陸の全告白が終わったあと、応接室にはしばらく音がなかった。
時計の針の音さえ遠い。
紅茶は完全に冷え、湯気の代わりに薄い皮膜が浮いている。
その冷えた表面が、今の莉緒の心みたいだった。
脅迫。
取引。
佐山不動産の資金繰り。
九条家の不正。
“見捨てない”という条件。
全部が理解できる形に並べられたのに、胸は軽くならなかった。
軽くなるどころか、もっと重い。
だって——その理屈の中に、莉緒が泣いた夜が入っていないから。
莉緒は膝の上で指先を握りしめた。
掌に爪が食い込み、痛い。
痛いのに、涙はまだ出ない。
涙は、ずっと奥で溜まっている。
陸が低い声で言った。
「……莉緒」
名前を呼ばれるだけで胸が跳ねる。
跳ねた自分が、まだ陸を好きだと告げていて、腹が立つ。
「全部話した。
だから、今度は——」
今度は、という言葉が莉緒の胸を刺した。
今度。
遅い。
遅すぎる。
莉緒はゆっくり顔を上げた。
目の奥が熱い。
でも表情は動かない。
動かしたら、溢れてしまうから。
「……陸様」
呼び方が丁寧すぎて、自分でも苦しい。
でも、今はそれしかできない。
“陸くん”と呼んだら、許してしまいそうだから。
「……私は、分かりました」
分かった。
理解した。
理屈は飲み込めた。
陸が息を吐く。
安心したような息。
——その瞬間、莉緒の中で何かが切れた。
「でも」
莉緒の声が少しだけ低くなる。
「分かったのに、苦しいんです」
陸の眉が僅かに寄る。
「……ごめん」
陸が謝る。
謝れば終わると思っているような謝り方。
その“終わらせ方”が、莉緒には許せなかった。
莉緒は笑った。
笑ってしまった。
声を出したら泣き声になるのが分かっているのに、笑いが漏れた。
「ごめん、で済むんですか」
言った瞬間、喉の奥が痛くなる。
痛いのに止められない。
止めたら、また黙ってしまう。
「私、ずっと……自分を罰してたんですよ」
陸の目が揺れる。
「私が重いから、って。
私がいるから、陸様が苦しいんだって。
私が嫌われたんだって。
私が——」
言葉が途切れ、息が詰まる。
ここまで言って、ようやく涙が滲む。
滲むのに落ちない。
落ちないまま、胸の奥で熱く燃える。
陸が椅子から立ちかけた。
「莉緒、落ち着け——」
落ち着け。
その言葉が、火に油だった。
莉緒は、初めて声を荒げた。
荒げたと言っても、怒鳴り声じゃない。
震える声だ。
抑えきれなくなった声。
「落ち着けって、何ですか!」
自分の声が自分じゃないみたいに響く。
怖い。
でも、言う。
言わなきゃ終わる。
「私、落ち着いてたじゃないですか!
ずっと笑ってた。ずっと丁寧にしてた。
怒らなかった。疑ったのに、怒れなかった!」
仮面。丁寧な撤退。
“良い婚約者”の鎧。
莉緒の声が震える。
「九条さんの“善意”が、一番残酷だったんです!」
陸の瞳が揺れる。
その揺れに、また腹が立つ。
揺れているなら、どうして守れなかったの、と。
「『助けていただいて』
『雨が苦手で』
『責任感が強い方』——」
莉緒は言葉を吐き出す。
吐き出すたび、胸の内側が少しずつ解ける。
解けるほど、痛みが露出する。
「嘘じゃないから、怒れなかった!
嘘じゃないから、私が悪者になるしかなかった!」
涙が、ついに落ちた。
一滴。
落ちた途端、堰が切れる。
「私……陸くんに聞きたかったのに」
呼び方が出てしまった。
陸くん。
その二文字が、恋の本音だ。
莉緒は泣きながら、でも逃げずに言った。
「信じたかったのに……!」
声が割れる。
喉が痛い。
胸が痛い。
それでも言う。
「どうして、私の前で黙るんですか。
どうして、私だけに言わないんですか。
どうして、九条さんの袖を払えて、私の涙は払えないんですか!」
陸の顔が、真っ白になる。
立ち上がろうとする。
近づこうとする。
莉緒は首を振った。
近づかれたら、また許してしまう。
「違うって言うだけで、理由をくれない。
“今は言えない”で、私は何回殺されたと思ってるんですか」
殺された。
言葉が強すぎると分かっている。
でも、ここまで来たら弱い言葉では足りない。
莉緒は泣きながら笑った。
自分でも壊れているのが分かる。
「私、破談を選んだんですよ。
陸くんの幸せのために、って。
本当は、私が壊れないために選んだのに!」
泣き声が、部屋に落ちる。
外の雨が止んでいるのに、室内だけ雨季だ。
陸が低い声で言った。
「……全部、俺のせいだ」
その言葉が、また腹立たしい。
“俺のせい”で終わるなら、莉緒の苦しさは何だったのか。
「そうです!」
莉緒は叫ぶように言った。
叫ぶのに、声は震えて弱い。
弱いからこそ、本気だ。
「でも、今さら“全部俺のせい”って言われても、戻れないんです!
戻れないくらい……傷ついたんです!」
莉緒は息を吸って、吐く。
泣きながら、呼吸が乱れる。
でも、止まらない。
止まったら、また仮面に戻ってしまう。
陸が一歩、近づいた。
今度は、強引に掴まない距離。
触れない距離。
「……莉緒。
俺は、お前を守るって言いながら、お前を孤独にした」
孤独。
その言葉が、やっと莉緒の心に届く。
届いたから、涙がさらに落ちる。
「……そうです」
莉緒は嗚咽の合間に言った。
「私、ずっと一人でした。
あなたの隣にいるのに、一人だった」
その一言で、陸の顔が歪んだ。
初めて、陸が壊れそうな顔をした。
莉緒は続けた。
泣きながら、でも最後まで言い切るために。
「私、あなたを好きだった。
唯一の人だった。
だから、信じたかった」
信じたかったのに。
信じる材料がないまま、信じろと言われた。
それがどれほど残酷か。
莉緒は震える声で、最後の刃を置いた。
「……これからは、言ってください。
守るなら、黙るんじゃなくて。
私の手を取って、私の目を見て、言ってください」
陸が息を呑む。
頷く。
言葉が出ないほど、胸が詰まっている。
莉緒は涙を拭わなかった。
拭ったら、また仮面に戻ってしまうから。
そして、初めて気づく。
怒りは、愛の裏返しじゃない。
怒りは、“自分を守る力”だ。
莉緒は泣きながら、少しだけ背筋を伸ばした。
壊れたのではなく、やっと生きた。
——莉緒は初めて爆発した。
陸はその爆発を受け止め、雨上がりの誓いを差し出す。
言葉で、行動で、今度こそ。
時計の針の音さえ遠い。
紅茶は完全に冷え、湯気の代わりに薄い皮膜が浮いている。
その冷えた表面が、今の莉緒の心みたいだった。
脅迫。
取引。
佐山不動産の資金繰り。
九条家の不正。
“見捨てない”という条件。
全部が理解できる形に並べられたのに、胸は軽くならなかった。
軽くなるどころか、もっと重い。
だって——その理屈の中に、莉緒が泣いた夜が入っていないから。
莉緒は膝の上で指先を握りしめた。
掌に爪が食い込み、痛い。
痛いのに、涙はまだ出ない。
涙は、ずっと奥で溜まっている。
陸が低い声で言った。
「……莉緒」
名前を呼ばれるだけで胸が跳ねる。
跳ねた自分が、まだ陸を好きだと告げていて、腹が立つ。
「全部話した。
だから、今度は——」
今度は、という言葉が莉緒の胸を刺した。
今度。
遅い。
遅すぎる。
莉緒はゆっくり顔を上げた。
目の奥が熱い。
でも表情は動かない。
動かしたら、溢れてしまうから。
「……陸様」
呼び方が丁寧すぎて、自分でも苦しい。
でも、今はそれしかできない。
“陸くん”と呼んだら、許してしまいそうだから。
「……私は、分かりました」
分かった。
理解した。
理屈は飲み込めた。
陸が息を吐く。
安心したような息。
——その瞬間、莉緒の中で何かが切れた。
「でも」
莉緒の声が少しだけ低くなる。
「分かったのに、苦しいんです」
陸の眉が僅かに寄る。
「……ごめん」
陸が謝る。
謝れば終わると思っているような謝り方。
その“終わらせ方”が、莉緒には許せなかった。
莉緒は笑った。
笑ってしまった。
声を出したら泣き声になるのが分かっているのに、笑いが漏れた。
「ごめん、で済むんですか」
言った瞬間、喉の奥が痛くなる。
痛いのに止められない。
止めたら、また黙ってしまう。
「私、ずっと……自分を罰してたんですよ」
陸の目が揺れる。
「私が重いから、って。
私がいるから、陸様が苦しいんだって。
私が嫌われたんだって。
私が——」
言葉が途切れ、息が詰まる。
ここまで言って、ようやく涙が滲む。
滲むのに落ちない。
落ちないまま、胸の奥で熱く燃える。
陸が椅子から立ちかけた。
「莉緒、落ち着け——」
落ち着け。
その言葉が、火に油だった。
莉緒は、初めて声を荒げた。
荒げたと言っても、怒鳴り声じゃない。
震える声だ。
抑えきれなくなった声。
「落ち着けって、何ですか!」
自分の声が自分じゃないみたいに響く。
怖い。
でも、言う。
言わなきゃ終わる。
「私、落ち着いてたじゃないですか!
ずっと笑ってた。ずっと丁寧にしてた。
怒らなかった。疑ったのに、怒れなかった!」
仮面。丁寧な撤退。
“良い婚約者”の鎧。
莉緒の声が震える。
「九条さんの“善意”が、一番残酷だったんです!」
陸の瞳が揺れる。
その揺れに、また腹が立つ。
揺れているなら、どうして守れなかったの、と。
「『助けていただいて』
『雨が苦手で』
『責任感が強い方』——」
莉緒は言葉を吐き出す。
吐き出すたび、胸の内側が少しずつ解ける。
解けるほど、痛みが露出する。
「嘘じゃないから、怒れなかった!
嘘じゃないから、私が悪者になるしかなかった!」
涙が、ついに落ちた。
一滴。
落ちた途端、堰が切れる。
「私……陸くんに聞きたかったのに」
呼び方が出てしまった。
陸くん。
その二文字が、恋の本音だ。
莉緒は泣きながら、でも逃げずに言った。
「信じたかったのに……!」
声が割れる。
喉が痛い。
胸が痛い。
それでも言う。
「どうして、私の前で黙るんですか。
どうして、私だけに言わないんですか。
どうして、九条さんの袖を払えて、私の涙は払えないんですか!」
陸の顔が、真っ白になる。
立ち上がろうとする。
近づこうとする。
莉緒は首を振った。
近づかれたら、また許してしまう。
「違うって言うだけで、理由をくれない。
“今は言えない”で、私は何回殺されたと思ってるんですか」
殺された。
言葉が強すぎると分かっている。
でも、ここまで来たら弱い言葉では足りない。
莉緒は泣きながら笑った。
自分でも壊れているのが分かる。
「私、破談を選んだんですよ。
陸くんの幸せのために、って。
本当は、私が壊れないために選んだのに!」
泣き声が、部屋に落ちる。
外の雨が止んでいるのに、室内だけ雨季だ。
陸が低い声で言った。
「……全部、俺のせいだ」
その言葉が、また腹立たしい。
“俺のせい”で終わるなら、莉緒の苦しさは何だったのか。
「そうです!」
莉緒は叫ぶように言った。
叫ぶのに、声は震えて弱い。
弱いからこそ、本気だ。
「でも、今さら“全部俺のせい”って言われても、戻れないんです!
戻れないくらい……傷ついたんです!」
莉緒は息を吸って、吐く。
泣きながら、呼吸が乱れる。
でも、止まらない。
止まったら、また仮面に戻ってしまう。
陸が一歩、近づいた。
今度は、強引に掴まない距離。
触れない距離。
「……莉緒。
俺は、お前を守るって言いながら、お前を孤独にした」
孤独。
その言葉が、やっと莉緒の心に届く。
届いたから、涙がさらに落ちる。
「……そうです」
莉緒は嗚咽の合間に言った。
「私、ずっと一人でした。
あなたの隣にいるのに、一人だった」
その一言で、陸の顔が歪んだ。
初めて、陸が壊れそうな顔をした。
莉緒は続けた。
泣きながら、でも最後まで言い切るために。
「私、あなたを好きだった。
唯一の人だった。
だから、信じたかった」
信じたかったのに。
信じる材料がないまま、信じろと言われた。
それがどれほど残酷か。
莉緒は震える声で、最後の刃を置いた。
「……これからは、言ってください。
守るなら、黙るんじゃなくて。
私の手を取って、私の目を見て、言ってください」
陸が息を呑む。
頷く。
言葉が出ないほど、胸が詰まっている。
莉緒は涙を拭わなかった。
拭ったら、また仮面に戻ってしまうから。
そして、初めて気づく。
怒りは、愛の裏返しじゃない。
怒りは、“自分を守る力”だ。
莉緒は泣きながら、少しだけ背筋を伸ばした。
壊れたのではなく、やっと生きた。
——莉緒は初めて爆発した。
陸はその爆発を受け止め、雨上がりの誓いを差し出す。
言葉で、行動で、今度こそ。

