幼馴染の婚約者は、別の女に寄り添う

 朝、雨は止んでいた。
 その代わりに空気が冷たく澄み、何もかもがくっきり見える。
 くっきり見える日は、嘘も誤解も、傷も、隠れない。

 週刊誌の発売日だった。
 駅の売店、コンビニ、オフィスの受付。
 あちこちに“見出し”が並び、世間が勝手に物語を完成させていく。

 莉緒はまだ外に出ていなかった。
 出たら刺されるのは分かっている。
 でも出ないと、“逃げている婚約者”としてまた噂が増える。

 机の上には、部屋番号のメモと、白石支配人の言葉をまとめた小さなノート。
 それから、今日の新聞の折り込み広告に混ざっていた週刊誌の宣伝チラシ。
 紙は薄いのに、胸を押し潰す重さがある。

 母がリビングで小さくため息をつく音が聞こえた。
 父の電話の声も、今日はいつもより擦れている。
 佐山家の中の空気が、現実の重さでさらに沈んでいく。

(私が、いなくなれば)
(少しは楽になるのかな)

 口にした言葉が、また胸に戻ってくる。
 綺麗に終わる。
 そう思えば息ができる。
 でも、今日の見出しは“綺麗な終わり”を許してくれない。

 ——チャイム。

 黒川が応対し、廊下の向こうで低い声がした。

「……一条様でございます」

 隼人。

 莉緒の心臓が小さく跳ねる。
 跳ねた瞬間、罪悪感が来る。
 罪悪感の次に、呼吸が少し楽になる。

 その矛盾に、莉緒はもう慣れてしまっている。

 隼人は玄関ホールでコートの雨粒を払っていた。
 雨は止んでいるのに、隼人はどこか濡れている。
 多分、今朝早くから動いていたのだ。
 誰かのために動く人の匂い。

「……来た」

 莉緒が言うと、隼人は短く頷いた。

「出るぞ」

 命令みたいな言い方。
 でも押しつけじゃない。
 “家の中で潰れるな”という救命の言い方。

「どこへ……」

「人の目が少ないとこ」

 そう言って、隼人は視線を逸らした。
 莉緒が“噂”で潰されるのを知っている目。

 黒川が車を回そうとするのを、隼人が手で止めた。

「徒歩でいい。近い」

 徒歩。
 車よりも遅い。
 遅いから、莉緒の呼吸が追いつく。

 二人は屋敷の裏手の小道へ出た。
 庭の木々が雨の雫を落とし、葉がまだ濡れている。
 土の匂いがする。
 花の香りじゃない匂いは、麗奈を思い出させない。

 しばらく、言葉はなかった。
 足音と、鳥の声だけ。

 隼人がようやく口を開いた。

「今日、出た」

 それだけ。
 “週刊誌”と言わない。
 言わなくても分かるから。

 莉緒は頷いた。
 頷くと喉が痛い。
 痛いのに泣けない。

「見た?」

 隼人が聞く。
 責めない声。
 でも、逃げ道もない声。

「……まだ」

「見なくていい。今は」

 “今は”。
 陸が使うと痛む言葉。
 隼人が使うと守りになる言葉。
 同じ二文字が、こんなに違う。

 隼人は少し歩幅を落とし、莉緒の横顔を盗み見るように言った。

「莉緒。俺は今日、線を引く」

 線。
 その単語が胸に落ちる。
 隼人はいつも、踏み込みすぎない男だった。
 その隼人が“線を引く”と言うのは、何かが限界だということ。

「……線?」

 莉緒が聞くと、隼人は頷いた。

「これ以上、俺が“寄り添う”のはやめる」

 その言葉は冷たいのに、優しかった。
 寄り添うことが、陸を壊す。
 寄り添うことが、莉緒をさらに拗らせる。
 隼人はそれを知っている。

「私が……迷惑だった?」

 莉緒の声が掠れた。
 “迷惑じゃない”と言ってほしくて聞く質問。
 自分でも卑怯だと思う。

 隼人は即答した。

「迷惑じゃない」

 そして、続けた。

「でも、俺が近いほど、お前は逃げ道にする。
 逃げ道にしていい。
 でも、逃げ道にし続けたら、お前は一生“選ばれない側”に立つ」

 その言葉が、痛かった。
 痛いのに、優しかった。
 優しいのは、嘘じゃないからだ。

 隼人は立ち止まり、莉緒の前に回り込んだ。
 莉緒を見下ろさないように、少しだけ屈む。
 目線を合わせる。

「莉緒。君が選ぶべき人がいる」

 その一言で、胸が震えた。
 隼人は「俺を選べ」と言わない。
 言わないことで、莉緒を守る。

 莉緒は唇を噛んだ。

「……でも、陸は」

 陸の名前を出した瞬間、喉が痛んだ。
 痛むということは、まだ好きだということ。

 隼人は低く言う。

「陸が好きなんだろ」

 言い当てられると、逃げ場がなくなる。
 逃げ場がなくなると、息が苦しくなる。

「好きなら、好きだって認めろ。
 認めた上で、事実を見ろ。
 噂じゃない。
 “お前の目で見た事実”を」

 
 それが、今、莉緒の手の中にある。

 莉緒は視線を落とした。
 自分の指先が震えている。
 震えているのに、少し温かい。

「……私、怖い」

 ようやく出た本音。
 仮面じゃない声。

 隼人は頷いた。

「怖いのは当たり前だ。
 でも、怖いからって“身を引く”のは、麗奈の思うツボだ」

 麗奈。
 その名前が出た瞬間、莉緒の胸に怒りが灯る。
 善意の毒。
 正しさで刺す笑顔。
 そして金の匂い。

「……私、陸を責めたいわけじゃない」

 莉緒が言うと、隼人は短く言った。

「分かってる。
 だから、責めるな。
 ——聞け」

 聞け。
 その命令は、強いのに優しい。

「陸は言えない事情がある。
 でも、言えないまま失うなら、それは陸の責任だ。
 お前が背負うな」

 背負うな。
 その言葉が、莉緒の胸をほどく。

 隼人は少しだけ視線を逸らして言った。

「俺は、ここまで」

 線引き。
 寄り添いの終わり。

 でも終わりではない。
 莉緒に“選択”を返すための終わりだ。

 莉緒は小さく頷いた。
 頷いた瞬間、涙が出そうになった。
 出そうになって、莉緒は必死に瞬きをした。

 隼人が最後に言った。

「迷ったら、これを思い出せ。
 お前は、誰かの都合のいい駒じゃない」

 その一言が、胸の奥の何かを揺らした。
 揺れたのは、怒り。
 悔しさ。
 そして、まだ残っている恋。

 隼人は踵を返し、少しだけ距離を取った。
 距離を取ることで、莉緒の道を空ける。

「行け」

 短い命令。
 背中を押す声。

 莉緒は、その場で立ち尽くした。
 そして、ようやく一歩踏み出す。

 ——陸のところへ。
 噂ではなく、事実を持って。
 自分の人生を取り戻すために。

 この章で、隼人は“避難所”を終わらせた。
 莉緒が本当の意味で選び直すために。