幼馴染の婚約者は、別の女に寄り添う

 応接室の空気は、薄く張りつめていた。
 机の上の紅茶は湯気を失いかけているのに、誰も口をつけない。
 温かさは今、邪魔だった。
 温かいものに触れたら、心が崩れてしまいそうだったから。

 莉緒は椅子に座り、膝の上で指先を握りしめていた。
 爪が掌に食い込み、痛い。
 その痛みで、なんとか現実に留まっている。

 陸は向かいに座っている。
 いつもの整った顔ではない。
 目の奥が疲れている。眠れていない影が残っている。
 それでも、その影が今は“嘘じゃない”証拠みたいに思えた。

「全部、話す」

 その言葉が、まだ空気に残っている。
 “全部”という単語は重い。
 でも、重い言葉を今夜こそ受け取らないと、莉緒はまた噂に殺される。

 莉緒は静かに言った。

「……私、怖いです」

 仮面の声ではなく、本当の声。
 口に出した瞬間、喉が熱くなった。

 陸は頷いた。
 頷き方が、珍しくゆっくりだった。
 “逃げない”という合図。

「……怖いことを言う。
 でも、嘘は混ぜない」

 莉緒は目を逸らさなかった。
 逸らしたら、また“知らないまま終わる”から。

 陸は一つ息を吐き、言った。

「最初に言う。
 九条麗奈とは——交際していない」

 はっきりした言葉。
 いつもの「違う」じゃない。
 “関係の定義”を伴った否定。

 莉緒の胸が、ほんの僅かに緩む。
 緩むのに、涙は出ない。
 まだ、次が怖い。

「……じゃあ、どうして」

 莉緒が絞り出すと、陸は視線を落とした。
 落とした視線の先にあるのは、机上の封筒。

 赤い角印。
 何度も見え隠れしてきた“言えない現実”。

 陸は封筒を手に取った。
 触れる指先が、一瞬だけ震えた。

「ここから先は、“守るための沈黙”だった部分だ」

 莉緒の喉が鳴る。
 守るため。
 その言葉に、どれだけ傷つけられてきたか。

 陸は封筒を開け、中から数枚の資料を取り出した。
 個人名の一部は黒塗り。
 数字と日付が並んでいる。
 そこにあるのは、恋愛ではない現実の匂い。

「九条家は——今、ある不正の線を抱えている」

 不正。
 莉緒の胸が冷える。
 見えた“金の影”が、ここで形になる。

 陸は続けた。

「表に出れば、九条家は終わる。
 でも終わる前に、巻き添えが出る」

 巻き添え。
 莉緒は息を止めた。

「……佐山だ」

 その一言で、世界が止まった気がした。
 父の会社。
 資金繰り。
 “西条の案件が繋げる”という父の声。
 すべてが一本に繋がる。

「九条側は、佐山不動産の資金繰りを握っていた。
 正確には、“握れる位置”にいた」

 陸は言葉を選ぶ。
 選ぶほど苦しい。

「融資の話。
 銀行筋への圧。
 噂の誘導。
 それらを組み合わせれば——佐山は簡単に折れる」

 莉緒の指先が冷たくなる。
 自分が“駒”だと思ったのは間違っていない。
 でも、その駒は恋愛の駒ではなく、金の駒だった。

 莉緒は震える声で言った。

「……じゃあ、私との婚約は」

 聞くのが怖い。
 答えが怖い。
 でも聞く。

 陸は首を振った。
 即答で、しかし乱暴ではなく。

「佐山との縁が重要なのは事実だ。
 でも——お前との婚約を決めたのは、それだけじゃない」

 莉緒の胸が痛む。
 嬉しいのに、痛い。
 嬉しいと認めたら、また傷つく気がして怖い。

 陸は続けた。

「俺は昔から、お前を——」

 言葉が詰まる。
 そこで陸は一度、深く息を吐いた。
 誤魔化さないための呼吸。

「……好きだった」

 短い告白。
 派手じゃない。
 でも、陸の口から出たことがすべてだった。

 莉緒の喉が熱くなる。
 泣きそうなのに、まだ泣けない。
 なぜなら、次の現実がある。

 陸は視線を上げ、真正面から言った。

「でも、その“好き”を言葉にする前に、九条の件が動いた」

 九条の件。
 麗奈が“事故”を作り始めた理由。

「最初は、九条家の関係者がホテルで倒れた。
 ——そこに第三者が絡んでいた」

 第三者。
 白石が言っていた“廊下で騒ぎがあった”の部分。

「倒れたのは、麗奈じゃない」

 莉緒が息を呑む。

「麗奈は、その場に“後から来た”。
 泣いていた。
 “助けて”と言った」

 「助けていただいて」が、別の色になる。
 事実はいつも、角度で毒にも薬にもなる。

 陸は続ける。

「九条家はその夜、ある証拠をホテルに残した。
 それを外に出されたくない。
 だから俺に“取引”を持ちかけた」

 取引。
 陸の沈黙の正体。

「——佐山不動産の融資。
 それを潰せる、と」

 莉緒の心臓が鳴る。
 冷たい音。

「条件は、二つだった」

 陸の声が低くなる。
 言うほど苦しい条件。

「一つ。九条家の名誉を表で傷つけないこと。
 二つ。麗奈を“見捨てない”こと」

 麗奈の脅しが、ここで正体を現す。

「見捨てない、というのは——
 否定しない。
 距離を置きすぎない。
 世間に“見せる”形を維持する、という意味だった」

 莉緒の胸が締めつけられる。
 つまり、ホテルも、発表会の席も、麗奈の袖の指先も——
 全部、“見せるための形”だった。

「……だから、私は」

 莉緒の声が震える。
 言い切れない。
 でも、言葉にしないと崩れる。

 陸は頷いた。
 頷きが、謝罪そのものだった。

「お前を傷つけた。
 俺がそれを許した。
 “守るため”のつもりで——一番傷つけた」

 陸は拳を握りしめ、声を絞る。

「発表会の席も、俺が止められなかった。
 止めれば“次”が来る。
 “次”が来れば、佐山が折れる。
 ——そう脅された」

 莉緒の喉が痛む。
 自分はずっと、恋愛の敗者だと思っていた。
 でも違う。
 自分は“脅迫の舞台装置”にされていた。

「……どうして、私に言わなかったの」

 莉緒が問うと、陸は目を伏せた。

「言えば、お前が標的になる」

 陸の声は低い。
 一つ一つが重い。

「九条は、弱さを武器にできる。
 噂を武器にできる。
 金を武器にできる。
 ——お前が知ったと分かれば、もっと露骨に来る」

 莉緒の胸の奥に、怒りが灯る。
 自分が怒れなかった“善意の毒”の正体が、ここにある。

「じゃあ……私が苦しむのは、仕方ないってこと?」

 自分でも驚くほど、声に棘が混じった。
 棘が混じるのは、初めてだ。
 それは、生きている証拠。

 陸が顔を上げる。
 その目は、まっすぐだった。

「仕方ないなんて思ってない。
 だから俺が全部被るって決めた」

 覚悟が、ここで回収される。

「記事が出ても、俺が矛先を受ける。
 佐山に触れさせない。
 お前に触れさせない」

 莉緒の胸が痛む。
 守られることが、嬉しい。
 でも、守られるだけでは足りない。
 莉緒はもう、“言葉”が欲しい。

「……私のこと、どう思ってるの」

 問いは、恋の問い。
 今さら? と自分でも思う。
 でも、今だから聞かなきゃいけない。

 陸は一拍置いて、はっきり言った。

「俺の隣にいてほしい。
 ——政略じゃなく。
 契約じゃなく。
 俺が望む形で」

 その言葉で、莉緒の喉が熱くなる。
 涙が、やっと一滴だけ落ちた。

 でも、落ちた途端に怒りも湧く。
 怒りと涙は、同じ場所から出る。

「……じゃあ、どうして、もっと早く」

 莉緒の声が震えた。
 震えは弱さじゃない。
 抑えてきたものの崩壊だ。

 陸は唇を噛み、低く言う。

「怖かった。
 お前を失うのが怖くて——
 言えば失うと信じてた」

 本音が、ここでもう一度刺さる。
 陸の弱さ。
 その弱さが、莉緒を傷つけた。

 莉緒は、メモの束を机に置いた。
 隼人の紙片、部屋番号、支配人の言葉。
 それらが、今夜の証拠だ。

「……分かった」

 莉緒は言った。
 分かった、は許すではない。
 理解した、という意味。

「でも、私の心は——簡単に戻らない」

 陸が頷く。
 頷きが、覚悟の形。

「戻させてくれ。
 言葉でも、行動でも。
 ——今度は黙らない」

 莉緒の胸の奥で、最後の糸が震えた。
 切れるか、繋がるか。
 その境目にいる。

 そして次の章で、その糸は一度、切れるほど爆発する。
 莉緒は初めて怒り、初めて泣く。
 「信じたかったのに」と。