雨は止んでいた。
止んだ空の下で、街はいつもよりうるさかった。
週刊誌の見出しは駅の売店に並び、SNSの話題は人の口から口へと移る。
“西条の婚約”は、もう個人の恋ではなく、世間の娯楽になっていた。
陸は本社の会議室に一人残っていた。
神原も城戸も帰した。
帰したのは、これ以上“段取り”の言葉を聞いたら、息ができなくなる気がしたからだ。
机上には週刊誌のコピー。
ホテル。
発表会の席。
破談。
佐山不動産。
断片が並ぶ紙は、刃の寄せ集めみたいだった。
陸はそれを見ないように裏返し、代わりにスマートフォンを握った。
画面に映るのは、莉緒の名前。
何度も呼び出しボタンに指を置いて、離した。
(今さら、何を言う)
(言えなかったくせに)
赤い角印の封筒が視界の端に入る。
守秘。
脅迫。
九条家。
佐山を守る条件。
陸は目を閉じた。
閉じた瞼の裏に浮かぶのは、莉緒の背中だった。
「幸せのために離れます」と言って、振り返らなかった背中。
(離れるな)
(……もう、手遅れかもしれない)
そのとき、城戸から短い連絡が入った。
『佐山様が来られています。受付に』
陸の心臓が跳ねた。
跳ねた瞬間、恐怖が来る。
来たのは嬉しさではなく、“終わりを告げに来た”恐怖だった。
陸は立ち上がった。
立ち上がる膝が僅かに震える。
自分がこんなにも弱いと、誰にも見せたくなかった。
廊下を歩き、応接フロアへ向かう。
ガラス張りの壁に自分の姿が映る。
整ったスーツ。整った表情。
——整っているふりをして、胸の中だけが荒れている。
応接室の扉を開けると、莉緒が立っていた。
コートは地味な色。髪はきちんとまとめられている。
でも、目は少し赤い。
泣いたのか、眠れなかったのか。
どちらにしても、陸の胸が痛んだ。
「……莉緒」
名前を呼ぶ声が掠れた。
掠れたことに自分で驚く。
莉緒は頭を下げた。
丁寧な礼。
丁寧すぎる礼が、距離を突きつける。
「お時間をいただき、ありがとうございます」
その言葉は婚約者の言葉ではない。
取引先の言葉だ。
陸は扉を閉め、ゆっくりと息を吐いた。
吸うより、吐く方が怖い。
吐いた瞬間、言葉がこぼれてしまいそうだから。
莉緒が言った。
「……今日の件、見ました」
“見ました”
週刊誌。
見出し。
噂が現実になる日。
陸は頷いた。
「……俺も」
それだけで空気が凍る。
言葉が足りないまま、互いの心だけが痛む。
莉緒は続けた。
静かに、でも逃げない声で。
「私、ホテルに行きました」
陸の瞳が揺れた。
驚きより先に、怖さが来る。
莉緒がどこまで知ったのか。
そして、どこまで傷ついたのか。
「……何を」
陸が問うと、莉緒は短く言った。
「鍵が、繋がりました」
鍵。
部屋番号。
防犯記録。
——隼人が渡したあの紙片の道。
陸は喉が鳴るのを感じた。
言えないことが、もう隠せなくなる。
でも陸は、ここで言い訳をしなかった。
理由を並べれば、また“今は言えない”に逃げそうだったから。
陸が先に言った。
「……謝らせてくれ」
莉緒のまつ毛が僅かに動いた。
驚きか、警戒か。
分からない。
陸は続けた。
言葉を選ぶより先に、胸の中の本音を吐き出す。
「怖かった」
声が震えた。
御曹司の声じゃない。
一人の男の声だ。
「……失うのが、怖かった」
その言葉は、切実だった。
でも同時に、遅すぎた。
莉緒は何も言わない。
言わない沈黙が、陸の喉を締める。
陸は、視線を逸らさずに言った。
「俺はずっと、守ることを言い訳にした」
守る。
その単語は、莉緒を何度も傷つけてきた。
“守るための沈黙”は、莉緒の心を殺した。
陸は一歩、距離を詰める。
触れない。
でも、逃げない距離まで。
「お前が壊れてるのに、俺は“正しさ”にしがみついてた」
正しさ。
火消し。
段取り。
九条への配慮。
佐山を守る条件。
陸の声が低くなる。
「お前を守るために黙ったのに、結果として一番傷つけた」
莉緒の唇が僅かに動いた。
でも声にならない。
声にしたら、崩れるのかもしれない。
陸は、胸を押さえるように息を吐いた。
「……ごめん。
“違う”だけじゃ、お前を救えないのに。
それでも俺は、“違う”しか言えなかった」
言えなかった理由を言わない。
まだ言えない現実がある。
でも今はまず、言い訳より先に謝罪を差し出す。
陸は、視線を落とした。
落とした視線の先に、莉緒の手がある。
あの手首。
あの時、掴んでしまった手。
陸は手を伸ばさなかった。
伸ばしたら、また奪ってしまうから。
「……俺は、お前を手放したくない」
莉緒が小さく息を吸う。
吸った息が震える。
その震えが、陸の胸を裂く。
莉緒はやっと言った。
声は小さい。
でも、はっきりしている。
「……手放したくないなら」
莉緒の目が、陸を真っ直ぐに捉える。
初めて、仮面じゃない目。
「どうして、黙ったんですか」
その問いは、ずっと続いている。
答えが欲しかった問い。
陸は喉が詰まった。
ここで言えば、莉緒を危険に巻き込む。
でも言わなければ、また失う。
陸の胸の中で、二つの恐怖がぶつかる。
守る恐怖と、失う恐怖。
陸は、震える息のまま言った。
「……言えば、お前が危険になる」
やっと出た、最初の“理由”。
短い。
でも今までで一番、重い。
莉緒の眉が僅かに寄る。
理解できない、ではない。
理解したくないほど、重い現実。
陸は続けた。
まだ全ては言えない。
でも、嘘は混ぜない。
「九条は、ただの噂の相手じゃない。
——佐山にも関わる」
莉緒の瞳が揺れる。
父の電話。
銀行の名前。
そして、九条の影。
陸は、そこで言葉を止めた。
止めたのは逃げではなく、限界だからだ。
ここから先は、莉緒を守るための現実が絡む。
それでも陸は、もう一度、謝罪を差し出した。
「……でも、言えないまま傷つけたのは俺だ。
お前が疑ったのは、当然だ。
お前が身を引こうとしたのも——当然だ」
莉緒の目が潤む。
潤むのに、涙が落ちない。
泣く一歩手前で、ずっと止まっている。
陸は低く言った。
「だから、今度は俺が追う」
追う。
その単語が、莉緒の胸を震わせる。
遅い。
でも、初めて聞いた強い言葉。
陸は自分に言い聞かせるみたいに、そして莉緒に誓うみたいに続けた。
「怖かった。
失うのが。
でも、黙って守るふりをして失う方が、もっと怖い」
その言葉は、ようやく“恋”の形をしていた。
莉緒は、しばらく黙っていた。
沈黙の中で、胸の中の何かが揺れている。
揺れたら、また痛む。
でも、揺れなければ、何も始まらない。
莉緒が小さく言った。
「……じゃあ、教えてください」
教えて。
その一言が、次の章への扉になる。
陸は頷いた。
頷いた瞬間、城戸からの連絡がまた頭をよぎる。
九条は動く。
記事は出る。
佐山は危ない。
それでも陸は、逃げないと決めた顔をした。
「全部、話す」
——陸は全告白する。
麗奈に寄り添った理由。
脅迫。
不正の尻尾。
佐山を守る条件。
そして、莉緒を失う恐怖の正体。
止んだ空の下で、街はいつもよりうるさかった。
週刊誌の見出しは駅の売店に並び、SNSの話題は人の口から口へと移る。
“西条の婚約”は、もう個人の恋ではなく、世間の娯楽になっていた。
陸は本社の会議室に一人残っていた。
神原も城戸も帰した。
帰したのは、これ以上“段取り”の言葉を聞いたら、息ができなくなる気がしたからだ。
机上には週刊誌のコピー。
ホテル。
発表会の席。
破談。
佐山不動産。
断片が並ぶ紙は、刃の寄せ集めみたいだった。
陸はそれを見ないように裏返し、代わりにスマートフォンを握った。
画面に映るのは、莉緒の名前。
何度も呼び出しボタンに指を置いて、離した。
(今さら、何を言う)
(言えなかったくせに)
赤い角印の封筒が視界の端に入る。
守秘。
脅迫。
九条家。
佐山を守る条件。
陸は目を閉じた。
閉じた瞼の裏に浮かぶのは、莉緒の背中だった。
「幸せのために離れます」と言って、振り返らなかった背中。
(離れるな)
(……もう、手遅れかもしれない)
そのとき、城戸から短い連絡が入った。
『佐山様が来られています。受付に』
陸の心臓が跳ねた。
跳ねた瞬間、恐怖が来る。
来たのは嬉しさではなく、“終わりを告げに来た”恐怖だった。
陸は立ち上がった。
立ち上がる膝が僅かに震える。
自分がこんなにも弱いと、誰にも見せたくなかった。
廊下を歩き、応接フロアへ向かう。
ガラス張りの壁に自分の姿が映る。
整ったスーツ。整った表情。
——整っているふりをして、胸の中だけが荒れている。
応接室の扉を開けると、莉緒が立っていた。
コートは地味な色。髪はきちんとまとめられている。
でも、目は少し赤い。
泣いたのか、眠れなかったのか。
どちらにしても、陸の胸が痛んだ。
「……莉緒」
名前を呼ぶ声が掠れた。
掠れたことに自分で驚く。
莉緒は頭を下げた。
丁寧な礼。
丁寧すぎる礼が、距離を突きつける。
「お時間をいただき、ありがとうございます」
その言葉は婚約者の言葉ではない。
取引先の言葉だ。
陸は扉を閉め、ゆっくりと息を吐いた。
吸うより、吐く方が怖い。
吐いた瞬間、言葉がこぼれてしまいそうだから。
莉緒が言った。
「……今日の件、見ました」
“見ました”
週刊誌。
見出し。
噂が現実になる日。
陸は頷いた。
「……俺も」
それだけで空気が凍る。
言葉が足りないまま、互いの心だけが痛む。
莉緒は続けた。
静かに、でも逃げない声で。
「私、ホテルに行きました」
陸の瞳が揺れた。
驚きより先に、怖さが来る。
莉緒がどこまで知ったのか。
そして、どこまで傷ついたのか。
「……何を」
陸が問うと、莉緒は短く言った。
「鍵が、繋がりました」
鍵。
部屋番号。
防犯記録。
——隼人が渡したあの紙片の道。
陸は喉が鳴るのを感じた。
言えないことが、もう隠せなくなる。
でも陸は、ここで言い訳をしなかった。
理由を並べれば、また“今は言えない”に逃げそうだったから。
陸が先に言った。
「……謝らせてくれ」
莉緒のまつ毛が僅かに動いた。
驚きか、警戒か。
分からない。
陸は続けた。
言葉を選ぶより先に、胸の中の本音を吐き出す。
「怖かった」
声が震えた。
御曹司の声じゃない。
一人の男の声だ。
「……失うのが、怖かった」
その言葉は、切実だった。
でも同時に、遅すぎた。
莉緒は何も言わない。
言わない沈黙が、陸の喉を締める。
陸は、視線を逸らさずに言った。
「俺はずっと、守ることを言い訳にした」
守る。
その単語は、莉緒を何度も傷つけてきた。
“守るための沈黙”は、莉緒の心を殺した。
陸は一歩、距離を詰める。
触れない。
でも、逃げない距離まで。
「お前が壊れてるのに、俺は“正しさ”にしがみついてた」
正しさ。
火消し。
段取り。
九条への配慮。
佐山を守る条件。
陸の声が低くなる。
「お前を守るために黙ったのに、結果として一番傷つけた」
莉緒の唇が僅かに動いた。
でも声にならない。
声にしたら、崩れるのかもしれない。
陸は、胸を押さえるように息を吐いた。
「……ごめん。
“違う”だけじゃ、お前を救えないのに。
それでも俺は、“違う”しか言えなかった」
言えなかった理由を言わない。
まだ言えない現実がある。
でも今はまず、言い訳より先に謝罪を差し出す。
陸は、視線を落とした。
落とした視線の先に、莉緒の手がある。
あの手首。
あの時、掴んでしまった手。
陸は手を伸ばさなかった。
伸ばしたら、また奪ってしまうから。
「……俺は、お前を手放したくない」
莉緒が小さく息を吸う。
吸った息が震える。
その震えが、陸の胸を裂く。
莉緒はやっと言った。
声は小さい。
でも、はっきりしている。
「……手放したくないなら」
莉緒の目が、陸を真っ直ぐに捉える。
初めて、仮面じゃない目。
「どうして、黙ったんですか」
その問いは、ずっと続いている。
答えが欲しかった問い。
陸は喉が詰まった。
ここで言えば、莉緒を危険に巻き込む。
でも言わなければ、また失う。
陸の胸の中で、二つの恐怖がぶつかる。
守る恐怖と、失う恐怖。
陸は、震える息のまま言った。
「……言えば、お前が危険になる」
やっと出た、最初の“理由”。
短い。
でも今までで一番、重い。
莉緒の眉が僅かに寄る。
理解できない、ではない。
理解したくないほど、重い現実。
陸は続けた。
まだ全ては言えない。
でも、嘘は混ぜない。
「九条は、ただの噂の相手じゃない。
——佐山にも関わる」
莉緒の瞳が揺れる。
父の電話。
銀行の名前。
そして、九条の影。
陸は、そこで言葉を止めた。
止めたのは逃げではなく、限界だからだ。
ここから先は、莉緒を守るための現実が絡む。
それでも陸は、もう一度、謝罪を差し出した。
「……でも、言えないまま傷つけたのは俺だ。
お前が疑ったのは、当然だ。
お前が身を引こうとしたのも——当然だ」
莉緒の目が潤む。
潤むのに、涙が落ちない。
泣く一歩手前で、ずっと止まっている。
陸は低く言った。
「だから、今度は俺が追う」
追う。
その単語が、莉緒の胸を震わせる。
遅い。
でも、初めて聞いた強い言葉。
陸は自分に言い聞かせるみたいに、そして莉緒に誓うみたいに続けた。
「怖かった。
失うのが。
でも、黙って守るふりをして失う方が、もっと怖い」
その言葉は、ようやく“恋”の形をしていた。
莉緒は、しばらく黙っていた。
沈黙の中で、胸の中の何かが揺れている。
揺れたら、また痛む。
でも、揺れなければ、何も始まらない。
莉緒が小さく言った。
「……じゃあ、教えてください」
教えて。
その一言が、次の章への扉になる。
陸は頷いた。
頷いた瞬間、城戸からの連絡がまた頭をよぎる。
九条は動く。
記事は出る。
佐山は危ない。
それでも陸は、逃げないと決めた顔をした。
「全部、話す」
——陸は全告白する。
麗奈に寄り添った理由。
脅迫。
不正の尻尾。
佐山を守る条件。
そして、莉緒を失う恐怖の正体。

