成する。
――陸には好きな人がいる。
――私とは仕方なく婚約している。
――だから、説明できない。
その答えは、噂の針で縫い留められて、外れなくなる。
莉緒は立ち上がった。
立ち上がる動作だけが、妙に機械的だった。
「……すみません。少し疲れてしまって」
陸が椅子から立ちかける気配がした。
「莉緒、待て」
その声に、胸が跳ねた。
――追ってきてくれる?
――抱きしめてくれる?
――違うと言ってくれる?
期待が喉元までせり上がり、莉緒は必死に飲み込んだ。
期待してはいけない。
期待したら、次はもっと痛い。
莉緒は振り返らずに、微笑みだけを置いていく。
「大丈夫です。……おやすみなさい」
扉の向こうへ出る。
廊下は冷たく、足音がやけに響く。
背中に、陸の視線が刺さる。
追いかけてくる気配は――ない。
それが、答えのように思えた。
部屋に戻り、鍵をかける。
ベッドに腰を下ろした瞬間、ようやく息が漏れた。
泣けない。
泣いたら、まだ期待していることがバレる。
莉緒は指先で、左手の薬指をそっと撫でた。
まだ指輪はない。
なのに、そこだけが妙に重い。
(私が欲しかったのは、婚約じゃない)
(陸くんの――心だった)
雨音は止まない。
針のように細く、冷たく、絶え間なく。
莉緒は目を閉じた。
心を閉ざす練習をするみたいに。
明日からは、もっと上手に笑おう。
もっと丁寧に距離を取ろう。
そうすれば、針は刺さらない。
そう思い込むように、莉緒は静かに布団を引き寄せた。
扉の向こうで、かすかに、椅子が軋む音がした。
陸が立ち上がったのか、ただ姿勢を変えただけなのか。
莉緒は確認しない。
確認したら、希望が戻ってしまうから。
だから彼女は、雨音に耳を塞がれるふりをして、ひとりで眠ろうとした。

